遊園地
目の前には土の壁があった。見上げると、それが自分の背よりも数倍高いと分かる。包丁で切り分けたような断面が地層となって露出していた。
「ねえ、あんた誰?」
不意に声をかけられ振り返ると、壁の上にキャップをかぶった少女がいた。
「何でここにいるの?」
土の山を器用に歩きながら、彼女は近づいてきた。猫のように軽快な足取りで、バランスを崩す素振りは見せなかった。
「君は?」
口をついて出てきた言葉は、相手に対する興味だった。
「質問してるのはこっち」
物怖じしない性格なのか、言葉はきつく聞こえたが、彼女からは友好的な印象を受けた。
「ああ、すまない。僕は、イシダというんだ」
「ここに来たわけは?」
「一度、この場所を見ておこうと思って。それがたまたま今日だったんだ」
説明すると、彼女は興味無さそうに、ふーん、と言った。
「改めて、君は?」
「私は化石を掘りに来たの。名前はチカ」
チカは手に白い軍手を付けて、小さなスコップを持っていた。背中にはリュックサックを背負い、服はアウトドアに向いた軽装で、肌には汗が滲んでいる。長く作業していたのか、軍手や服も土で汚れていた。
「ここでは化石が取れるのか?」
「うん」
チカは頷くと、腰に取りつけたポーチから何かが入ったビニール袋を取り出した。
「ほら、これ」
彼女が袋から取り出したのは、土の付いた、白い貝の化石だった。
「これは、何ていう貝?」
「きらら貝」
「珍しいの?」
顔を近づけて眺める。小さめの二枚貝で、柔らかい石のようだった。
「別に。どこにでもあるよ」
チカは貝の化石を袋にしまうと、僕を睨むように見た。けれど、そこに敵意は感じられなかった。
「イシダさん、どうしてここを見に来ようと思ってたの?」
「化石を探しに来たんだ」
「きらら貝も知らないのに?」
チカは首を傾げた。
「アンモナイトと三葉虫は知っている。それとティラノサウルス」
「見たことはあるの?」
「昔、教科書に載っていたのを見た記憶がある」
「それなら、私は映画で見たよ」
チカは呆れたように言った。
「探しているのは、ちょっと変わった化石なんだ」
チカはちらと周りを見回すと、困ったような顔をした。
「ここは、貝の化石ばっかりで、珍しい化石なんて、多分ないと思う」
僕も辺りを見回した。地層が露出した土面には、白い貝の痕跡が無数に見て取れた。
「でも、ここにあるはずなんだ」
それがどこに埋まっているか分からないが、確信はしていた。間違いなく探しているものはここにある。
「何の化石?」
「バイクの化石なんだ」
貝で埋め尽くされた地層を眺める。静まり返った土の中から、エンジンの音は聞こえてこない。
太陽が真上で照っているのを感じた。雲は少なく、快晴だった。額からじわりじわりと汗が流れる。土を掻く作業は思うように進まなかった。道具がないのと、不慣れなことも相まって、疲労だけが溜まっていった。土の壁は頭上よりもはるかに高く、立ちはだかっていた。
「イシダさーん、どう?バイクの化石見つかりそう?」
壁の上から、チカが声をかけてきた。声を張るのが億劫だったので、首を横に振って応えた。
「いや。貝ばっかり出てくる」
削った土の跡には、白い貝の化石がくっついていた。価値があるか分からないが、出来るだけ壊さないようにと気を遣っていた。それでも、足元には土と混じり、ばらばらに砕けた化石が散らばっていた。
「ここは大昔、海だったんだって」
「大昔って、いったいいつなんだ?」
汗を拭いながら、聞いてみる。
「それは私も知らない」
答えを期待していたわけではない。ただ会話でもして、少し休みたかった。
「君の方は、探しているものは見つかりそうかい?」
「全然。まだ見つからない。ねえ、大変ならスコップ貸してあげよっか?」
「それは助かるな」
チカは小さなスコップを放り落とすと、壁の上から足を投げ出すように座った。彼女も疲れていたのだろう。ポーチから水筒を取り出すと、流し込むように水を飲んでいた。
「ところで、君が探しているのは何の化石なんだ?」
壁を見上げながら、訊いた。
「人の化石」
チカは抑揚なく言った。
「ひと?」
ついオウム返しに聞き返した。崖の下からでは彼女の表情は見えない。
「ねえ、人類最古の化石の名前を知ってる?」
チカはさっきと変わらない調子で言った。
「北京原人、とか?」
教科書に載っていた、おぼろげな記憶を辿ってみる。
