其之壱 イヅノの名案
シギョウノ書は、文字通り「始業」の頃の話であった。学生生活において、一年目の始業直後は、今後の交友関係、学生生活において、重要な時期と言えるだろう。そんな中で俺が出逢ったのが、同じく憑獣を連れている猫伽タケル。彼らとどのような物語が紡がれるのか、是非とも見届けてもらいたい。
さて、この章、カヘンノ書は、大学生活が始まってからおよそ一か月後。五月の大型連休直後の自宅から、話は再開する。誰にでも起こり得る危機からのスタートとなるので、もし自分ならどうするか、そう考えながら読み進めてもらいたい。俺達が送る、ある日常のひと幕を。
「やっ、ヤバい」
まっ、まずは、今の状況を整理しよう。今、俺がいる場所は、自宅の自分の部屋。日付は、ゴールデンウィーク明け最初の平日。平日なので、当然講義がある。時刻は、差し込む日差しが気持ちいい朝だ。そう、ここまではいい。
今日は、一時限目からの講義。通学に二時間かかる俺は、もちろん早起きして家を発たなければならない。それ故に俺はいつも、スマホのアラーム機能を使っている。音量を最大まで上げ、バイブも作動するように設定してあるので、五時半にはけたたましい騒音が辺りを支配する。そう、そのはずだ。
しかし、今日はどうだ。いつもならまだ薄暗いはずが、今は太陽が完全に昇りきっている。時計の短針は六よりも左にあり、長針は真下を向いている。という事は、つまり…、
「ねっ、寝坊した! 」
こういう事だ。
寝起きで曖昧な頭で考えを巡らせた俺は、こういう結論に至る。その瞬間、俺を支配していた眠気は、どこかへと旅立ってしまう。入れ代わるように思考が覚醒し、俺を焦らせるのだった。
『シンヤ、大丈夫? 間に合いそう』
慌てて服に着替える俺見て、イヅノは心配そうに声をかけてくる。俺の様子を伺うように、見上げるのだった。
「正直、際どいかもしれないよ」
いや、際どいというレベルではない。一度でも立ち止まれば、遅刻、そういう段階だ。
自分でも驚く速さで着替えた俺は、とりあえずこう答える。昨日のうちに準備しておいた鞄を掴み、扉を蹴破る勢いで部屋を飛び出す。昨日のうちに用意していなかったら、もっと時間がかかったかもしれない。不幸中の幸いだ、と俺はこの時思った。
『なら、急いだ方がいいんじゃない』
「うん。とっ、とにかく、いくよ」
ドタドタと荒々しい音をあげながら、俺は階段を駆け下りる。そこにスタスタと、静かなイヅノが続く。彼女は俺とは対照的に、そこそこ落ち着いている。口々に言葉を交わし合い、俺達は先を急ぐ。家族との挨拶を早々に切り上げ、俺達は家を飛び出した。
時刻は七時四十分。講義の最初から出席するのは不可能だが、出席をとるタイミングにはギリギリ間に合うはず。だが、もし次の急行列車に乗り遅れれば…、絶望的だ。
とにかく、玄関から飛び出した俺は、急いで車庫へと向かう。高校入学から使っているボロ自転車のハンドルを握り、後ろ蹴りでスタンドを立て…、ようとした。だが、
『シンヤ、ちょっと待って』
「まっ、待つって、何を」
何故か四肢の緊張を解しながら待っていた、イヅノに止められてしまう。乗り遅れるのに何で待つ必要があるんだ! 心の中でそう訴えながら、彼女に反論した。
『自転車に乗る事だよ』
「自転車にって…、一体何を…」
『わたしが何とかするから! 』
一体何を考えてるの! 思いがけないことを言いはじめるイヅノに、俺は真っ向から抗議…、しようとする。だがそれは、彼女の次なる主張によって遮られてしまう。何か名案があるかのように、彼女は自信満々にこう言い放つのだった。
「イヅノが? 」
『うん。とっ、とにかく、時間が無いから走りながら説明するよ』
そう言うが先か、そうするが先か…。彼女は我先にと四肢に力を込め、走り始める。二、三歩駆けると振り返り、俺にも促すのだった。
