灰燼に帰す、その前に
/after dawn
闇夜の静寂に張りついた偽物の月が、俺を見下ろして嘲るように笑っていた。紛い物のくせして、本物と見分けがつかないように造ったのは、誰の悪意によるものだろうか。
悪意。そうだ、この世界には悪意ばかりがはびこっている。一歩踏み外せば、手薬煉引いてはみ出しものを底無しの奈落へ追いやろうとするのだ。平穏な〝日常〟とやらを維持するために。
日常。そのくだらない枠組みを維持するために、どれだけの代償が支払われたのだろうか。誰が、何のために、こんな終わってしまった世界を躍起になって維持しようと企んでいるのか。終わっていると認めたくないが故に、だろうか。あるいは、未だにカネだけが救済をもたらす唯一にして絶対の手段だと信じきっているのか。だとすれば、そいつらは救いようのない信者だ。どうせいつかは何もかもが灰燼に帰すだけなのに。尽きることのない欲求を追いつづける肉塊どもは、もはやリビングデッドと変わらないのではないか。
くだらない。
俺は、人工の月球を睨み返す。三十八万キロほども離れていないくせに、届くものなら手を伸ばしてみろよ、と不遜な態度でそいつは輝き続けていた。生臭い風が、ふと吹き付ける。上層の廃棄処理場から流れ込む風が、ふだんよりもささくれ立った神経を尖らせた。黒く塗りつぶされた空には、綺麗な星が規則正しく散りばめられていて、それが余計に苛立ちを増幅させる。
人の高さほどの鉄柵を乗り越え、五メートルほど進むと、風の勢いが増した。眼下には、人工の黒よりも深い漆黒が満ちていて、それこそが本当の世界への入り口なのだ、と俺は確信する。切り立った崖は、市街の外れ、シェルターの最南端に位置していて、まともな人間なら決して足を向けることのない場所だった。
両腕をゆっくりと広げる。目を閉じて、深呼吸をして、数十秒。覚悟を決めるのに、多くの時間はかからなかった。
一歩、足を踏み出す。不思議と震えはなかった。中天に座する偽物の月も、この瞬間ばかりは黙して何も語らない。そうだ。世界は真実を語ったりなどしない。父親も、母親も、兄貴も、黙って、ここから飛び降りた。それだけが、俺に与えられた判断材料だった。俺も、これからその仲間入りを果たす。死後の世界など信じてはいないが、行き着く先は同じだろう。
ふと、叢を踏みしめる音が背後で鳴る。氷のように冷えた感触が、肩甲骨の辺りから伝わる。それが何の脈絡もなく、どん、と跳ねた。まるで誰かに両手で押されたかのように。俺は思わず両足をふんばって踏みとどまろうとするが、前のめりになった身体が宙にゆっくりと投げ出されているのを自覚した。
――ああ。俺は死ぬのだ、と。
恐怖心はなかった。ただ、涙がしぜんと溢れ出ていた。そのことに自分自身で驚きを隠せなかった。父親が、生前口にしていた言葉を、ふと思い出す。
「男は、自分が死ぬときに泣いてはいけない」
それはどうして、と咄嗟に俺は訊いていたと思う。当時の俺は、死に対する絶対の畏怖がまず先にあって、泣かずに死ぬことなど無理な話だと信じきっていた。兄とささいなことで喧嘩をして階段から転げ落ちたのが原因だったかもしれない。死と苦しみは不可分な存在で、死を伴うほどの苦しみなど、想像するだけで腹の底がチリチリと痛むようだった。
「男は、色んなものを背負わなくてはならない。どんなに苦しくても、足をふんばって、耐えて、痛みをこらえなければならない時が来るんだ。その時、泣いていたら格好がつかないだろう?」
そう言って、父は朗らかに笑っていた。確か、父が身を投げ出す少し前の日のことだ。その後、ここから身を投げたということは、結局、父も人間だったということなのだろう。どんなに頑張って生き抜いても、一人で背負える荷物には限度がある。父には膨大な借金があった。会社の同僚に騙され、借金の肩代わりをしてしまったらしい。「社員も家族の一員だ」と豪語していた父は、ある日を境に口数が減り、溜息ばかりをこぼすようになった。
そこから先は、雪玉が坂道を転がるように、あっという間だった。父の死後、残された俺たちは、闇金の連中に追われて、離散する形になった。行く先々で追われては逃げ、逃げては追われ、上層に俺たちの居場所は残されていなかった。親戚も、友人も、誰も助けようとしなかった。くだらない日常を維持するために、異分子は排除されるほかないと知った。
カネさえあれば、父も、母も、兄も、そして俺も死なずに済んだのだろうか。カネの価値さえ疑わしくなった、こんな終わった世界でも、カネがいつまでも呪いのように人を縛りつづけ、階層を固定化している事実に、俺は拍手喝采してやりたかった。ああ、反吐が出るほど美しい世界だな、と。
涙が止まらない。
無意識に伸ばされた右腕が、痛みに軋む。今にも肩から引きちぎれてしまいそうだ。奈落の底で、手を伸ばしながら絶命している姿はさぞ滑稽に違いない。
「で、どっちなのよ」
