松重先生の人体模型
「あのさ、ちょっと手伝ってくれない?」
「何を?」
「いいからいいから。ちょっと来てよ~」
立花に腕を引っ張られ、ぞわっと鳥肌が立った。こいつ、何を考えてやがる、どうして何の躊躇もなくこんなことが出来るんだ。
立花の押しに負けて俺は言われるがままついていった。校内に入っても立花は俺の腕を柔らかく掴んでいたので、さすがにこのままではまずいと手を振り払った。
「子供じゃないんだから、離せって」
「高橋って大人だったんだ」
普通そんな返しするか? 立花にとって他人の視線なんて無いようなものなのだろうか、なんとなくそんな雰囲気はあるが。
「そういう問題じゃないだろ……」
立花の手は暖かかった。服の上からでも感じる柔らかさ、幼稚園の頃肌身離さず持っていたぬいぐるみを思い出す。
「何処行くの?」
「もうすぐ着くよ」
立花が足を止めたのは理科室の前だった。数か月に一回程しか入ることの無い理科室、両開きのドアは去年塗り直されたばかりで新品のように真っ白だった。どうして理科室の扉はこうも冷たい印象を醸し出しているのだろう。
「理科室?」
「連れてきました~」
立花がためらわずにドアを開けて誰かに呼びかけた。奥から出て来たのは生物の松重先生だった。松重先生はたっぷりと顎に蓄えた白髭を指で弄びながらよろよろと歩いている。
根っからの科学者といった出で立ちの先生は声が妙に高く、しばしば変態的な言動があることから男子生徒から好かれたり女子生徒からは気持ち悪がられたりと両極端だが、当の本人は至ってマイペースだった。
松重先生が至近距離から俺の顔をまじまじと覗き込む。目じりの深い皺はこの先生の長い人生を象徴する勲章のようにも見える。
薄い皮膚のすぐ下にある堅そうな背骨が緩いアーチを描きながら首と腰を繋いでいる。俺を観察し終わると犬が匂いを嗅いで何かを認識したかのようにふっと緊張を解いた。
「お前は、高橋か。高橋だよな? いや、田辺か?」
「高橋です」
「高橋と言ったろうが」
松重先生は不機嫌そうにぷいっと立花のほうを向いてしまった。一瞬暴力的な感情が沸いたが、すぐに思い直す。
「はは」
苦笑いを浮かべて立花を見ると立花は既に松重先生と話しこんでいた。
「立花、体力がありそうな奴を連れてこいと言ったろう」
「だって、高橋ぐらいしか思い当たらなくて。私友達居ないんですよ」
二人の様子からすぐに自身が雑用要員として呼ばれたのであろうことが知れた。
「あの、俺は何をすれば?」
「いやなに、ちょっと人体模型を持って帰ろうと思い立ってな。わしの車まで運んじゃってくれ」
松重先生の目線の先にある人体模型は既に梱包されて首から下が段ボールに埋まっていたが何故か頭だけつくしのように箱から飛び出していた。等身大の人体模型、確かに女子と老人二人では少し厳しそうだった。
「何で頭だけ出てるの?」
「段ボールが足りなかったんだよ。でもあれはあれで結構かっこい
いでしょ?」
立花が柔らかい視線を人体模型に向ける。俺にはせいぜいR指定の黒ひげ危機一発にしか見えない。
「趣味悪いな」
「あはは、よく言われる」
「さっさと始めちゃってくれるかね? 君らも早く帰りたいだろ?」
俺は言われるがまま人体模型を抱え上げた。思っていたよりも軽いが段ボールに包まれているのでかなり持ちにくい。すぐそばに顔部分が来ると人形だとわかっていても少し焦る。