陽気さなどの体験
天井に届くほど背の高い押戸の向こう側の食堂から聞こえる一様に陽気な声には、その場にいる全員に、ムラはあるが確実に全体の隅々にまで行き届いているであろう一杯機嫌の空気が満ち満ちていることを僕に自然と想起させた。各人の小さな高揚の時間変化する波が、ある瞬間に奇跡的に重なることによって全体が、一人の人間として浮腫み浮き出て大笑いしているようなことを感じさせる空気。その声をやはり押戸の向こうと同様に一杯機嫌で陽気な気分にやや傾きかけている、酔いの兆候がおそらく頬に現れているだろう僕は聞きながら、その押戸と向かいあったキッチン流し台に一人向かって、いかなる説明もされずにこの宴会の主要人物から突如手渡された30㎝四方の木箱の中にいた、小さなスッポン2匹の首を切り落とすことに苦心していた。これは僕が戸の向こうと同様に陽気にはなれぬ理由でもあった。スッポンの調理の経験がほとんどない僕は、初めて調理した時のスッポンの大きさに比べた今回のスッポンの小ささに初め余裕を感じもしたのだが、実際に手にとって頭を握り首に刃を当てようとするとそれはヌルリと抜け落ちてしまう。繰り返す次第に苛々が募り、頭を握ることすらやめ、しゃにむに包丁を振り下ろす作業を繰り返しながらもなお元気のよいスッポン。挙句僕は指を切り落としかけて、刃がかすめた指先が白く三角形の形に傷になっいるのがスッポンの形に見えた。その後ゆっくりとこぼれる血を水道の水で流してからタオルで指を包み、なおも陽気な声の止まない押戸と直角にたつ壁に背をあずけて煙草を吸った。ステンレスのシンクの上で爪のかすれる音と、木箱の中からのボゴッボゴッという音を聞きながら。
そのようにして二本目の煙草を吸い終わり、ちょうどシンクの窪みから、その淵に手をかけて二足直立したスッポンが顔を出したとき、向こう側から一人の、これは目の周りに強烈なアイラインを引いて(僕の好みのメイクではあるのだけど!)、さらに眼鏡をかけているためこちら側からは目の位置を把握することのできない女が押戸から出てきた。一瞬顔に嫌悪の表情、つまり痣のようにすら見える真っ黒な目の周りが力み、そこに生まれた瞬間的な皺を僕は見出すことができた。しかしそれが僕の煙草の煙によるものだと気が付いたのはその時ではなかったのであるが。
トイレへ向かった彼女がしばらくして押戸の前まで戻ってくると、向こう側とは反対に僕の方へ、そのまま僕の前を通り過ぎ、流し台の上でゆっくりと、しかしシンクの輝きほどには濁りかけている生命を躍動させているスッポンに向けて
「この子は首が深くまで傷ついてるよ。これでよくこんなにも動きまわれるねぇ…生臭いねえ…」
僕個人としてはスッポンについてをこのような仕方でも共有できたことに、スッポンから沸き立つ生臭い空気から綺麗な空気の下に隔離されたような(しかし実際には僕は煙草を吸っているのだけど!)気分を救われていた。とっさのことで上手に言葉を紡ぐことができずに口元をぱくぱくさせている僕に
「少し外に出ない?ここじゃ空気が悪いから…申し訳ないけど煙草の臭いがとても苦手なので…」
と彼女は言った。僕はそれに従って外に出た。夏として夜の空気は最も夏らしくなるものらしかった。建物としては裏口にあたるガラス戸を押し開けて外に出ても、聞こえてくる陽気な声は止まない。そればかりか彼女についていく僕の足が進むにつれて、ますます大きくなるようであった。