そういえばそうだった。彼女の発言で、俺は忘れかけていた事を思い出す。慌てて俺も、斜めに提げている鞄を抱え、走りだす。左腕が塞がっていて走りにくいが、そんな事は気にしていられない。引退してからもうすぐ一年とはいえ、俺は元駅伝部。体力とスピード持久力には自信がある。右腕を前後にふる勢いを使用する。そうする事で、自然と足もついてくる。短距離走者並の速さまで加速し、地に踏み込む足に力を込めるのだった。
見慣れた景色を疾走し、俺とイヅノは朝の風になる。一年ぶりに耳元を撫でる、ヒュウヒュウ、という音が心地いい。自然と走る速さも増していくのだった。
『シンヤ、憑異を発動させて! 』
「憑異を? でもイヅノ、憑異はまだ完成して…」
『いいから、早く! いつもはシンヤだけど、今日はわたしが頑張る番だから』
住宅街から国道に出たタイミングで、彼女は足を止めずにこう声を荒らげる。何が何でもしてもらわないと困る、そういうニュアンスが含まれていると、俺は感じた。その予想通り、彼女は口応えする俺を説き伏せる。有無を言わさず、俺にこう訴えるのだった。
「イヅ…」
『憑異してからいくらでも話すから、後にして』
「えっ、あっ、うん」
この数週間、俺は毎日憑異を身につける特訓をしてきた。してきたが、まだ完成には至ってない。イヅノ曰く、もう少しで習得できる段階まではきているらしいが…。
でもイヅノ、完成してないのに発動して、だなんで…、そんな事、できやしないよ。俺は彼女に、こう訴えたかった。だが、彼女はそれを認めてはくれない。とうとう俺は折れ、彼女への疑問を膨らませながら、従う事にした。
「我ラ、共ニ有リ」
「キューン! 」
走る足に力を込めたまま、俺は隣を駆ける白狐を強く意識する。抑揚のない独特な発音で、それを唱えた。
イヅノも同じく、何かの妖技を発動させたらしい。足を止めずに、青々とした空を見上げ、声をあげる。遠吠え、と言った方が正しいか…。甲高い声をあげ、意識を高めていた。
「…ん? 」
なんだろう、この感じ…。イヅノが吠えてから、およそ三歩後、俺は何か不思議な感覚を感じ始める。自分の内側に何かが入ってくるような…、俺が持っている妖力が共鳴するような…。何ともいえないものが、俺を満たし始める。満たした、だけだった。
それで終わり、かと思ったが、そうではなかった。
「いっ、イヅノ? 」
形容し難い感覚で満たされている俺は、風を切りながら隣のイヅノに目を向ける。その彼女はさっきまでと変わらず走っていたが、とんでもないことになっていた。
まず俺が驚いたのが、風に靡く彼女の尻尾。何気なく見たフサフサな尻尾が、どこかいつもと違う。ん? 見間違い? それとも錯覚? 率直にそう感じ、空いている右手で目を擦ってから、もう一度見る。しかしそこには、する前とは同じ…か? 同じ、なのか? いや、違う。確かに、ある意味同じかもしれない。
「尻尾が、増えてる? 」
妖力と繋いだことで発達した俺の目が捉えたのは、変化が始まった彼女の尻尾。通常は一本であるはずが、新たに二本…、計三本の尻尾が、彼女が駆けるリズムに合わせて揺れていた。初めは走っているせいで視界がぶれ、多く見えている。あるいは、尻尾の毛の先端が乱れているだけ…、そう思った。が、確かに付け根から三つに分かれていた。
これでも十分驚いたが、彼女の変化はこれで終わりではなかった。
「キュゥーンッ」
三本で終わりかと思っていた、彼女の尻尾の増加は、まだ終わらない。さっき増えた尻尾の付け根のうち、両方の外側にあたる部分が、少し盛り上がる。かと思うと、それが弾けるように隆起し、一気に長くなる。それらは四、五本目の尻尾となり、残りの三本同様、風で踊っていた。