声が、した。正確には、降りかかってきたというべきか。近頃は若い女が地獄の閻魔とやらを担当しているのだろうか。あるいは、地獄の門の対岸に立つ水先案内人か。それならば合点が行く。
「死ぬなら死ぬ。死なないなら、死なない。早く決めれば?」
「俺はもう死んでいる」何を当たり前のことを、と思う。もしや、地獄へ行くのにも身分証明書が必要なのだろうか。だとすれば、何も持たない人間はどこへ向かえばいいのだろう。
「あなた、バカでしょう」
涼やかな声に、軽蔑の色が混ざった。なんとも口の悪い水先案内人だ。
「目を開けて確認しなさい。あなたの命の行く末を握っているのは私なのよ。あなたが望めばすぐにでも離してあげるけれど」
現実的なその物言いに、目をこじあける。右腕の感覚が薄らぎ、痺れとも痛みともつかない違和感を覚える。横殴りの生臭い風が吹くと、足場がなく、全身が揺らいだ。岩肌から顔を上げると、女がいた。長い髪に覆われて、表情はよく見えないが、黒い空より近いところにいることくらいはわかる。手首が、強く握られている。目の前が真っ暗になり、血の気が引くのがわかった。
「早く決めなさい。こっちもあんまりもたないんだから」
語尾が苦しげにかすれる。もう片方の手が、俺の右腕に添えられた。引き上げられる力が増した気がする。
「わかった。早く引き上げてくれ」
腹の底から絞り出したはずの声が、悲痛な叫びのようにも思えた。そして、そんな声を上げる自分自身に情けなさがこみあげてきた。知らず、涙が次々とこぼれる。どうやら、父の言いつけは守れそうにない。
上半身が崖の上部に到達する。左腕を支点に足を掛けて自分の力でよじ登ろうとしたところで互いの均衡が崩れ、女と抱き合うような格好で叢に倒れこんだ。胸が激しく上下して、酸素を求めて喘ぐ。呼吸の音が、いやに耳につく。やわらかな地面の上に投げ出されているのに、足元が未だに浮遊しているような感覚だけがずっと残っている。
女は荒い息を吐きながらも、覆い被さっている俺を乱暴に退けるようにして立ち上がり、身軽に柵を乗り越えていった。何か言葉をかけようとしたが、うまく言語が形になってくれない。
俺は、あの女に命を助けられたのだ。それなのに、実感がわいてこない。ただ、死ぬことに失敗したという事実だけが、重くのしかかっていた。
崖の向こうに広がる無限の暗闇を、再び覗き込む勇気はなかった。起き上がり、確かめるように硬い地面を踏みしめて柵を越えると、女が仁王立ちしていた。思ったよりも背は小柄で、よくあんな馬鹿力が出せたものだな、と感心するほかない。女は躊躇なく近寄ると、俺をキッと見上げ――瞬間、左頬に痛みが走った。
「何するんだよ」
「愚かなあなたに生きてるということを教えてあげたのよ」無表情を崩さずに女は言った。
「別に、助けて欲しかったわけじゃない」
「つまらない冗談ね」女は顔にかかった前髪を鬱陶しそうにかきあげた。「だったら、もう一度手助けしてあげてもいいわよ。あなたの望むとおりに、ね」酷薄な笑みが、月光に照らされて浮かんでいた。
「手助けなんかいらない。自分が死ぬときくらい、自分で決める」
「誰かに背中を押されないと、飛べなかったくせに?」
口端が、醜く歪んでいた。この女は、醜い。世界に散らばる悪意を凝縮したような顔だ。肌が粟立つのを感じた。この女に深く関わってはいけない。一度は死を決意した俺にも、身の危険くらいは避ける心構えがある。一歩後ずさると、柵があった。ああ、俺はここを再び越えなければならないのだ、と暗澹たる気分になる。
「だって、あなた、死にたいんでしょう。だから、私が背中を押してあげた。気づかなかった?」
そういえば、冷たい感触が背中に当たっていたことを思い出す。そうか、あれは女の手だったのか。
「それは余計なお世話だろう。だいたい、背中を押したなら、なぜ俺を助けようとした」それが事実ならば、自作自演もいいところだ。突き落とそうとしたその腕で、俺を必死に引っ張り上げるなんて。父の会社で借金を押し付けて逃げたという男が不意に思い浮かんだ。あの男は、借金を押し付けておきながら、父の家族――つまり俺たちの身を案じていたらしい。その噂話を間に受ければ、男はとんだ人格破綻者だ。人間とはこうも残酷になれるのかと思うと、ぞっとする。そうだ、人間とはろくでもない、エゴと矛盾だらけの生き物だ。
女は真顔に戻ると、聞こえるかどうかわからないくらい小声で、何事か呟いた。黒いワンピースから突き出た白く華奢な腕が、何かを抱きすくめるように交差する。
「別に……あなたが本当に死にたいようには見えなかったからよ」
見えない何かに怯えるように、女は視線を落とした。
「随分とお節介な死神さんだな」
「あら、私が死神にみえるのね」
「見た目だけなら、そうかもな」
