其之伍 醒位のルーナ
『あっ、シンヤ、来たね』
「お待たせ。部屋の奥にいたから…えっ」
カモフラージュ代わりに財布を持ち、俺は二階の部室から出る。勢いよく飛び出したので、扉が派手な音を立てる。思わず驚きでとびあがりそうになったが、俺はそれを何とか堪える。
そのせいで最初のニ、三段を踏み外しそうになってしまうが、間一髪で踏みとどまる事ができた。その後はタンタンタン…、と足音と一緒に金属を八回響かせる。そのタイミングでイヅノが広間に入ってきて、妖力を通してこう話しかけてきた。
ベストなタイミングで出くわし、俺も彼女の存在に気付く。出てきてほしい、と言われた手前、待たせてしまったかもしれない、俺はこう思っていた。だがそれは、杞憂に終割る事となった。その後彼女はこれだけ聞くと、気にしないで、と言いたそうに首を横にふる。俺に会うのが待ち遠しかったのか、一本の尻尾を振りながら俺に飛びついてくる。ペロペロと俺の顔を舐め、思いのままに感情を溢れさせていた。
ちょっとくすぐったいけど、こういう所がカワイイんだよね…。俺はこんな事を考えながら、彼女の想いを正面から受け止める。あたたかな気持ちに包まれながら、俺は彼女の小さな頭を撫でてあげる。それと同時に、俺はムダかもしれないが言い訳じみた事を言いはじめる。だがそれは、思いがけず目に入ったモノのために、阻まれてしまう。思いもしないものが現れたので、言い訳ではなく驚きが先陣を切る事となった。
「ねっ? イヅノちゃん、丁度良かったでしょ」
「キューン! クゥーン? 」
「シンヤ君達の区分はタケルの方よりも、いつも後に終わるからね。だから…、勘、かな」
「ねっ、猫…? いや、でも、もしかして…」
建屋の影から突如現れたそれは、俺にじゃれつくイヅノに話しかけてくる。どこかで聞いた事のある声に気付いた彼女は、そっちの方に振りかえり、元気よく答える。俺には何て言っているのか分からなかったが、おそらく何かを訊ねているのだろう。声のトーンから何となく察する事が出来た、が、それ止まりだった。
最初、俺は見間違いかもしれないそう思っていた。なので、確認のためにもう一度そっちの方に目を向けた。見たのだが、やはりそれは気のせいではない。俺の発達した視覚が、黒くて大きな影の特徴を、鮮明に捉えるだけだった。
その黒い影とは、一匹の黒猫。初めは月猫のルーナかと思ったが、その特徴は彼女のものとは明らかにかけ離れている…。まず目を見張るのはその大きさ。月猫以前に、一般的な動物のサイズとは比べ物にはならない。しゃがんでいる俺の位置からだと、見上げる位置に顔がある…。大きさの基準を挙げるなら、醒位である伍白となったイヅノよりも、頭一コ分低いぐらい…。一般的な猫よりもよりも明らかに高い位置から、彼女の声が聞こえてきていた。
これだけでも、この猫が妖獣の類だとすぐに分かったのだが、この猫のそれたる所以は他にもあった。大きさのあまり気付くのが遅れたが、イヅノと同じく、他の猫とは尻尾の本数が違う。一般的な猫以前に、どの動物も尻尾は一本である。だがこの大猫は、それが余分に一本ある。細長くてしなやかな二本の尻尾が、初夏の風に揺られている…。この特徴をもつ種類の猫の名前を、俺は知っている。昔話や逸話に出てくるような動物は存在する、そう信じている俺は、その名前を口にする事にした。
「猫又…? 」
『人の間では、そう呼ばれてるかな。今のルーナ、醒位なんだよ』
「醒位って事は…、憑異を発動させてる、っていう話しかな」
「うん。わたしは見ての通り猫又。だけどこれは、俗称みたいな感じかな」
そっか、尻尾が長い黒猫だからもしかしたら…、って思ってたけど、本当にルーナだったんだね。醒位だから、この姿もまだ完全じゃないのかもしれない。当然本物を見たことがないから、俺は確証を持てないままこう口にする。そこにイヅノの声が俺の中に響き、簡単に説明してくれる。彼女の言う通り、今のルーナは普通の動物の姿とはかけ離れている。まさにその通りだと感じた俺は、それを根拠に推測…、というよりは、疑問が確信に変わり、それを確かめるべく口を開く。双尾の彼女に、俺はこう質問した。
