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 注文した鶏の唐揚げと、オプションのライスとスープを置いて店員が下がっていった。私はそれを目で見送ってから、ゆかりに話しかけた。

「あれからもう、十年以上経つんだね」

「うん。なんか恐ろしいよね、時の経過って」ゆかりはため息をつきテーブルに肘をつこうとしたが行儀が悪いと思ったのだろう、引っ込め姿勢を正した。

「あの頃は想像つかなかったけど、もう三十路だもんね」笑って言う。

「あんまし女の子に歳の話題振らないの」ゆかりが頬に軽く空気を溜める。

「え、セクハラ気味?」

「半分冗談。半分本気」ゆかりが苦笑する。

「ま、食べながら、ね」私が言うと、誤魔化したぁ、とゆかりが意地悪く言ったが、それ以上は言わず料理を食べ始める。三人の思い出の鶏の唐揚げ。でも、あの時食べたものとは味が違う、レシピが違う、別物だと言える、けれども思い出は、鶏の唐揚げにまつわる思い出は不変だとも言える。あるいは思い出も経年劣化しているのかもしれない。もはや留まっているものなんて、ないのかもしれない。

「懐かしいよねぇ」ゆかりが何気ない調子で言う。

「うん」

「農学部で鶏の頸動脈切ってた時のこと、今も昨日のことみたいに思い出すもん」

 私が我流断末魔の手話をしようとするとゆかりは手で止めた。

「噴水っていうか、ほんと血がぴゅーって出るんだよ」

「すごいねってか、食事中にする話?」

「うん? まあ、グロテスクかもしれないけど、でも、実際そういう作業があってここに鶏の唐揚げが誕生してるわけだから」ゆかりが眉を寄せ眼鏡を光らせ唐揚げをじっと見つめている。

「まあね、命の大切さっていうか、なんだろう、ほら、あー……」

 私が言葉を探しているとゆかりが言い放った。

「儚いよね」

 ゆかりがじっと私の左手薬指を見つめる。私は少し身じろぎした。

「指輪って、結局どうやって割れたの?」

「どうって、二回目か三回目になるけど、特に何ということもなく、落としてとか踏んづけてとかじゃなくて、経年劣化としか言いようがないかな」

 私が足を動かした拍子にテーブルの下の彼女の足に当たり、私は慌てて足を引っ込めた。

「私たちも」ゆかりがもみあげの毛を掻き上げ耳に乗せる。「経年劣化、していってるのかなあ」

 やだなあ、と言ったゆかりの足が私の足に触れ、そのまま接触した状態で止まった。私も触れ合うがままにした。

 しばしの沈黙の後、ゆかりが言った。

「私たち、もっと会えば良かったのかな」

 止まっていた潮が、流れ始めるのを感じる。

「私たち、もっと会えば良かったよね」とゆかりがもう一度言った。

 ずっと劣化せずに形を保っていた時が、動き始めるのを感じる。

「そうだね」と返してみる。

「そうだよ」と返ってくる。

「そうだね。もっと、……もっと、会えば良かったんだよ。今になって、そう思う」

 私は意識して涼やかに笑って、しかし目線はゆかりの手元に向かってしまう。彼女も視線に気づき、鼻で笑うでもなくため息でもなく、小さく吐息を漏らした。

「ほんと、もっと会えば良かったって、今更思う」

 彼女の左手薬指に光る指輪は金属の、落としたり踏んづけたり、ましてや経年劣化で壊れるようなやわな物ではなかった。照明を反射して鈍く輝いている。

「もっと早く、割れててくれればよかった?」

 ゆかりの足が引き下がり、私の足は地面だけが支持する孤独を味わう。

「それは分からない。分からないけど、幼稚なおもちゃの割に、長持ちしたな、とは思う。これは本音」

 もしもの話。あるいはゆかりと付き合う未来が、あるいは私の指輪が彼女の指にはまっていることが、あったのかもしれない。あるいは通常の男女の仲のように、あるいは喜利子の指輪のように、遅かれ早かれ割れていたのかもしれない。あるいは、喜利子なしに私たちは出会わなかったかもしれない。こんな物語など、まるでなかったかのように。

 喜利子の言うように幼稚なおもちゃかもしれないけど、たしかにソロモンの指輪みたいな特殊能力もないけど、本物の指輪だったと思うよ。

 そう言ってゆかりは寂しげに微笑み、それ以上は喋らなかった。

 私たちは黙って食事し、それから会計を済ませて外へ出た。昼時だからか交通量が増えて車が行き交っている。「あ」とゆかりが唐突に、用意していたように言った。「私、寄るとこあるから。駅と反対方向」

 あ、うん、とまごついた返答をして、じゃ、と手を挙げたゆかりに何も言えず何もできず、私は駅に向かって、ゆかりは反対方向へと歩み出す。数歩歩いて私は、髪の毛を引かれるような思いで振り返った。離れた位置でゆかりも私を振り返っていた。ピーポーピーポーとどこからか救急車のサイレンがし、どんどん近づいてくる。私は声を出そうとして、代わりに、指を動かす。

 掌を相手に向け、親指を横に突き出し、他の指を握る。

 掌を相手に向け、他の指を握り込んだ状態で小指だけ垂直に立てる。

 手の甲を相手に向け、親指を垂直に立て、人差し指と中指は伸ばし他の指は握り込む。

 ストップのように相手に掌を掲げる。

 掌を相手に向け、中指を垂直方向に、親指を水平方向に伸ばし、人差し指も伸ばし、薬指と小指は握る。

 救急車が道路に見え、サイレンが近づいてくる。

 ゆかりの手が動いた。

 掌を相手に向け、親指を横に突き出し、他の指を握る。

 掌を相手に向け、他の指を握り込んだ状態で小指だけ垂直に立てる。

 手の甲を相手に向け、親指を垂直に立て、人差し指と中指は伸ばし他の指は握り込む。

 ストップのように相手に掌を掲げる。

 サムズアップのように握り拳から親指だけ立て、相手に向ける。

 救急車が間近を通りそのまま通り過ぎてサイレンの音がドップラー効果で変質しどんどん遠ざかって行った。


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