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クローゼットを漁る。人間は生きるうえでずいぶんたくさんの服を必要とするのだなあと思う。見た目を気にする、という考えは、生物は子孫を残してなんぼ、そのためには異性にモテなければならないことを考えれば当然の帰結かもしれない。などと言えば服は文化だと怒られそうだが。
奥から、カバーのかかったハンガーを引き上げる。カバーを剥き、朝の陽ざしに掲げて見ると、人工的な黒が滲むように現れる。角度を変えて服を閲し、これが濃紺のスーツではなく歪みない黒の喪服であることを確認する。以前、親戚の葬式で取り違え、恥じ入ってしまったことがある。もっとも、誰も間違いに気づかなかったが。
私は今着ているスーツを脱いで喪服に着替えた。黒を纏うと身が引き締まるような、自分の体と世界の輪郭線がはっきり区切られるような感覚がある。ささっと裾を払い、服を体になじませる。臭っていた樟脳が次第次第に香を弱め、まるで清浄な空気に住んでいたかのように喪服が幽世から現世へ移り込んでいく。
すっ、と黒のネクタイを締め、ポケットに家の鍵と財布を詰め、それから食卓の上の、二つに割れた指輪を手に取る。指輪は朝の光に薄紫に輝き、輪郭は透明に透けているように見える。その儚げな指輪を用心深くジャケットのポケットの内へ沈める。と、指が硬い何かに当たり引き出せば名刺だった。角が摩耗で丸くなったりせずぴしっと四角なその名刺には、吉村喜利子、農学部一回生、それから小さなスマイルの絵。
あ、と言って、ああ、と納得の言葉が漏れる。どこかに収納したという記憶はあるのに肝心のどこかが思い出せず行方不明になっていた名刺は、ここにあったか。私はしげしげと名刺を眺めてしまう。四隅が丸くなっていない生真面目さがいかにも彼女らしいな、と思う。これも、言うなれば彼女を表している。と思いながら、きっと角が丸くなっていたら丸くなっていたで自分はここに彼女らしさを見出すんだろうな、とも思う。
その新たに発見された、なんて探検用語を使いたくなる名刺は結局名刺入れに収納し、上からコートを羽織り会社に今日は休みますと一報を入れて私はアパートを出た。
外の空気はよく冷えて、まるで赤ワインのボトルを肌に押し付けられているようだ。コートを身に寄せる。この縮こまる動作だけで自分が温かい何かに守られているような気になるが、息を吐けば白く、現実を思い知る。剥かれた海老のような無防備さ。人間とはなんて弱々しい生き物なんだろう。だから羽織る。だから群れる。だからつがいになる。のだろうか。
電線の上に膨ら雀が見える。昔は雀を食料にしていたそうだけど雀の羽毛を剥ぐのは鶏よりも大変なんだろうか易しいのだろうか、と考える。むしった羽毛は帽子に、雀本体はあぶり焼き、なんてなことを想像すると、少し楽しい気分になった。
朝、勤め人が動き回る時間に通勤鞄を持たず歩いている自分をどこか奇異に感じながらも、当然の摂理、歩けば進む、進めばどこかにたどり着く、私は最寄り駅にたどり着いた。鳩がおどおどしながらも果敢に、人々の合間をすり抜け餌をついばんでいた。