その彼女はというと、俺の問いかけに真っ直ぐ答えてくれる。自身がそうであることを示すように、彼女は俺に背を向ける。根元が二つに尻尾を見せ、ねっ、と言ってからこう付け加えていた。
「俗称なら、イヅノの伍白みたいに、本当の名前があるって話しだね」
「うん。わたしの種族は、双夜猫って言うの。普通の人からは、いわゆる妖怪として知られてるかな。…イヅノの白仇よりは知名度は低いけど」
「でも猫又も十分知られてると思うよ」
ルーナ、そんなに心配しなくてもいいと思うよ。俺も猫又の事は、イヅノと出逢う前から知ってたし…。彼女は明るくこう言うと、にっこりと笑みを浮かべる。本当の名前は殆ど知られてないんだけど…、と彼女は続ける。イヅノの白仇もそうなので、それは間違いないだろう。しかし彼女はこう言うなり暗い表情になる。心なしか彼女の三角の耳、二本の尻尾が下を向いたような気がした。
自身の種族の知名度を気にしているらしいルーナを、俺はこうフォローする。発達した視力で感情を読み取り、落ち込みつつある彼女を励ますことにした。
「クゥーン? 」
「あっ、そっ、そうだったね」
そういえば今気づいたけど、もしかしてルーナ、イヅノが喋っている事、理解しているのかもしれない。落ち込む彼女を励ましていた俺は、ふとこの事に気付く。俺にはイヅノの声は鳴き声にしか聞こえない。だが、確かにルーナはイヅノの声に答えている。この事を疑問に思った俺は彼女に質問しようとしたが、イヅノに先を越されてしまった。
本人から聴かないと分からないが、おそらくルーナが立ち直るのを待っていたと思われるイヅノ…。ルーナの方を見上げながら聴いていた彼女は、徐にこう声をあげる。首を傾げながらこう言ったので、たぶん何かを訊ねたのだろう。俺の眼には、彼女の頭上にハテナが浮かんだのをハッキリと捉える事が出来た。
何を訊かれたのかは分からないが、この様子からすると、その事を忘れていたのだろう。白狐の問いを聴いた瞬間、両耳がピンと立ち上がる。彼女の感情を表すかのように、漆黒の短毛も逆立っていた。
「とりあえずシンヤ君、憑異を発動してくれる? 何をするのかは、タケルと合流してから話すから」
「うっ、うん」
何かを、する? 伝えたいことがある、って言ってたけど、それと関係があるのかな。イヅノの一声で本題に戻ったルーナは、俺を見るなりこう訊いてくる。どういう意図があるのかは分からないが、おそらく彼女なりに何か考えがあるのだろう。今朝初めて成功した妖技の名を口にし、ねっ、と俺を促す。こう言い切ると、彼女は止めていた足を進め、クラブハウス横の雑木林に向けて歩き始めた。
まさか話をふられるとは思っていない俺は、反射的に頓狂な声をあげてしまう。予想外であったため、中途半端な返事しか出来なかった。
『何か新しい妖技を教えてくれるみたいなんだけど、始めのうちはリンク率を上げたほうが発動させやすいんだって』
「妖技を? 」
『うん』
という事はもしかして、伝えたいのはこの事なのかもしれない。補足だけど…、っていう感じで、イヅノは俺の頭の中に直接語りかけてくる。エコーがかかるその声は、俺と合流する前に聴いたと思われる事項を、妖力を通して伝えてくれる。それだけを言い終えると、チラチラと振り返りながら、先を行くルーナを追いかけていった。
『そういう事だから、お願いね』
「なるほどね。じゃあ、我ラ共ニ有リ」
聴いたところによると、初めてリンク率を上げる時は、人の「心」が乱れている時ほど上手くいくそうだ。怪異が人に憑く時も同じらしい。俺の時はおそらく、寝坊したことによる焦り。それが、「心」の乱れに当てはまったのだろう。
話しを元に戻すと、雑木林に入った地点で、彼女は再び念を押す。その間にも納得していた俺は、今度こそしっかりと頷く。今はいわゆる平生、その状態である。なので発動できるか、不安がある。不安ではあるが、とりあえず、という事で抑揚のない声でそれを発動させることにした。