すっかり気分が醒めてしまった。あれほど死を望んでいた自分が鳴りを潜め、もう少しの間、こんな終わった世界で休憩するのも悪くないと思う自分が顔を覗かせている。それもこれも、すべてこの女のせいだ。女はもとの無表情に戻ると、言った。
「そうね、あなたの言うとおり、私は死神よ。でも、死神が人を助けたのは、これが初めて。光栄に思うことね」
「お節介なうえに、傲慢か。救いようがないな」
だから、少しだけ、この女に関わってみようと思った。日常というくだらない枠組みから外れた人間特有の、退廃的な匂いを感じたから。
「ええ、誰にもね」
偽物の満月が、一段と大きくなったような気がした。
「それで、あなたはこれからもう一度飛び降りるつもりなの?」
恬淡と問う声に、俺は首を振る。
「今はそんな気分じゃなくなった」お前のせいでという本音は飲み込んだ。「適当に頃合を見計らってもう一度ここに来る。できれば、お節介で傲慢な誰かがいないときにでも、な」
「ずいぶんと嫌われたものね」
「死神が好きな人間などいないだろう」
「死神はあまねく人間を愛しているのにね」
「歪んだ愛情だ」
もっとも、歪んでいない、真の愛情がどういった形をしているのか、見たこともないが。賽の河原で苦心して積み上げても、カネの前にすべては妥協し、醜く崩れ去るだけだ。そしてカネさえも、死の前では等しく無意味で無価値だ。
俺は、女の横をすり抜けて、その場を後にしようとした。が、すぐさま袖が強く引かれ、体勢を崩しそうになる。
「向こう見ずなあなたが死を選ぶのは勝手だけれど、ひとつだけお願いを聞いてくれないかしら」
「断る、と言ったら」俺が訊くと、「あなたが自分の死ぬときを、自分で決められなくなるくらいね」ニコリともせずに女が答える。
もしかすると、こうして呼び止められることを期待する自分が、心の繊細な部分に知らず、住み着いていたのかもしれない。他者に期待をかけることは、よくないことだと知っていた。期待とはつまり、目が眩むことだ。
「わかった、恩人の頼みならば聞こう」
だから、顔に出ないよう細心の注意を払う。
「ふうん」しばし、女が意外そうに視線を上げるが、「聞き分けのいい男の子は、嫌いじゃないわよ」と、すげなく流した。
ついてきて、と女が身を翻し、早足で歩き出したので、慌ててその後を追いかけた。
碁盤目状に張り巡らされた市街地の裏通りを、女は迷うことなく進んでいく。等間隔に設置された街灯の明りは頼りなく、窃盗団やならず者の類いが近隣を徘徊していてもおかしくない時間帯だった。住民は寝静まっているのか、物音一つさえしない。
やがて、一軒の何の変哲もない住宅の前で女は立ち止まり、中に入るよう促した。まごついていると、女はすました顔で門をくぐり、ポケットから鍵を取り出して、そのまま滑るように扉の向こうへと姿を消した。
お邪魔します、と律儀に声をかけ、入る。久しく忘れていた感覚だった。当たり前のように享受されていた頃は、考えを巡らせることもなかった、住宅の温かみ。多少の隙間風が侵入しようとも、内装が汚れていようとも、そこにはヒトの暖かさが息づいていた。
「どうしたのよ、そんなところで突っ立って」
あきれたように眉尻を下げて、女が振り返る。そこからは冷徹に背中を押した「死神」の面影を見つけ出すことができなかった。
「死神のくせに、やけに人間じみた家に住んでいるんだな」
「死神と人間は兼任できるのよ。知らなかった?」さも当然のように女が小さく胸を張る。冗談のつもりだったのか、俺が何も言えないままじっと女を見つめていると、取り繕ったように表情を硬くして、つい、とそっぽを向いた。
案内されたのは、リビングではなく、二階の奥にある一室だった。少しここで待っていてと指示を受けてから、ゆうに十分以上は経っただろうか。中から女の話し声が時折漏れる以外は静かなものだった。
「入っていいわよ」
ようやく声がかかったので、室内に入る。すると、一対の無垢な視線がこちらを物言いたそうに見つめていたので、あいまいに会釈すると、弱々しく微笑んだ。まだ、幼い少女だ。痩せぎすで、質素なパジャマに身を包んでいるその姿は、映写機の中にしか存在しない星粒のようで、今にも掻き消えてしまいそうだった。少女がベッドから身を起こそうとすると、「まだ寝てなければダメよ」と女に窘められて、また横になる。
部屋の中は女の子のおそらく生活空間にしては整然としていて、物が少ないが、目立った埃もなく清掃が行き届いているという印象を受けた。
こちらへ、と女に手招きされて、ベッドの縁に腰掛ける。説明を求めて女に視線を向けると、「未来はね、私の娘なのよ」と女は言った。しかし、すぐに首を振り「正確には私がこの子の母親、なのかしらね」と訂正する。
女は肩口で切りそろえられた少女の髪を梳くように撫でる。少女は目を細め、胸の前で手を組んで、されるがままになっている。そんな二人の様子が、あまりにも堂に入っていたので、思わず信じ込んでしまいそうになった。俺という異物が紛れ込んだことで、この静謐な空間が壊れてしまわないかと、一枚の絵画を前にしたときのような神妙な気分にさせられた。
