言えない
始まりのチャイムが鳴る。
憂鬱な朝だ。今日、坂井に自分の気持ちを言わなければならない。ホームルームはどうでもいい話ばかりで、俺は机に頬をくっつけて、教室の隅で頬杖をついている立花を眺めた。
立花は目を細めてだるそうに黒板を眺めていた。どうしてだ、どうしてあいつに惹かれるんだ? これまで何とも思っていなかったのに、坂井よりも付き合いは長いが大して仲も良くないのに。
英語、数学、体育……何一つ頭に入らない。国語は別で、頭にねじ込まれたような感じ。昼休みに入ってから俺は体育館裏へ向かった。
自転車置き場は校舎の影になっており、風が吹き抜けたりはしないが常にひんやりと冷たかった。
俺は学校という大きな壁に寄りかかって顔全体を手で何度も擦った。
今日に限ってつまらない授業があっという間に感じる。普段がこれならどれだけ楽なことだろう。
「ああ……」
ため息に声が混じる。脛の辺りがもぞもぞと痒かったので裾を捲りあげると小さい蟻が肌の上をちょろちょろ歩いていた。払い落としてから意味も無く脛毛をいじっているとほんの少し落ち着いた。
教室へ戻ると後ろのドアのすぐ側の席で立花が机に向かって何か描いていた。余程集中しているのか、背中が猫のように丸くなっている。そっと覗いてみると真っ白いレポート用紙に真っ黒いドレスの女が描かれていた。女の目は狐のように切れ長で、短い線を幾重にも重ねて描かれた輪郭からは独特の世界観を感じさせる。
これ以上見ていると立花に気付かれるので俺はさっさと自分の席に戻った。
座ったとほぼ同時くらいに化学の星先生が入ってきた。星先生も生徒からの信頼は薄く、クラス内のがやがやとした雑談は終わらない。
「はい、静かに」
そうは言うが形だけで、生徒を無視しながら星先生は授業を始めた。給食後の眠い目を擦りながら元素記号を眺める。こんな時間でも工藤さんは背筋良く机に目を落としている。やっぱり根本的なところが俺たちとは違うんだなと最初は感心したが、良く見ると机の上にあったのは数学ⅡAの問題集だった。
工藤さんは美人だ。鼻筋が通っていて目は大きいがどこか切れ長で、耳にピアスの跡は無く髪の毛は黒のサラサラロング。毛先には少しパーマがかかっていて歩くとふわふわなびく。
工藤さんはきっと有名大学に入って大企業に勤めて、どこかの御曹司と結婚して、たくさんの子供たちに看取られながら人生を終えるのだろう。
美貌と頭脳、そしてしたたかさまで併せ持つ恐るべき女子高生だ。
俺がもし工藤さんのような完璧人間だったら、坂井への上手い返しも思いつくんだろうな……。
体が無性に震える。胸が火炎太鼓のようにどかどかと内側から振動を伝える。逃げ出したい、あの時と同じだ。ポマードに呼び出されたあの時と。
携帯のバイブが鳴った。思えば携帯を買ってから一度も着信音を鳴らしたことがない。携帯を買って説明書の目次を見たとき、真っ先に探したのはマナーモードの使い方だった。
卓球部の矢野からのメールだ。
「坂井今日休みだってよ」
体の震えが止まった。とりあえず今日は安心だ、なんて一瞬でも思った自分をぶん殴りたい。妙な空虚感を抱いたまま、俺は坂井を待っていた自転車置き場からそのまま自転車に乗って校舎を抜けた。夕焼けが落ちそうな空を、自転車に跨ったまましばらく眺めた。
坂井はどうしたんだろう、やっぱり昨日のあの寒さにやられたのだろうか。熱を出して寝込んでいる今も俺のカイロを抱きしめているのかと思うと、どうしようもなくやるせなかった。
自転車のベルは錆びてもう鳴らない。昔、俺が初めて自転車に乗った時はやたらとベルを鳴らしたものだ。あのちゃちなくせに無駄に大きい音が、生まれてからほんの一瞬で消えていくのを不思議な気持ちで聞いていた。
押すだけ押してみるとジャリジャリと中でサビが剥がれ落ちる音が聞き取れる。懲りずに何度も右手の親指で押したが、ベルの音が響くことはなくサビの微粒子がポロポロと後ろへ流れ去るだけだった。
ペダルを蹴ってタイヤをスピードに乗せる。夕焼けを裂く、鉄の塊。