尻尾に気を取られて気付くのが遅れたが、彼女の変化はこれだけではなかった。一言で言うなら、彼女の体が、全体的に大きくなっている。尻尾の本数が増えるごとに、彼女の背は高くなっていく。憑異を発動させる前、普段のイヅノは、大体柴犬ぐらいの大きさだ。だが、今はどうだろう。彼女の背は、狐にしてはかなり高い。俺の背と大雑把に比べてみると、彼女の頭の位置は百六十センチぐらいの高さ。胴の位置は、たぶん百センチあたり。可愛らしかった彼女は、全体的にスラッとして、逞しくなっている。猛獣…、いや、妖怪の類を思わせる彼女の出で立ちに、俺は見入ってしまった。
「シンヤ、わたしの背中に乗って! 」
「うっ、うん…、うわっ」
イヅノ、今、喋った? 俺が走る後方に振り返り、彼女はこう呼びかける。確かに彼女はこう言った、そう、口で言ったのだ。それは気のせいではなく、耳で声として捉えた。
この事に、俺は一瞬戸惑う。そのため、彼女の頼みに中途半端な返事しか出来なかった。
俺の頭の中に、ではなく、直接話しかけてきたイヅノは、俺の声を待たずに行動を開始する。直接見てないので、これは予想になるが、彼女は五本ある尻尾のうち、一番左側のソレに意識を向ける。自由が利くらしく、吹き抜ける風に逆らって動き始める。一メートル以上はありそうなその尻尾は、彼女の意のままに左に逸れる。かと思うと、そのすぐ近くを駆ける人物、俺の腰に巻きつく。その状態で思いっきり右斜め上振り上げる。勢いそのままに、俺は彼女の背中に着地…、いや、跨る、と言った方が正しいか。
「じゃあシンヤ、そのままスマホを出して」
「スマホを? でも何で」
「駅じゃなくて、直接大学に行こうと思ってるから。だから、グーダルマップと位置情報を出して」
「位置情報…、あっ、そっか、そういう話しか」
されるがままに五尾の狐に乗…、いや、騎乗する事になった俺は、今まで左腕に抱えていた鞄を斜めに提げる。肩にかかる負担が偏ってしまうが、これは仕方ない。翌日の筋肉痛を覚悟した俺は、ある事に気付く。それは、今俺を支えているのは、脚のみ。そこで俺は、半ば慌てて、彼女の背中にしがみつく。フサフサな毛が少し煩わしかったが、気にしない事にした。
おそらく、背中を掴まれた間隔に気付いたイヅノは、目線だけで後ろを向き、こう話しかける。このように提案すると、彼女はさらに足に力を込める。きっと加速したのだろう、後ろに流れていく景色が、ついさっきよりも速くなっていた。
その後俺は、徐に言われたことを疑問に思い、こう訊き返す。すぐ返ってきた答えで、俺はようやく彼女の意図を察する。なら、案あの妖技を発動させればいいね、こう悟った俺は、右側のポケットに仕舞ってあるスマホに手を伸ばしながら、その体勢に入るのだった。
「じゃあ、お願いね」
「うん。我ラ、視権ヲ共ニス」
「我、地ヲ駆クル者ナリ」
彼女が頷いてから、俺は抑揚のない声で発動のきっかけとなるセリフを唱える。一番多く使っている妖技なので、効果が現れるのにかかる時間は短い。彼女が唱えている間にも、俺とイヅノ、両者に、第二の視覚領域が出来るのだった。
同様に、彼女も妖技を発動させる。あぁ、やっぱりイヅノも、同じように唱えないといけないんだね。俺は率直にそう感じる。こんな台詞なんだ、とちょとした収穫に満足していると、どうやら彼女の効果も反映され始めたらしい。俺達に向かってくる風が、より一層勢力を増したように、俺には感じられた。
直後、彼女に騎乗している俺は、ある事に気付く。今までは兎に角速く動かしていた四肢のテンポに、変化が現れていた。これは予想なのだが、おそらく彼女は初めに、前足から着地する。後ろ足が追いつく前に地面を後方に押し、重心は前に移動させる。前足と重なるように後ろ足で着地し、接している間に、ありったけの力を蓄える。後ろ足と身体が垂直になった瞬間に、溜めていた力を解放し、後ろに力強く蹴る。同時に前足も勢いをつけて前にふり、跳躍。ターン、タッターン、タッターン…、と陸上競技の三段跳びを思い出させるようなリズムで、彼女は朝のソウナ市内を駆けるのだった。