けれど、幻想は、あくまで幻想にすぎない。だから、俺は一つ一つ言葉を選びながら、確かめるように言う。「仮にあんたが、彼女の母親だとして」
「年齢が合わないと、そう言いたいのでしょう?」女は平然としていた。そんなことは誰にでもわかることだろうと、俺の邪推を先回りしていたのだ。「あなたの想像するとおりよ。私はこの子の本当の母親じゃない。でも、この子は……未来には、他に誰もいないのよ。だから、私がその役目を果たすことにしたの。そうじゃないと」女は下唇を噛む。ここにいるときの女は、人間らしい一面ばかりを見せる。はたまた、それが本来の彼女自身なのか、俺には見当がつかなかった。
少女に視線を移す。少女は俺と女を交互に眺めてから、うん、と満足げに頷いた。それが何を意味するのかわからないが、不思議と不快ではなかった。
「みくっていうんだな、名前」
「ええ、未来と書いてみくと読むの」少女の代わりに女が答える。少女は、喋ることが苦手のようだった。あるいは俺という異質な存在がそうさせているという可能性は否定できない、というよりその公算のほうが高いが。
「いつからここに住んでいるんだ」
「どうだったかしら……もう何年もここで共に暮らしていると思うわ」女は指折り数えながら、何故そんなことを訊くの、と問い返す。
「いや、死神のあんたが、こうして家族と平穏に住んでいる光景が意外だったんだ」
失礼ね、と一旦は眉根を寄せるが、すぐに考え込む仕草を見せて、「そうね、失礼したのは私だから案外間違ってもいないか」と独りごちた。そして、顔を上げると、相変わらずの無表情で、「それじゃ、待たせたけれど、あなたをここに呼んだ理由を教えるわ」
願いごとを、告げた。
「父親?」
父親を失った俺が、見知らぬ誰かの父親代わりになる。二つの事柄には何の因果も成立していないのだが、今は切って切り離せない感情がそれらを密接に結び付けている、そんな気がした。
「あなたに、未来の父親になってほしいのよ」女は同じ言葉を繰り返した。「期限は一週間。それ以上は強制しないわ。あなたはその先、自分で決めた道を進めばいい」
「背中を押したりはしないのか?」皮肉をこめて言ってやると、「ええ、押すことはもうしないわ」と、軽い調子で女は答えた。
「ひとつだけ、訊きたいことがある」
「何でも訊いて。もし、あなたがこの話を受け入れられないのなら、それも一つの選択だし、止めたりはしないから」
「どうして、一週間なんだ?」
「一週間後に、未来が死ぬからよ」
なんでもないことのように女は言った。俺は驚いて、思わず墨色の双眸を凝視する。
「死神だから。それくらい知っていても何も可笑しくはないでしょう?」さも可笑しそうに、女は色素の薄い唇の端を持ち上げる。寝食をともにした同居人が近い未来に死を迎えようとしているのに、どうしてそんな表情ができるのだろうか。
救いを求めて視線を外すと、未来と呼ばれた少女も、なんでもないことのようにくすくすとひめやかに笑っている。理解が追いつかない。少女は不躾な視線に気づくと、小首を傾げた。きっと誰もが知っていて、誰にもわからないのだろう。
ともあれ、世界で最も歪んでいるのは黒衣を纏った女にちがいないと確信を深めた。
俺が押し黙っていると、女は過去を懐かしむように少女との馴れ初めを静かに語り始めた。その横顔は慈愛に満ちたものに摩り替わっていたので、余計にさきほどの死神然とした顔つきだけが違和として残った。
「その頃の私は、訪問看護師として、医師に付き添いながら、上層の家々や施設を回っていたわ。毎日大変だったけれど、やりがいのある仕事だし、誇りもあった。けれど、いつだったかしら。ある資産家のお宅を訪問したときに、患者さんが言ったの。『しかし、一時は世界が終わるかもしれないと思ったが、シェルターも住めば都だな。こうして日常は戻ってきたし、儂は安心して布団の上で死んでいけそうだ』と。その言葉を聞いたとき、私は頭を鈍器で殴りつけられたような衝撃を受けたわ」
女は顔をしかめる。膝の上で握られた拳が、小刻みに震えていた。
「だって、今この世界で暮らしている人の中で『安心して布団の上で死んでいけ』る人なんてほんの一握りしかいないもの。私はその時、自分が手助けしている人間は“本当に助けを必要としている人間”なのだろうかと思ってしまった。やりがいがあったはずの仕事が色褪せていくような気がしたの。だから――ここに、下層に来た」
格差。その言葉が切れ味の鋭いナイフとして喉元に突きつけられ続けていた。こんな終わってしまった世界でも、例外なくふるいはかけられて、持てる者と持たざる者に選り分けられていく。俺もふるいをかけられた一人としてここへ迷い込んだ。日常を享受できる人間には『人間らしい死』が用意されているが、そうでない者は、誰にも看取られることなく、孤独に息を引き取っていく。それが、人類の定めた取り決めだった。孤独が死と同義というのなら、もはや下層に生きている人間などいないのかもしれないと、くだらない思考が頭をよぎる。
