其之参 隣の席の…
「それではC専攻の諸君、明日から…」
イヅノと別れたビルとは違う棟の一室で、教授と思われる人物がこう言う。白髪交じりのその人は、人で一杯の講義室一帯を見渡し、こう締めくくった。
俺達がいる講義室は、おそらく高校のソレの一・五倍の広さと言ったところだろう。その広さであるため、大勢の学生で溢れていたが、圧迫感はあまりなかった。部屋の長机は備え付けのもので、一列六人掛けとなっている。それが横に二列、縦に十七列並んでいるので、その広さが容易に想像できるだろう。この席の前から三分の二ほどが埋まっている。目算なので詳しくは分からないが、おそらく九十人前後といったところだろう。俺同様、ほとんどの人が不安そうな表情で、教授の話を何となく聴いているのだった。
他の人からすると物凄く暇な時間だったが、俺はその限りではなかった。何故なら、同視を発動させているので、屋内に居ながら屋外を見てまわる事が出来る。俺の思う場所には行けないのだが…。イヅノの視界でぼんやりと景色を眺めながら、俺は時が過ぎるのを待っていた。
しかし、それだけではない。何度も言っているので説明は省くが、例の如く俺の頭の中にはイヅノの声が響いている。どうやら、多少離れていても声は伝わるようだ。時々ノイズが入ったように曖昧になるが、あまり差し支えなく聞き取れていた。しかし俺も、彼女の声を聴きっ放しという訳にはいかない。同視と同じタイミングで発動させた軌視によって、彼女に返事する。空中に描いては消しての繰り返しで、俺は暇な時間をやり過ごしていた。
「ふぅ、やっと終わった」
それほど退屈はしていなかったが、俺はとりあえず、出していた書類を片付けながら一息つく。他事を並行してやっていた、という事を隠すために、わざとらしく疲れた素振りをしてみた。その直後に、イヅノに終わった事を伝えるべく、空中に指を走らせる。別れたところで合流しよう、そう描いてから、まばたきを一つして白紙に戻した。
『うん、わ…たよ。じゃあシンヤ、そこで会お! 』
俺の視界で一文を読んだイヅノは、一部ノイズが入った個所があったが、明るく声を伝えてくる。早速移動を始めたらしく、彼女が見ている世界が、勢いよく後ろに流れ始めた。
「イヅノは奥の方にいるみたいだから、俺の方が… 」
「なぁ、さっきからずっと何か書いてるみたいなんだが、何してたの」
「えっ、あっ、あぁ。ちょっとした癖だから、気にしないで」
大きな独り言を呟いていると、突然誰かに話しかけられた。唐突であったので、俺は思わず頓狂な声をあげてしまう。驚きで掴み損ねた鞄を持ち直し、俺は慌ててその声がした方に振りかえる。その先にいた人物、俺の隣に座っていた彼が、不思議そうに訊ねてくる、まさにその瞬間だった。
妖力で繋がってる狐と話してたんだよ、そのようにいう訳にはいかない。なので、俺は即行で言い訳を考え、何とか誤魔化した。
「何か話してたように見えたんだが…、まさか、そんな訳ないよな」
その彼は、そんな筈はない、そう言いたそうに首を傾げる。何を考えていたのかは分からないが、かけていた眼鏡を外しながら、小さく呟いていた。
彼の発言に、俺は思わずヒヤリとしてしまう。言い訳が効かなかったのか、そう思ったが、続いて出てきた言葉に一安心した。
「そっか、ならいっか。という訳であれなんだが…、きみって一人? 」
「他の専攻にはいるけど、C専攻にはいないよ」
どうやら彼は、ふと浮かんだ考えを頭の片隅に追いやったらしい。そう言ってから、話題を徐に変えていた。
同じ机に俺以外に誰もいなかったので、おそらく彼は予想しながら訊いてきたのだろう。その彼に俺は、その通りだよ、と心の中で言う。同じ大学に入学した高校の友人の顔を思い浮かべながら、今度は声に出して彼に伝えた。
「きみも? ワテもだよ。実は高校の時の友人がこの後にバイトが入っているらしくて、今日は一人なんだよ。もし、良かったら、一緒に見学にきて、くれないかな? 」
俺の答えに、彼はハッとこちらを向く。おそらく、ダメ元で尋ねてきたのだろう。彼は遠慮気味に、知り合ったばかりの俺を誘うのだった。
確かに、それもいいかもしれない。とすると、これがきっかけで仲良くなれる可能性だってある。俺は自分の中で、彼の提案にこう結論を出す。
「いいね。こうして話してるのも、何かの縁だし」
この後、イヅノと巡るしかする事が無い俺は、当然彼の提案を受理する。気付いたら同視の効果が切れていたので、この事は彼女には伝えられなかった。それ以前に、新しく大学で友達が出来るかもしれない、そう言う期待に、胸が高鳴っていた。その反面、イヅノの方が先に友人を作っていたので、それなりの焦りもあった。きっかけはどうであれ、自分にもできそうなので、内心ホッとしていた、ボッチにならなくて済んだ、と。
「本当に? やった! …という訳で、ワテは猫伽タケル。よろしくな」
簡単に自己紹介する彼は、笑顔で右手をさし出す。
「うん。俺は狐波シンヤ。こちらこそ」
俺も快くそれに応じ、硬く握手を交わした。