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Int. 1

 物心ついた頃から野原で昆虫を追いかけていた私は、幼稚園入学とともに昆虫図鑑を買ってもらい、晴れの日は外に出かけ雨の日は図鑑を眺め、と昆虫漬けの生活を送り、テレビの動物番組を見るにつれ動物にも興味関心を抱きシートン動物記とファーブル昆虫記に耽溺、実際水生昆虫採集で川で溺れかけたのだけれども、そんな私の好きな科目は当然の理科、それも生物に限る、といった有り様で、しかしそれが功を奏してか高校時代、進路を迷う人の多くを尻目に私は迷うことなく生物を選び抜き、大学は理学部生物学科に入ることができた。

 これからどんな生活が待ち受けているのだろう。と心輝かしていた私は少なからず失望した、というのは大学の一回生は一般教養として基礎科目を履修させられる、つまり興味のない科目も学ばなければ進級できないと知ったからで、悩ましい。本末転倒だ。と思い、しかし、微かな救いとして高校で習う生物学の範囲を、半年かけて復習できる授業があり、本格的な授業の始まる二回生の準備体操のつもりで、件の基礎生物学を履修することにした。

 入学の狂騒感から目の覚めた、春の終わりの頃だった。五限目の基礎生物学、小さな教室に講師が黒板に白墨の音を響かせていて、外、開いた窓からは野球部の打撃音が聞こえていた。授業に集中するでもなく意識の逍遥に専心するでもなく、私は時折ぼんやり気を抜きながらも真面目に授業を受けていた。

 細胞分裂、核、染色体、云々。すべて高校で習った話で目新しさもなく、牛が食物を反芻するのはこういう気分なのかと思う。さっきまで食べていた物が、あ、そうだこんな味だった、みたいな。

 細胞分裂の過程を表した絵をノートに書き写していると、不思議な気分になる。私の体中、今シャーペンを握っている指先でも律儀な細胞分裂が行われていて、新しい私が始まっているのだ。あるいはシャーペンとの摩擦に死滅する細胞もいるのだろうか。はく離した細胞はもはや生きていないと言えるのだろうか。そんな単純なことさえ私には答えが出せず、生きるということの玄妙さ面妖さを思い知る。

 と、からり、と音がして、私は現実に戻って来た。床にシャーペンが落ちている。おそらく前方の席に座る女性の物なのだろう、私は拾ってやろうかとも思ったが放置することにした。自分で拾うだろう、わざわざ教えるまでもない。

 少し経ってから彼女が上体を左右に振り始め、どうやら足元を覗き込んでいるらしい。それから大仰に身を引いて机の中を覗き込み、何もないのを確認するとまたそわそわし出したが、最終的に筆箱から新たなペンを取り出したらしい。どんくさい奴だな、と私は思った。

 私は席を立ち、床のシャーペンを拾い上げそれで彼女の肩を叩いた。彼女はびくりと一瞬体を固め、振り返り、私が「落としましたよ」と言ってシャーペンを渡すと、曖昧に微笑んで受け取り何も言わずに前に向き直った。と、それに気づいた彼女の隣の女子が私に振り返り、「ありがとうございます」と小声で言い、申し訳なさそうに微笑した。私は軽く会釈を返し、再び授業に向かった。スコーン、という音とともに騒ぎ出す野球部の声が聞こえた。

 授業が終わり帰り支度をしていると、ふいに人の気配を感じたので顔を上げてみれば女性が二人、シャーペンを落とした女子が半歩下がり恥ずかしさに頬でも染めていそうな様子で立ち、半歩先んじる形で礼を言った女性が立っていた。眼鏡をかけた、凛とした印象の女性だった。

 眼鏡の女性が口を開いた。

「先ほどは、シャーペンを取っていただいて――」

「あ、別に」私はなんでもないことだと両手をかざして見せる。

 と、シャーペンを落とした当人が唐突に手を体の前で振り始めた。いきなりのことに固まっていると、眼鏡の女性がへりくだったような笑みを浮かべ、言った。

「この子、聴覚障害で。耳が聞こえないんです。だから喋ることができないんだけど――」

「あ、そうなの?」

 私はぶしつけに言ってしまい、聴覚障害の子に目を遣る。彼女が少し怯んだのを感じ、微笑んで目で大丈夫だと告げるとその子は安心したように微笑み返し、左手を横に、その甲に直角に乗せた右手をチョップしたように上へ離しながら軽く会釈する。