「案の定、ここには満足に医療を受けられるほど経済的に余力のある人は殆どいなかった。苦しみ、憎しみ、哀しみ、その他諸々の悪意が、建設途中で放棄された鉄骨みたいに剥き出しのままだった。いわゆる闇医者は存在するけれど、患者の絶対数が多すぎて実質的に機能していないし、何より、医療設備の問題だけはどうにもならないのよ。だから……」女は力なく首を振る。俺には看護師の苦労を実感として理解することはできないが、無力感がひしひしと伝わってくるようだった。
「私は、いつしか医療行為さえも放棄していた。すべてが無意味で無価値な先延ばしにしか思えなくなって、それで、ある時」声を詰まらせながらも、自らに罪状を突きつけるように言い切る。「殺してくれ、と声が聞こえた気がしたの」
「そうか」重くのしかかる沈黙に、ただそれだけを返す。間を持たせるためだけの、無意味な相槌だ。少女は眠ってしまったのか、すぅと寝息を立てている。女は布団の乱れを直すと、少女の耳元に顔を寄せて何かを呟き、気を取り直すように艶のある長い髪をかきあげる。
「未来に会ったのは、ただの偶然よ。偶然広場でみかけて、偶然あの子の体調が悪くなったから、偶然診てあげて、そしたら、ひとりきりで住んでいるというから、母親の真似事をするのも悪くないかなと思って。あなた、知ってる? 家族として暮らしているほうが多く手当が貰えるし、配給も少しだけ優遇してくれるのよ。だから、私は身分を偽って未来の母親面をして、のうのうと暮らしている」
一気に捲し立てた後、乾いた笑いを立てた。目尻に涙さえ浮かべながら。
「笑いなさいよ、あなたも。言いなさいよ、『死神は詐欺師も兼任してるのか』って! そしたら、私、言いかえしてやるわ、『今時の死神は何でもこなせなきゃ務まらない』って!」
嗚咽を漏らす女が、ひどくちっぽけに見えた。こんなちっぽけな彼女が死に行く人々のために鎌を宛てがわなければならない世界が、理不尽でなければなんだというのか。だから、俺の心はもう決まっているようなものだった。
「誰も不幸にならない嘘なら、ついても良心の呵責に苦しまずに済むだろう」
良い結果をもたらす嘘は、不幸をもたらす真実よりいい、という遠い時代の諺を淀みなく思い出す。いつだったか、父と兄の三人でキャッチボールをしたときに教えてもらった言葉だと記憶している。「三人では野球ができなくても、キャッチボールはできるだろう。キャッチボールだって、立派な野球だ。だから、全力でボールを投げてこい。真っ直ぐに、俺の胸をめがけて投げろ」とグローブを構えた父親が、あの頃の俺には大きく映っていた。そんな父に、憧れていた。
そうだ。理不尽に屈するくらいなら、たとえ鼠の一噛みだとしても、抗ってみせればいい。同じ死ぬにしても、作り物の天蓋に一矢報いてからでも遅くないはずだ。ましてや偶然訪れた幸運ならば、ありがたく享受させてもらうのが幸運に対する礼儀というものではないだろうか、とさえ思った。
「だから、俺は付き合うことにする。一週間の嘘に。この娘を幸せのまま見送るための嘘に」
うなだれる女の頭に手を伸ばし、艶やかな黒髪にぎこちなく触れる。当然のことながら、死神にも血は通っていた。
三人で暮らす平凡な一週間は、矢の如く過ぎていく。無理もない。父親の代わりをつとめるといっても、実際にはどういった態度で接すればいいのかわからず、正解を見つけるための試行錯誤を繰り返す時間のほうが体感として長かったくらいだ。家族の一員として最初に任を受けたのは配給品の荷物持ちだった。その日から力仕事の類いは、「あなたは男だから」という理由ひとつで、俺の役割になった。手持ち無沙汰の身にようやく仕事らしい仕事が与えられて、安堵の息をついた俺に「まったく、あれほど格好いいことを言ってみせたくせに、しょうがない人ね」と呆れ顔で女が肩をすくめたのはいうまでもない。
めまぐるしい生活環境の変化に翻弄されつつも、暇を見つけては、二階の部屋で未来と話をした。あるいは話をしない時間のほうが長かったかもしれない。俺自身、語るべき言葉を多くは持ち合わせていない自覚があった。それでも少女は、内容に乏しい俺の話を一つ一つ咀嚼するように頷き、時には彼女から興味のある話題をぽつりぽつりと話しはじめるようになった。
未来は、星空の話が好きだった。天蓋に世界を覆われたシェルターから本物の夜空を仰ぐことはできないが、星座を暗記するにはむしろ人工の空のほうがくっきりしていて都合がいいと彼女は笑っていた。それはそうかもしれないな、と俺も皺の寄っていた眉間をほぐし、笑い顔を意識して作ると、未来はますます嬉しそうに頬を緩ませたので、親子というよりは友達同士で秘密を共有したような心地になった。愛らしい、と不覚にも思ってしまった。
