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エミリー  作者: 如月次郎
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起床

埼玉の郊外は相変わらずのどかだ。

春の嵐は過ぎ去り、しっとりとした暖かい風が緑の稲穂を撫でる。

そんな風景とは似ても似つかぬような彼の部屋は、住宅街の一等地の中、目立たぬ戸建ての家にあった。

さぁ彼は、どうしたのだろう?設定しっぱなしの目覚まし時計が午前八時を指して鳴り響いていても動かないままだ。もうすぐ、出勤の時間が迫っているというのに。

彼の携帯電話が鳴る。何度鳴っても、彼は動かないままだ。また時間が経ち、家の電話が鳴る。しかし、彼は横になったまま動かない。寝息を立てているのだろうか?それすらも分からない。

「楠原さん、出勤時間を過ぎています、早く来てください。」

留守電が再生される。しかし、彼は一向に起き上がる気配がない。彼は、とても勤勉な男である。決して無断欠勤などせず、やむを得ず遅刻する場合は必ず連絡を入れていた、のであった。

携帯がまた違う音を鳴らす。とても仲の良い友達からの連絡だ。そういえば今日は、漫画を貸す予定であった。友達は彼の出勤時間など知らないが、そういうことはあまり気にしない性分のようだ。しかし、彼は相変わらず横になったままだ。

"なんだ、返信がないな。しごとか?"

彼は約束は守る男だ。こういった連絡もしっかり返す。今は仕事だから返せない、夜は空いているか?と彼は絶対に返すはずだ。しかし、彼は横になったままだ。携帯は何度も鳴る。

"どうせ暇してるんだろ、仕事行く前におまえんちいくわ"

わりぃ、たのむよ。何時ごろ来れるか?彼はそう打つのであろう。でも、なんということだ。彼は寝ころんだまま、携帯に見向きもしない。いつもの仕事にマンネリを感じてしまって、きっと彼はずぼらになってしまったのであろう。

やがて外からバイクのエンジンの音がする。彼の携帯が、今度は長い間隔で鳴り響く。出ないと大変だ、友達は外で待っている。しかし、彼はやはり寝ころんだままだ。きっと楽しい夢でも見ているのであろう。

「おおーい、真也、いるか。」

友達は原付から降りて呼ぶ。戸建ての玄関の扉からチャイムを押して呼んでも、彼は起き上がってこない。しかし、友達は何か別のものを感じ取っていた。それは彼がただずぼらで約束を果たさないかもしれないということでなはない。確かに友達の鼻は感じでいた。異臭だ。

何かがおかしいぞ。友達は近隣の住民にはおそらくわからないであろう程のかすかな異臭を決して見逃さなかった。玄関の扉を拳で叩く。強く叩いても、彼は起き上がってこない。

そうだ、裏口だ。誤解してはいけない。友達は、彼の昔からの親友だ。家の構造はよく知っている。裏口は、鍵をかけることは少ないということも。泥棒が入った、そんな噂が流れるかもしれない。しかし、そんなことはどうでもよかった。信頼関係から生まれる心配の念と、ちょっとした好奇心とが、友達を裏口へと導いていった。

「開けんぞ。」

裏口を開ける。台所は、よく整理されていた。調味料やカップが整然と並んでいる。しかし、友達にとってそんなことはどうでも良かった。居間に向かう扉はぴったりと閉まっている。鼻をよぎる不気味なにおいは輪郭をはっきりさせるとともに、友達の感情を少しずつ煽っていった。

扉はあまりにも普通に開いた。友達は勝手に上がり込んでいる。彼は怒るべきだ。一言断ってくれよと。友達は非常識だ。それなのに、やはり彼は起き上がってこない。

扉を開けば、そこにはテーブルと、テレビと、箪笥がある。その上に乗っているラジオが、ゆったりと昼の音楽を流していた。友達は、居間には入らなかった。いや、居間までの一歩が踏み出せなかった。それは、ラジオのせいでも、ましてや彼の家に無断で入ってしまったという罪悪感からでもない。そこには、おぞましいほどに大量の錠剤の殻とウオッカの瓶が無造作に散らばっていたからだ。

「まじかよ」

友達は今度は、彼の寝床である二階へ向かった。早足で、階段を駆け上がる。ああ、彼はなんと友達不孝な奴なのであろう。例えプライベートでも社会人としての自覚があるのなら、お出迎えをして、お茶を淹れるくらいのことはしなくてはならないのに。

友達ががらりと寝床の扉を開くと、彼はまだ寝ころんでいた。友達は、泣きそうであった。それは、異臭の元が、いや、決して異臭が鼻についたからではいない。寝ころんでいる異臭の元の隣で、よく見慣れた携帯電話が鳴り響いている。バイブレーションの振動音と混じって、友達の感情を煽りたてる。

「おい、おい」

友達は彼をゆすった。介護経験のある友達でも、知り合いの便失禁の姿は見たくはなかった。敷き布団がぐっしょりと濡れて、異臭はもはや普通の人では耐えられないものであろう。しかし、友達は近くで何度も何度も、狂いそうになりながら彼の体をゆすった。

「だめだ、そうじゃない、こいつは死ぬ。」

友達は自分に鞭を打つように言った後、階段を駆け下り、一階の電話に飛びついた。

"楠原さん、出勤時間を過ぎています、早く来てください。"

やや呆れの入った女性の声の留守電を聞いた友達は思わず拳を振り上げそうになったが、どうにか言い聞かせ、ダイヤルボタンを押した。

パトカーと救急車が住宅街を賑わせたのは、それから15分後くらいのことであった。

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