「それよりも、もっと古い」
「ネアンデルタール人」
今度は正解だろうと、少し自信を持って言った。
「違う。ちゃんと個人の名前があるの。もっとも、彼女が自分でそう名乗ったわけではないけれど」
「君の友人かい?」
「友達ではないね。正解は、アウストラロピテクスのルーシー」
「ああ、その言葉の響きは、教科書にあったような気がする。うまく思い出せないけれど」
記憶の中の教科書は、いつの間にか落丁が多くなっていた。
「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズは知ってる?」
「それは分かる。ビートルズだね」
タイトルを聞いて、懐かしい気分になった。
「調査隊が彼女の化石を発見した時、その曲が流れていたんだって」
「へえ。それにしても、化石を掘る作業に音楽は合うだろうな。疲れていても、まだ頑張れそうな気にさせてくれる」
「かもね。でも、いつかはビートルズのレコードも化石になる」
聴く者がいなくなれば、そうなるのかもしれない。
「僕の友人は、ビートルズが好きだった。レコードもたくさん持っていたよ」
「私の父も、たくさんレコードを持っていた」
そこで会話は途切れた。僕らは、お互いに次の言葉を用意していなかった。
会話が無くなると、再び土を掘り返す作業に戻っていた。どちらも黙々と作業をこなすのが、苦にならない性質らしく、一度手を動かし始めると、何も言わなくなった。借りたスコップを、軟らかい土に差し込んでいく。単調な作業だった。僕は時々、思い出したようにビートルズの曲を口ずさんだ。
「ねえ、バイクの化石を見つけた」
作業を再開してすぐ、チカは言った。彼女は相変わらず壁の上にいた。
「本当に?」
聞き返しながら、僕は土の壁に手を掛けていた。力を込めると、軟らかい化石交じりの土がぽろぽろと剥がれ落ちた。上り易そうなところを探し、体を持ち上げる。体の奥から、忘れていた熱が込み上げてくるのを感じた。滑り落ちないように気を付けながら、慎重に上に登っていく。
「大丈夫?」
上からチカが手を差し出してきた。
「ああ、問題ない」
流れてくる汗を気にせずに壁を登りきる。地面をしっかりと掴み、体を引っ張り上げる。普段使わない筋肉に、慣れない疲労を感じた。
「どう?あれだよ、見える?」
チカが指差した先には、土に埋もれたバイクがあった。今登って来た壁から、少し離れたところにある斜面の中腹辺りに、それはあった。言われなければ気づけないくらい小さな痕跡だった。緑色の車体が土から僅かに顔を出していた。
それは見間違うことのないものだった。斜面の下は崖になっていて、奈落への道の途中にバイクが引っ掛かっているように見えた。
「間違いない。あれが探していたバイクだ」
僕は息を切らしながら、答えた。
「私、あのバイクを見たことがある」
チカは小さな声で言った。
「友人から、譲り受けたバイクなんだ」
「あれは昔、父が乗っていたバイクよ」
僕らは互いに視線を交えた。
「……君の探している人の化石っていうのは、あのバイクの元の持ち主?」
「だと思う。荷台のところが改造してあるバイクなんて、そうそうないだろうし」
チカの言うように、それは普通のバイクよりも荷台が拡張されている。旅に出るのが好きだった友人のカスタム車だった。
「僕はあいつから、あのバイクをもらう約束をしていたんだ。まさか、君があいつの娘だとは思わなかったけど」
「そんなことより、早く引き上げないと」
奇妙な縁に感じ入る間もなく、チカはバイクに近づいて行った。切り立った崖に、バイクは引っ掛かるようにして埋まっていた。貝の化石が地層から顔を出すように、荷台の部分が地表から現れている。崖は地上からは十数メートルの高さがあり、今立っている場所からもそれなりの距離がある。
「どうやって引き上げるんだ?」
走り出すチカの背中に声を掛ける。
「ロープがある!」
走りながら彼女は、リュックサックから束ねられたロープを取り出した。僕も後ろから付いて行った。
「危ない」
声をかけるが、彼女は止まらない。チカは近くにあった、地面から突き出ている古びた鉄骨にロープを巻きつけると、バイクにゆっくりと近寄って行った。垂直に近い斜面を、恐る恐る下りて行く。そして、バイクの地面から顔を出している部分にロープを結ぶと、こちらを見上げて手を振った。
「イシダさん!上げるよ」