夕食時、女の作ったオートミール入りの簡素なスープに舌鼓を打ちながら、「気持ち悪いわね。さっきからずっと顔がニヤけてるわよ」と指摘されるまで、自分自身で気づかないくらいだった。言われるままに姿見を覗き込めば、冴えない髪型をした猫背の男が頬を赤らめていた。
女は、未来を思って献身的に働いていた。起き上がることもままならない少女のために、自らにできることのすべてをこなしていた。着替えから、清拭、排泄介助、薬の管理まで一手に引き受けるその姿には、少なからず衝撃を受けた。たしかに女の言うとおり、少女には他に誰もいなかった。
「つらくはないのか」と俺が未来のいないところで訊くと、「つらいにきまってるじゃない」と彼女は答えるが、言葉とは裏腹に晴れやかな顔つきをしていた。何か他に手伝えることはないかと申し出ると、あなたは力仕事と未来の話相手をするだけでいいと釘を刺された。それと、無条件で彼女を肯定してあげてほしい、とも。
何日目かの夜に、未来は外出をせがんだ。どうしても星空を見に行きたいと言ってはばからなかった。その日の少女は、初めて会ったときに比べて血色もよく、体調も悪くない様子だった。
しかたないか、と俺たちは顔を見合わせ、錆びた車椅子に少女を移す。風邪をひかないようにと、女が手作りでこしらえたブランケットと上着をかけて、出発した。
道中、様々な話をした。とはいっても、殆どの間、俺は車椅子を押しながら聞き役に徹するだけではあったが。少女は身振り手振りを交えながら、二人で暮らしていた頃の思い出をひとつひとつ女に確認していた。そして逐一、事の顛末を俺に聞かせようとする。俺は相槌を打ちながら、二人が共有し、積み重ねてきた時間の濃密さに気圧されていた。それは、完成された聖域のようでもあった。だから、敬虔な気持ちで接するべきだと思い、意識して背筋を伸ばす。
中央広場に出ると、まばらながら人はいた。彼らは車椅子の親子連れという取り合わせが物珍しいのか、こちらを一瞥するが、興味なさそうに各々の世界へ戻っていった。
「あそこがいい」と少女が小高い丘を指差したので、方向転換して、緩い勾配を登っていく。断続的に軋む車輪の音が、鼓動に合わせて甲高く鳴った。
頂上に到達すると、未来が「よくできました」と腰を屈めた俺の頭に小さな手のひらを載せる。初めにそうされたときは戸惑ったが、どうやら女の物真似をしてみたかったらしい。事あるごとに頭を差し出すことを要求されるようになる頃には、すっかり慣れてしまった。まったくもう、と女が常套句のように冷たい視線を飛ばすのにも、それを見て怖いママだねと二人して耳打ちしながらからかうのにも慣れた。
やがて、少女は手にした星座早見盤と星粒の散りばめられた空を交互ににらめっこし始めた。今まで星に興味を持ったことのなかった俺は、いい機会だと思い、それぞれの星の名前やそれにまつわる星座の物語を彼女から教えてもらうことにした。こちらは星を見つけるのにも一苦労だ。どうせなら目立つ星それぞれにちがう色がついていれば見つけやすいのに、と思う。ついでに線をつけてくれれば万々歳だ。人為的な天体なのだから、点と点を結びつける方法くらいあらかじめ教えてくれても罰は当たらないだろう。
誰に言うでもなく愚痴をこぼすと「あなたって、目が悪いのね」と女から冷静な突っ込みが返ってきた。好きで悪くなったつもりはないと言えば、事実を述べたまでよと赤子の手をひねるように女がいなす。まったくもって、不毛だ。
そんな俺たちの言い合いを楽しげに眺めていた未来が、あ、と小さく声を上げた。少女の指先を追って、鉄紺の空に目を凝らすと、燃えるように輝く一等星を発見した。それは、猛毒の尾を天へと逆立てた節足動物に見立てている星座の心臓部だった。
どうかしたの、と女が訊ねると、ううん、と一度はなんでもないことのように首を振るが、「わたしって、アンタレスみたいだね」そう、ぽつりと漏らした。いつの間にか笑顔は消えていて、表情を曇らせていた。
「本当は、怖い。次にわたしが眠ったらもう二度と目を開けることができなくなっちゃうんじゃないかって、そう思うと、眠れないの。でも」未来が両側に立つ俺たちの手をそっと持ち上げた。「ママと、それにパパが毎晩眠るまでそばにいてくれるから、安心なの。ひとりは怖いけど、ひとりじゃないから、だから怖いのがちょっとだけいなくなってくれる。いつも、ほんとうにありがとう」
言いながら、瞳から光る雫が一筋流れ落ちていくのが見えた。女が、私もよ、と南の空を見上げた。少女の生きる速度は、彼女にそそがれるはずのこれからを満たすには、早すぎた。
七日目の明け方に、未来は安らかな寝顔のまま、長い眠りについた。
「未来は、両親に捨てられたのよ。当人たちの身勝手な理屈で、どちらがあの子を引き取るか、責任のありかから目をそらしたまま、ね」
