坂井 2
「少し、考えさせて」
俺の言葉を聞いて坂井がはっと視線を上げる。目が合った。ほんの少しだけ濡れて街灯の光がキラリと坂井の瞳に反射する。息が詰まった。
「……はい、待ってます」
「うん」
スタンドを蹴り上げる音が大きく聞こえた。普段は何とも思わない音が今日はやけに鬱陶しい。坂井は俯きながら立ちすくんでいる。小さい体が余計に小さく見えた。このまま行っていいのか。
「カイロ、捨てないでくれよ」
「え?」
「返してくれな。明日」
「でも切れちゃいますよ?」
「いいから、明日ちゃんと返せよ」
俺が考えた最良の会話だった。
「カイロを返せ」ということはそのカイロがまだ必要だということ、無意味なカイロが必要だということは何か訳があるということ、つまり俺は坂井のことが嫌いじゃない、むしろ好意的に思ってますよというメッセージが込められている。
坂井にそのことが伝わったかどうかはわからない。でも坂井は頷きながらにこっと笑って見せた。これで俺自身も明日坂井と会わないわけにはいかなくなった。こうでもしなきゃ、逃げ出しそうだった。
坂井と別れて道路沿いに自転車を走らせる。両掌がじっとりと汗ばんで全身が小刻みに揺れるほど心臓が鳴った。
自転車は少し力を抜くと横転してしまいそうで運転に全身全霊で取り組まなければならなかった。
自分の家に自転車を停め、鍵を閉める。玄関のドアに手を掛けたが、鍵が掛かっていた。なんだかわからないが急いでインターホンを押した。
「はい?」
母さんが間の抜けた声を出す。
「ただいま」
「は~い」
早く開けろと心の中で何度も叫んだ。カチャっと金属音がする。俺は母さんが開けるより先にドアノブを回して勢いよくドアを開いた。
「どうしたの?」
「何でもない」
革靴を放り投げるように脱ぐと小走りで2階への階段を上った。自室のドアを開けてベッドに仰向けに倒れ込み、鞄をフローリングへ放り投げる。
唸り声とも叫び声ともわからない声を五秒くらい上げた。全身に張り詰めていた緊張が解けて流れ出す。
ようやく落ち着くと白い天井の一点を漠然と見つめた。
今日の出来事が頭の中を駆け巡る。立花がポマードに怒られ、俺はこの機を逃すわけにはいくまいと職員室前まで立花に会いに行き、しかし立花に口で完全に負け、教室に戻ったがまだ淡い期待を胸に立花を待って、結局努力は報われず立花と別々に帰る羽目になった。
しかしその後坂井が現れた。自転車で一緒に帰る途中、坂井から告白されて、俺は坂井にカイロをあげて帰ってきた。
そして今ここにいる。
何やってんだろ……俺は。高校二年にもなっておどおどして。冷静になってよく考えろ。坂井には可愛い後輩としての感情は抱くものの、恋愛感情なんて無い。まだ中学を卒業したばかりで幼い坂井、これからどんどん綺麗になって垢抜けて行くことだろう。でもそれはまだ先の話だ。
告白されて舞い上がって、俺は坂井のことが好きなんじゃないかとも思ったけど、違った。雰囲気に呑まれて平常心ではなかった。坂井と付き合うなんて実感がわかない。少なくとも勇気を出して俺に思いを打ち明けた、あの坂井のような情熱は俺にはない。
なんでカイロをあげたんだろう……坂井はきっと明日、良い返事が貰えると期待しているはずだ。もし断ったら坂井とは今までの関係でいられなくなるのかな、坂井もきっとそのつもりで打ち明けてくれたんだ。
「凄いな、坂井は」
一階から夕飯を知らせる母さんの声が聞こえる。あの真面目で小さい坂井が正面からぶつかってきた、だから俺もそれに応えなきゃ。
階段を降りながら短い卓球部時代を思い出していた。
「先輩、一緒に練習しましょう?」
坂井、いつもそう言ってたな。