Int. 5
十一月一日。喜利子は死んだ。交通事故だった。
ふわふわとした感じ、とでも表現しようか、彼女の死の報を聞いた瞬間私は現実から幽体離脱して時間の干渉等一切から切り離されてしまったような気分だった。ここではないここ。私までもが死んだかのようだった。
遺体は空輸されたのだろう、喜利子の実家のある東京で通夜と葬式が行われ、情報の少し遅れた私とゆかりも東京へ向かい、葬式には何とか参列することができた。高校時代から付き添ってきたゆかりは葬儀の合間に親戚から挨拶されるなど丁重に扱われ、私はというと喜利子の恋人ということで話が通っていたらしい、胡乱な目で見る者もいたが彼女の両親には親切に接してもらえた。
「広樹君」と、遺体を荼毘に付した後、彼女の父親が話しかけてきた。
「はい」
「その」と父親は私の左手薬指を見る。「指輪なんだが」
「あ、はい」私は見やすいように手を差し出した。指輪は今でも座りが悪かった。
「その、喜利子からも聞いていたよ、二人だけの指輪、だとか」
「……はい」夏休みにドイツ旅行に行った時点でなんとなく気づいていたけれど吉村家は立派な家で、名家で、喜利子の父は明治時代の厳父のような立派な髭を生やしていた。私では不釣り合い、と暗に言われるのかと思った。
「喜利子がね」薄く微笑みながら、喜利子の父が切り出す。「今年のドイツ旅行に行った時、何かそわそわしていてね。何かあるなら言いなさいと言ったのに何も言わない。あまり鋭敏ではない私も、これは恋人がらみだなとすぐに分かったよ」
「……そうですか」
「それで、たまたま入った石屋に、水晶の結晶やら蛍石やらが置いてあったんだがね、中に、指輪があって。アメジストと書いてあったんだがアメジストなわけはないなと思った。そんな物を買わなくてもいいじゃないかと婉曲に言ったんだが、喜利子は昔から頑固なところがあってね、これを買うんだと聞かなかった。娘が頑固で、広樹君も困ったことがあるだろう?」
「……ごく、稀にですけど」私は控えめに笑ってみた。
父も苦笑する。「道端の自販機の前で、これを買う、買うのって、動かなくなったことがあってね。まだ幼稚園児の頃だったかな。それはもう、困らされてもう、……とにかく、喜利子は指輪を買うと言って頑として聞かなかった。それも二つだ、いよいよ男の気配で、父親としてまだ見ぬ君に嫉妬したよ」
どう反応してよいか分からず、私は恐縮の態でいた。
「いや、別に責めているわけじゃない」父は手を振りにこやかに笑う。「ただ、この指輪を好きな人に贈って、一緒に着けて、楽しくやっていることを、九月過ぎからかな? 長文で報告してきてね。幼稚なエンゲージリングだと自分で言っていたよ。その指輪が、あ、あ……」
父は言葉に詰まった。込み上げてくる涙を隠そうと片手で目元を覆い、唇を震わせている。私は続きを待った。
ふぅ、と息を吐いてから父が続けた。「まさか娘が交通事故に遭うとは思っていなかったからね、覚悟が足りなかったけど、帰って来て身体はぼろぼろだった。ショックだった。けど、不思議なことに、……いや、不思議でもなんでもないかな、末端だから。左手は綺麗でね、何の損傷もなかった。当然、喜利子の着けていた指輪も無事だった。欠けたりせずに無事だったんだ。君との」私の手の指輪を見る。「幼稚だけれど思いのこもったエンゲージリングは、無事だったんだよ……」再び私の目を見る。
「そうだったんですか……」私はそう答え、私に指輪を渡したあの日あの時を、彼女の震えを、無言だったゆかりを、ジージーうるさかった蝉の声を思い出す。あれから約二か月。私の指にはまった指輪は細かい傷でくすみ始めている。喜利子の父の言う通り、これはアメジストなんかじゃないだろう。幼稚な、子供騙しな指輪。
「あの、今、喜利子さんの指輪は、どこに?」
そう尋ねると喜利子の父は、眉尻を下げて悲しそうに笑った。
「棺桶の中で燃えてなくなったよ。本物のアメジストなら燃えないと思うんだがね」
その一言で、私は急に涙が止まらなくなってしまった。やるせなさが込み上げて、どうしようもない静寂が胸から喉にせりあがって来て、涙を止めることができなくなってしまった。ただただ悲しかった。大丈夫かい?と喜利子の父が背中をさすってくれる、その手が妙に大きく感じられ、いよいよ悲しかった。
喜利子のことで何かあれば連絡してくれるよう頼み、私とゆかりは東京を離れ下宿先に戻った。喜利子の四十九日には再び東京へ向かい、彼女が新しく入った墓に手を合わせた。立派な墓だった。
季節は喜利子の死など屁でもないかのように飛ぶように過ぎ、三月、ゆかりの引っ越しを依頼された私は手伝いをし、余り物として石鹸をもらった。ゆかりは、またね、と言った。以降、ゆかりとは共に行動しなかったが、年一回の喜利子の墓参りだけは一緒に行くことになった。