少女の眠る墓前で跪き、両手を合わせ、顔を上げると、女が目を瞑ったまま静かに独白をはじめた。質素な供え物さえ用意できないことへの言い訳のようでもあった。
「だから、あの子が息を引き取ったとき、私は、責任をまっとうできたのだろうかと不安になった。もっと、ほかにしてあげられることがあったんじゃなかったのかって」
女は、ポケットから何かを取り出すと、そっとつまんだ。それは、カプセル状の薬剤だった。
「ほんとうは、あの子がいなくなるとわかった日からずっと、未来と一緒に命を絶とうと思ってたの。そうすれば、私も過去の清算ができるし、あの子も一人で寂しく死なずに済んで一石二鳥と思った」
けれどそれでは何も解決できない、と女は薬剤を指でつぶす。粒子が明け方の冷厳な空気に白く流れ落ちていく。
「もちろんこんなことで私の罪がゆるされるなんて思ってもいない。ましてや、一緒に死んだところで何の救いにもならないとわかっていたわ。私は〝死神〟であることを選択したあの日から、一生この罪と向き合い続けなければならないと知っている。そしてそれは未来永劫、私の影に付きまとうの」言って、すらりと細い顎を上向ける。涙は零れることこそないが、それが彼女の慟哭のように見えた。だから、慰めのかわりに、前向きな言葉を投げかけるべきだと思った。
「責任かどうかはわからないが」前置きしながら、どう言葉を選んだものかと考える。けれど、やはり思ったままを話すのが最適だと判断して、続けた。「未来を看取ってわかったことがあるんだ。男が泣いてはいけないのは、自分が死ぬときではなく、死んでいく誰かをそばで見送るときだと」
「それってどういう意味なのよ」不可解なものを見るように女が眉をひそめる。
「俺の父親が残した言葉なんだ。たしかに、男が泣いていたら格好がつかないな、と実感した。だから、きっとよかったんだと思う」
我ながら、論理性のかけらもないなと苦笑するが、女はなんとなくニュアンスで判断してくれたのか、少しだけ表情をやわらげた。実を言うと、美人な女には弱いのかもしれない。「よかったのなら、よかったわね」とトートロジーめいた言葉を口にして女は立ち上がる。なんにせよ、彼女の中で何かが吹っ切れたのなら、それが今の俺にとって一番の救いだった。
どちらからともなく歩き出し、共同墓地を出て、両側に街路樹の並ぶ大通りを散漫な足取りで南下していく。上層からの風に流されていくゴミ袋を横目で追いながら、往く当てもないまま、前へ足を進める。四辻に突き当たる度に左折して、また墓地の正面へと戻ってきた。
足を止めると、背後で鳴っていた音も、半歩遅れて鳴り止んだ。振り返る。膝下のフリルが、音もなくはためいた。
向かい合う二人の間に、居心地の悪い沈黙が漂う。最初からわかっていたことだ。死神と俺を結びつけていた幼い少女は、遠いところへ旅立ってしまった。これ以上、行動を共にする理由はひとつもなかった。ないはずだった。
「あなたは、これから……どうするつもりなの」と、長い睫毛を伏せたまま女が尋ねる。お互いに黙って背を向けたまま、別々の道を歩むこともできた。
「また、あそこから飛び降りるの?」女が言葉を連ねていく。「私は、もう見送ったりしないわよ。もちろん、押したりも」自嘲するように女が言う。できればそれが、俺を引き止めるための打算的な態度であってほしいと願うのは、ある種の感傷が為せる業だろうか。
脳裏に、女が少女の頭を愛しむように撫でていたときの場面がよみがえる。たった一週間前の出来事なのに、もう何年も前から連れ添っていたような錯覚に陥った。あの七日間で女が見せた一挙一動が、頭から離れない。そして、それを手放したくないと思う自分がどうしようもなく存在することを認めなくてはならなかった。
一歩、足を踏み出す。つばを飲み込む音が聞こえてしまわないかと不安になりつつ、視線だけは逸らさないように務める。
「俺は……自覚していることだが、自分を愚かな人間だと思ってる」
「あら、自覚してたのね」女が鼻で笑う。「私の見立てだと、あなたは、まわりも、自分も見えていない自惚れ屋の青二才じゃないかと思うのだけど」
俺は首肯する。「たしかに俺は、まわりも、自分も、何も見えていない。だから」墨色の双眸に吸い込まれそうになるのを、あと一歩のところで踏みとどまった。「すべてを見てみたいと思うんだ」
「ずいぶんと抽象的ね」
「何でもいい。たとえば、風景画でも描ければ、いいと思う。ずぶの素人でも、なにか形にして残せないかなと」
「そ、がんばって。応援してるわ」
「だから、その風景のなかに、死神がいてほしいんだ。死神だけじゃない。俺の家族や友人、それにもちろん未来も、どうにか輪郭を思い出して、描きたい。いつか今自分のなかに存在していたはずの何かが変化したり、こぼれおちてしまっても、目に映るものすべてを封じ込めてみたい。ちがう、本当は景色なんかどうでもいいのかもしれない」