「ありがとう、って言ってます。耳が聞こえないからいきなりシャーペンが消えたように思って、それが後ろから渡された理由を思いつくまでにちょっとタイムラグが、で、言葉が出ないからお礼を言うには私の通訳が必要で」

「あ、それは」どんくさい奴だと思った自分を恥じる。いきなり手振り始めて何事かと思った自分を恥じる。彼女には理由があったのだ。万人が自分と同じ仕組みの世界に住んでいると、思い込んでいる自分がいる。自分の常識が他人の常識だとは限らないのだ。

 私とのやり取りを、かいつまんでだろう、眼鏡の女性が手話で言い直し、聴覚障害の子がうんうん頷いている。ふと、彼女の延長線上に黒板の染色体の絵が見え、私はごく軽い気持ちで尋ねてしまった。

「聴覚障害って、遺伝?」

 言って、まずいことを尋ねた、と思い顔をしかめる私に眼鏡の女性は笑顔で首を振る。

「あ、大丈夫ですよ、そんな腫物に触るような態度を取られると余計辛いって、喜利子よく言ってます。ちなみに聴覚障害は遺伝で、劣性遺伝子が二つ重なると聴覚障害が発生するんです。これは体細胞分裂じゃなく減数分裂の話ですけど」

「あ、そうなんだ。ていうか、減数分裂まだやってないけど、高校で?」

「そうですね、高校の生物でやりました。初めは減るっていうのがどうしても納得できなかったですけど」

 眼鏡の女性が悪戯っぽく笑う。えくぼができた。

 一瞬、聞こえないで授業に出てもしょうがないんじゃ?という考えが浮かんだが板書やプリントがある、それである程度補って、その後で眼鏡の女性に教わるんだろうな、と考え直し、別の質問をする。

「そう言えば、敬語だけど、オレ、二回生とかに見える?」

 眼鏡の女性は人当たりの良い笑顔を崩さず、言った。「同じ一回生かなあ、とは思ったんですけど、もし上級生だったらまずいんで、念には念を」

「はは。実は三回生」私が答える。

「え?」と眼鏡の女性が一瞬硬くなる。

「ごめん、嘘」と私は笑った。「一回生。入学ほやほや。理学部」

「もう。人が悪い」眼鏡の女性は小さく肩を竦め、それから自分たちは農学部の一回生だ、と言った。手話で横に立つシャーペンの彼女に説明すると、彼女は数回頷き、それから思い出したように鞄に手を突っ込み、中から紙束をつかみ出した。眼鏡の女性が驚いたように目を少し見開き、それから柔和な顔に戻る。

 シャーペンの彼女は紙束から一枚取り、私に手渡してきた。長方形の紙片には『吉村喜利子、農学部一回生』という文字と、それから小さくスマイルの絵が描かれていた。

 これは? という表情で彼女を見ると、彼女は素早い手話で眼鏡の女性に何か伝えた。

 眼鏡の女性が言う。「喜利子、喋れないから、自己紹介のために名刺を作ったの、入学前に。これなら渡すだけで、喋らないでも自己紹介できるからって。要するに友達になってほしいってことなんだけど……」

 眼鏡の女性が首を傾ける。もう一度名刺を見る。吉村喜利子。農学部一回生。農学部、ということは二年になったら農場のある別のキャンパスに移る子たちで、とも考える。

 二人に目を向ける。吉村喜利子の、不安げに構えた姿が目に入る。横で微笑む眼鏡の某。二人はきっと相棒で、この世を生きるうえで所謂『普通の人』より面倒が多かったに違いない。だから。いや、そんな腫物に触るような態度じゃなくて。

「オレ、理学部。一回生の、酒井広樹。こんな仰々しい友達のなり方は初めてで照れ臭いけど、オレでよければ、友達になってくれませんか?」

 手を差し出す。手話ではないがこれなら意味が通じるだろう。名刺をくれた彼女、喜利子は、少し躊躇って、それから未知の生物に触れるかのごとくゆっくり手を差し出し、私と握手した。

 スコーン、とまたグラウンドのほうで打球音がした。


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