ロープを伝って、チカは戻って来た。僕はチカの結んだロープを、何度か軽く引っ張ってみた。外れる様子はない。しっかりと結ばれているようだった。
「さあ、いくよ!」
「ああ」
チカと僕はロープを掴み、力を入れた。体重を後ろに掛けて、引く。埋まったバイクはびくともしなかった。
「せーっの!」
力を合わせて、再び引っ張る。しかし、変化はない。バイクは地層の一部となったままだ。
「動きそうにないな」
「イシダさん、もうちょっと頑張ってよ」
チカは口を尖らせて言った。
「そう言われても、あのバイクの周りの土は固く締められている」
「いいから、引っ張る!」
チカは再びロープを握る腕に力を込めた。目の前のバイク以外は目に入らないかのように、一所懸命だった。
「ああ、分かった」
僕らは数十分間、その場でロープと格闘した。けれど、その間バイクは微動だにしなかった。むせ返るような暑さに汗が滝のように流れ落ちた。
「少し休憩しないか」
僕が提案するまでもなく、彼女は水筒に口を付けていた。座り易そうな場所を見つけて腰を下ろす。
「ねえ、イシダさん。生きた化石って知ってる?」
「シーラカンス、とか」
うろ覚えの記憶を引っ張り起こす。
「そう、太古の痕跡を残した生き物のこと。これって、変な話だと思わない?」
「あいにく、僕はそういうのは詳しくないから、よく分からないな」
「だって、今の生き物は何億年も前から遺伝子が受け継がれて生き残っているんだよ。だったら、どんな生き物も化石みたいなものだと思うの」
「僕らも、生きた化石ってこと?」
「見方を変えれば、そうなるんじゃないかなって」
「でも、そう呼ばれる生き物は数が少なかったり、稀少だったりするものなんじゃないのかな。学術的な資料としてだとか、一般人にはわからない価値があるんだと思う」
僕がそう言うと、チカは小さく笑った。笑うところを見るのは初めてだった。
「イシダさん。ゴキブリだって生きた化石って呼ばれるんだよ。カブトガニはタイでは普通に食べられるし、案外どこにでもいる奴らも生きた化石って呼ばれたりするんだよ」
「それは知らなかった」
ゴキブリに害虫以外の呼び名があったことに驚いた。会った時から思っていたが、彼女は化石に詳しいのかもしれない。
「さあて、もうひと踏ん張りしましょうか」
チカは袖をまくると、ロープをつかんだ。その時、ロープを固定する鉄骨が、わずかに動いたのが見えた。
「待って。そのロープから離れたほうがいい」
僕はチカの腕をつかんだ。
「吃驚した」
「今、あのロープを結び付けているものが動いていた」
「え、本当に?」
「ここは崩れるかもしれない」
足元を見る。まだどこもひび割れたりはしていない。
「でも、大事なバイクでしょう」
「そう、ぼくが譲り受けた、君のお父さんのバイクだ」
「だったら」
「だめだ。あれを引き上げようとすれば、きっとこの崖は崩れてしまう」
「でも、目の前にあるんだよ」
取りに行こうとするチカの腕を強引に掴み、引き留めた。
「見つけられただけでも、十分だ」
「私はイヤ!取り戻す」
彼女の力は強かった。
「あれは僕のバイクだ。君のものじゃあない」
「そんなこと言われても、見つけてしまったものを置いていくなんて……」
斜面のバイクを見つめている彼女は、悔しそうな表情をしていた。
「あのバイクは化石なんだ。引っ張り上げたって、どこにも行けやしない」
「それでもっ……!」
チカは僕の腕を振り切り、ロープを引っ張った。どんなに力をいれても、土の中のバイクは動かない。彼女は、意地になっているように見えた。がむしゃらに、ただ引っ張り続けた。その様子はとても必死で、声をかけられなかった。僕は彼女があきらめるのを待った。地面が崩れ出さないか、それだけを心配しながら。
チカは長い事、動かないバイクと格闘していた。けれど、疲れ果ててしまったのか、彼女はロープを握る手を緩めた。
「……全然動かない」
チカは脱力するように、座り込んだ。もう挑戦する気力も失われたのか、静かにため息を吐いた。
「少し、話さないか?」
僕は周りの風景を見ながら言った。どこを見ても隆起した土が、人の行く手を阻むように乱雑に突き出ている。その上には青空があり、積乱雲が散在していた。
「いいよ。なんか疲れたし」
チカは、どこか投げやりな雰囲気を覗かせていた。彼女は、自身の言葉通り、バイクを引っ張る作業に疲れてしまったのだろう。