支離滅裂でみっともなくてどうしようもない言葉未満の戯言が上滑りしていく。本当は、飛び降りたときより、今、この瞬間に消えてなくなりたかった。
案の定、女が目を丸くしている。だから、間違っていたのかもしれない。例外の日々に別れを告げて、孤独に歩むのが、せいぜい俺に残された道だった。日常から外れた者には地獄への道しか残されていないと、最初からわかっていたはずだ。わかっているのに、たおやかな欺瞞に目が眩んだ俺には、暗闇を照らす一条の光が孤島から向こう岸へと連れ出してくれる方舟にみえてしまった。仕合わせと不仕合わせは、二重螺旋のように絡み合いながら連綿と続いている。それは、呪いにも似ていた。
――ああ、生ある限り、俺たちは呪いからは逃れられないのだ。
「ひとつだけ、注文をつけてもいいかしら」女が、長い沈黙のあと、息をつき、真顔になる。その整った顔立ちが、ふいに、綻んだ。「私をモチーフにする代償は、高いわよ。ましてや、未来を描いておいて、下手な仕上がりだった日には絶対に許さないわ。私の目が黒いうちはね。果たしてあなたに払いきれるのかしら」
「払いきってみせるさ」即答する。「人の心がすさんでも、絵を求める人間はいなくならないだろう」
「それもあなたのお父さんの受け売りなのかしら」女の顔が華やぐ。
「いや、今自分で考えた」
「ほんとうに」言葉を切って、顎を上向ける。忌々しい人工の空が嘲笑うように、視界を一面の青に塗りこめていく。「救いようのないほど愚かしいひとね」
「救いようのないほど愚かでいいさ」
精緻な陶磁器のようにすべらかな頬に近づき、消えないしるしをつける。
「〝死神〟なら、俺を残して死んでいかないだろうから、安心だ」
そして、丸みを帯びた女の臀部に手を回すと、薄手の布越しに張りのある柔肉を撫ぜた。ひとしきり堪能したのちに体を離し、何食わぬ顔で十字路を東へ進んでいく。与えられた選択肢に悩む間にも時は過ぎていくのだから、悩む行為、それ自体が壮大な無駄のように思えた。完全を突き詰めれば、十秒前の俺と三秒前の俺が建設的な議論を交わした末に共倒れするだけだ。どうせ、正解なんて存在しないのだ。
振り返ると、呆気に取られたままだった女が、ようやく行為の意味に気づいたのか、肩を怒らせながら大股で間合いを詰めてきた。
「で、次はどっちなのよ」
それを尻目に、俺は地面を蹴り、遠くの光の先をめがけて全力で走り出す。いつかの無邪気な少年の残影を思い起こしながら。
「答えは、手の鳴るほうへ、だ」
ただし、追いかけてくるのは、鬼ではなく死神だ。優しさ故に贖うことのできない罪を背負った、うら若き死神が、息を切らすこともなく、隣に並ぼうとしていた。
「誰も拍手なんかしてくれそうにないわね」
苦笑する女に、そうだな、と同調する。世界はいつだって黙して何も語らない。追い風を生み出したいのなら、息が切れるまで、走り続けるしかない。じっと風をやり過ごしても、風向きが変わるのは時代と政治だけだ。このまま向かい風を切って駆け抜けていけば、世界にはびこる理不尽さえも越えられるような気がしていた。細胞単位の矮小な悪あがきだとしても、誰かの掌上で弄ばれるだけの存在だとしても、百年前の彼の人が導き出した結論だとしても、手を伸ばしつづけることに意味などなくても、かまうものか。
「人生のなかで憎まれ者が惜しみなく拍手してもらえるのは、生まれてしまった瞬間と、前のめりに死んでいく瞬間だけだ」
俺は、黒いワンピースの袖口から覗かせた白い手首を掴む。女は一瞬、驚いたように顔を向けるが、すぐに指と指を絡める形に繋ぎなおした。指先は氷のように冷たく、まるで血が通っていないかのようだ。壊れてしまわない程度に、力を込めて握る。女はしなを作って微笑を口元に浮かべると、姿勢を前屈みにして、さらに速度を上げていく。真っ直ぐ伸びた街路の遥か遠くに、ゴールテープが用意されていると信じているような、力強い足取りだった。
もし、呪いが全身を侵し、身動きが取れなくなって、どうにもならない時が来たら、その時は、
「私が背中を押した人達が、拍手をするために待ち構えているわけね。死神にふさわしい最期じゃない。なんて素晴らしい世界だこと」
「あの時、あんたが気紛れを起こさなければ俺も待ち構える側にいたかもな」笑えない冗談で茶化すと、「そうね。私は気紛れだから、あなたが死ぬ瞬間をずっと待ち構えることにするわ」ずっと、の部分を強調して、意趣返しとばかりに女も嘯く。日常というくだらない枠組みに、色がついていく予感がした。想像するまでもなく、醜い色にまざることだろう。
どうか、願わくは。
無限の果てに敷きつめられた蒼穹へ、隣人と傷つけあいながら、掴んだ魂ごと堕ちていけ――――
/before dark
人工太陽が、未来の方位を指し示すように、これから訪れる絶望的な生を祝福するように、燦然と降りそそいでいた。