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大学二回生の夏、夏休み中の集中講義を終えて蒸し暑い夜に帰宅すると、郵便受けに手紙が入っていた。心当たりがなく、メールで事が済むご時世に誰が、と思い見れば喜利子の父からで、目の前で手を叩かれたような驚きに顔の赤くなるのを感じながら、私は机の上で開封した中身を読んだ。
拝啓。残暑厳しい時候ですが、お元気でしょうか。こちらはいつにも増して大汗を掻いておりますが変わりなく過ごしています。
さて、この度お手紙をいたしましたのは、喜利子に関して伝えるべきことがあるからです。遺品整理として娘の日記を読んでいたところ、貴方にとって重要な記述を発見し、内容が内容なのでお伝えすべきか悩みましたが、コピーを送らせていただくことにしました。貴方の未来に関することでもあるので、ご一読いただければ幸いです。ただただ貴方の未来の幸福をお祈り申し上げます。敬具。
折りたたまれている紙を広げる。喜利子の、角ばった几帳面な字が並んでいる。
××年10月10日。体育の日。大学に入ってから体育の授業がなくなり、楽だったのだけれど、ゆかりに誘われ農学部の子らとバレーした。危ないから指輪を外したのだけれど、バレーを終えるとなくなっていて焦って探し、佳苗ちゃんのバッグから出てきた。佳苗ちゃんは間違って入れちゃったのかもと言っていたけど、たぶん違う。ゆかりが動かしたんだと思う。初めは安全のためにだと思った、けど、もしかしてちょっとした意地悪で動かしたのでは?という思いが、流れ星のように唐突にわたしの脳裏をよぎった。
そこでわたしは、ようやく、一つの可能性に気づいた。ゆかりが広樹君を好きだってこと。いつも楽しそうに二人で喋ってたし、思い返せば六月の末、ライブに行った時、わたしがトイレから帰ってくると二人は手をつないでいた。あそこで何も感じ取らなかったわたしが鈍感だったのかもしれない。単なる友人関係だと思ってた。でも、そういう関係だったと考えれば、いろいろと行動と解釈が一致する。
無論、ゆかりが何を思って指輪を隠したか、直接訊いていないので分からない。そもそも彼女が隠したのかさえ不明で被害妄想の可能性もある。でも、もし、ゆかりが広樹君のことを好きだったとしたら?
ゆかりはわたしの告白を付き添って聞きながら、内心どう思っていたのだろう。出し抜くつもりなんてなかった、けど、結果的にわたしはゆかりから広樹君を奪ってしまったのではないだろうか? 指輪まで渡して。エンゲージリングなどと言って。どんな思いで、それを見ていたのだろう……。
ゆかりはよく言っていた。わたしの幸福の中に彼女の幸福もある、と。彼女の献身は彼女の幸福に繋がっているのだから気にするな、と。本心だと思う。でないと、高校生の頃からずっとわたしのそばで通訳して、うまくできないことは手助けしてなんて、できっこない。好意だけで成り立たせるのは無理だ。だからゆかりの幸せはわたしの中に在ったんだと思う。でも。
ゆかりの幸せは、ゆかり自身が見出し、獲得しなければならないものじゃ、ないの? 間接的にじゃなく直截に幸せを感じなきゃだめなんじゃ、ないの? あなたの幸せは本当にわたしの中に、あるの?
わたしの指輪。幼稚なエンゲージリング。ゆかりを広樹君から切り離し、今も遠ざけている物。そしておそらく、広樹君をゆかりから遠ざけている物でもある。わたしは縛った。二人の行動を、二人の気持ちを、縛り付けて無理やりわたしに向かせている。わたしはこの鎖を、幼稚なおもちゃを、叩き割らなきゃならない。でないとフェアじゃない。歪んだ関係でなく正しく三人であるためには、これを壊さなきゃならない。今更二人は好き合ってるのなんて訊けない。わたしはやらなくちゃならない。……でも。お願い。もう少しだけ……。
コピーを読んで私は、ゆかりを思った。この手紙は、きっとゆかりにも送られている。だったら、契約の切れた指輪を外し、私はゆかりと一緒になるべきだ。電話して、思いを告げるべきだ。誰に心が向いているのかは、私にはずっと前から分かっていたことなのだから。
が。
紙をつかんでいる手には、その左手薬指には、たしかに紫色の指輪が、幼稚なエンゲージリングがはまっている。割れずに欠けずに、たしかにここにある。
たとえ形だけの契約だとしても。
私は結局ゆかりに電話することはなかった。指輪の鈍い光ばかりを見ていた。