「君は遊園地に行ったことはある?」
僕は彼女に訊いた。
「変な質問ね」
「なぜ?」
チカは、僕をじとっとした目で睨んだ。
「だって、ここが遊園地よ」
ここはかつて、遊園地だった。原野を開発し、大掛かりな工事を経て完成した場所だ。どういう経緯でこの土地が遊園地になったかは分からない。その地方で権力を持つ政治家や権力者が動いていたのかもしれない。
それはもう、何十年も前の話だ。そして、遊園地だった風景は大きく変容していた。一目見て、そこに大きな被害があったことが分かる。土が隆起し、瓦礫が山を成している。剥き出しの地層には、貝の痕跡がいたるところに見て取れる。観覧車は地面に横たわり、途切れたレールが散らばっている。それは片付けられることもなく、長い間放置され続けている。
「ねえ、イシダさん。今日この場所に来たのって、偶然じゃないよね」
暑い中バイクを引っ張るのに疲れたのか、成果の出ないその作業が虚しくなったのか、どちらかは分からないが、彼女はロープを引くのを止めた。
「多分、君と同じ理由だと思う。この遊園地が閉鎖された日だ。そして、君の両親、僕の友人が死んだ日」
今でもその日のことは思い出せる。あの日、二人は遊園地に遊びに来ていた。娘が学校の行事でいないから、たまには遊びに行こうという話になったのだ。僕も誘われていたけど、二人の邪魔をするとよくない、と言って断った。
「イシダさんを見つけたとき、変な人だなと思ったけど、見たことがあったような気がしたんだ。だから、声を掛けた」
チカは瓦礫になった遊具に腰掛けていた。
「君が小さいときに会ったことがあるよ。その頃はまだ、あいつとバイクに乗って出かけることもあった」
もうこれに乗って出かけることもほとんどないだろうから、と彼は僕にあのバイクを譲ると約束した。娘が厄介だからな、と照れたように笑う彼の顔は印象的だった。
今、そのバイクは崖の中で眠っている。ロープを結んでいた鉄骨がずれて足場が不安定になり、回収は容易ではなくなった。無理に引き上げようとすれば、自分たちが落ちかねない。
「せっかく見つけたのに、埋もれたままで何もできないなんて」
「きっといつか、誰かが掘り起こすさ。ルーシーを見つけたように」
「……ビートルズの曲を聴きながら?」
「ああ」
僕らは、貝と瓦礫の混じった土の上で、一休みをした。廃墟と化した空間で目を閉じる。そこにあった賑やかさと、かつてのバイクの振動を思い出していた。
「ところで、君はどうやってここに来たんだ?他に連れはいないようだけど」
友人の子供という意識のせいか、つい保護者のような目で見てしまう。
「バイクに乗って来たけど」
「バイク?」
思わず聞き返した。友人のバイクは、まだ地面に埋まったままのはずだ。
「イシダさん、子ども扱いしないで。私は16よ。バイクの免許くらい持っててもおかしくないでしょ」
「いや、それにしても。その年でバイクに乗ってるなんて」
「暴走族とかヤンキーは平然と乗ってるじゃない。ああいう輩も、だいたいは高校生でしょ」
「そういう連中は特殊な例だと思うけど。最近は見かけないし、それこそ生きた化石なんじゃないか」
「そんなことはないと思うけど」
そう話す彼女がどんなバイクに乗っているのか少し気になった。
「あーあ、せっかくここまで来たっていうのに、探していたものは何も手に入れられなかった」
彼女はけだるそうに伸びをしながら言った。
友人の化石は、どこにあるのか分からない。その名残のあるバイクは見つかったけれど、見つけただけで終わってしまった。
「そういうこともあるさ」
そう言うとチカは、ふうん、と適当に相槌を打った。
「ところでさ、イシダさんはどうやって来たの?」
「僕は、電車とバスを乗り継いでここまで来た」
そう言うと、チカは驚いたような顔をした。
「こんなところまで来る路線があるんだ」
「少し歩くことになるけどね」
かつて人が集まった遊園地だ。山の方とはいえ、大きな道路には近い。
「なんなら、乗ってく?」
「いいの?」
「少しって言ったって、結構歩くと思うし、私がいっぱしのライダーだってことも見せつけておきたいし」
チカは、少し恥ずかしそうに言った。自分のバイクを人に見せたくてしょうがないのだ。その時、彼女も僕や友人と同類なんだと思った。
「ヘルメットはある?」
「もちろん」
「じゃあ、悪いけど乗せてもらうよ」