坂井
「え」
身体から寒さが吹き飛ぶ。好きな人がいるか、これはあれだ。あのパターン。ここで「いないけど」と言ったら、次に坂井は絶対にあの言葉を言うだろう。こんな経験はもちろん無い。でも今の空気感、坂井の真剣な表情、嫌でもわかる。
ルックスも可もなく不可もなく、自分では普通よりちょっと上くらいかななんて思ったりするがそれでも自信があったわけじゃなくてつまりは一人でエロ本を買う度胸も無く「俺」なんて使っているけど中学終わるまでは「僕」で通してきたような根性無しの「俺」が今「青春」という二文字のその大半を占める誰もが憧れるような状況に直面している。
いや誰もが憧れるといってもほとんどの男子が経験しているごく普通なことのようだったりもするわけで、いやそれでも女の子から告白されるなんて相当だぞ。どうする? いやまだ告白と決まったわけじゃない、素直に無心に、答えればいい。
「別にいないけど」
いないの? 本当に? 立花のことはもういいのか? 何が何やらわからなかった。坂井のことは嫌いじゃない。顔は特にタイプじゃないけど話していて楽しいし飾らなくていいし、むしろ好きの部類に入る。でも坂井と付き合う?
俺は自分の気持ちよりも「恋愛」というものへの憧れだけでこんな返事をしたんじゃないか、だったら最低だ。坂井を弄んでいるに過ぎない。
「ほんとですか!」
坂井は声を弾ませた。まるで小学生みたいにぴょんと跳ねて喜びを表現する坂井、これはもう確定だ。
「先輩……」
ああ、来る。ついにあの言葉が坂井の口から放たれようとしている。坂井の唇が動いて一字一字がスローモーションのように俺に投げかけられる。
「私、先輩のことが」
「あうあ」
追い詰められた俺の口からこれまで出したことが無いような不思議な音色が漏れだす。
「え!」
びっくりして声を上げる坂井。俺自身も驚いて咄嗟に自転車から飛び降りた。
「どうしたんですか?」
「いや……。なんでもない、ごめん」
坂井が苦笑している。しばらく無言の間があった。坂井を困らせている、何をしてるんだ俺は。
「ちゃんと聞くよ」
自転車のサイドスタンドを立てて俺は坂井と正面から向き合った。
「……前から好きだったんです。先輩の事」
途端に坂井の顔が目に見えて真っ赤になったが、その中にはやっと言えた達成感のようなものもあって、綺麗だった。坂井が両手で掴んでいるカイロはぎゅっと潰れて小さくなっている。
「そっか」
俺の顔も坂井に負けないぐらい赤くなっていたはずだ。平静を装って放った「そっか」の一言さえ、少し震えが交じっていた。どうする? 何て答えればいい? その時の俺には何も考えることが出来なかった。