↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

婚約者を上司に捧げた会社で、俺は静かに牙を研いでいた

掲載日:2026/11/03

神崎蓮が「幸せな男」だったのは、今年の春まで、という話だ。


二十九歳。東京の城西エリア、商業施設の多い駅から徒歩七分のマンションに住む、ごく普通の会社員。中堅精密機器メーカー「エアロテック株式会社」の情報システム部に所属し、社内インフラの設計・保守を担当していた。年収は四百八十万円。残業は多いが、仕事の内容は好きだった。


誠実で、穏やかで、人を疑うことが苦手な男だった。


怒鳴ることが嫌いで、感情を表に出すことを不得手とした。代わりに、問題を一つずつ分解して解決することは得意だった。職場では「黙って仕事する人」という印象を持たれていたが、それは蓮にとって悪いことではなかった。仕事で結果を出せばいい。口より手を動かせばいい。そう思っていた。


白石奈緒と出会ったのは、会社の創立記念パーティーの夜だった。


同じテーブルに座った奈緒は、隣の営業部に所属する女性だった。長い栗色の髪に、よく動く目。笑うと目元に小さな皺が寄る、人懐こい笑顔。蓮には不釣り合いなほど明るく、社交的で、初対面でも臆せず話しかけてきた。「情報システムって、なんかミステリアスな感じしますよね」という軽口から会話が始まり、その夜のうちに連絡先を交換した。


付き合い始めて一年で同棲を開始し、三年を超えた頃に婚約した。


蓮は奈緒を愛していた。本気で、真剣に、疑いなく。奈緒が「このブランドの指輪が好き」と言えばカタログを調べ、「行ってみたい」と言ったレストランを予約した。給料の手取りから毎月三万円を結婚費用として積み立て、式の予算を丁寧に計算した。プロポーズの言葉は、三通りのバリエーションを用意してリハーサルした。仕事帰りに奈緒の好きなケーキを買って帰るたびに、「なんで覚えてるの」と笑われた。それが嬉しかった。


今年の三月に式場を予約した。十一月の挙式まで、残り八ヶ月。


それが、蓮にとっての「幸せな日常」だった。


黒沢翔太は、エアロテックの情報システム部長だった。


三十五歳。入社当時からの出世頭で、社内では「次の執行役員候補」として名前が挙がっていた。百八十センチを超える長身に、仕立てのよいスーツ。部下の前では颯爽とし、役員の前ではさらに颯爽とした。「デキる上司」を絵に描いたような男だった。


蓮も最初は、そう思っていた。


黒沢の部下になって二年。仕事の指示は的確で、取引先との交渉もスマートだった。飲み会では「お前は損してる、もっと前に出ろ」と笑いながら蓮を励ました。「こういう人間が出世するんだな」と思っていた。


だが蓮には、見えていなかったことがあった。


黒沢が会社の経費を私的に流用していることを。複数の女性部下に「特別扱い」を求め続けていることを。そして、蓮の婚約者・奈緒が、その「特別扱い」の対象の一人になっていたことを。


二人の関係がいつから始まったのか、蓮が正確に知るのはもっと後のことだ。だが記録を辿れば、少なくとも一年と七ヶ月前――奈緒が黒沢に初めて接触したのは、部署をまたぐプロジェクトの懇親会だったらしい。その夜、蓮は残業で欠席していた。


サプライズで帰宅しようとしなければ、気づかなかったかもしれない。


いや、気づかないまま結婚させられていたのかもしれない。そう思うと、あの夜、早く帰ろうとした自分を少しだけ感謝する気持ちになった。ずっと後になってから。


発覚は、木曜日の夜だった。


蓮は出張から予定より一日早く帰宅した。大阪のクライアント先でのシステムトラブルが思いのほか早く解決し、最終の新幹線に間に合ったのだ。「帰る」と連絡しようとしてスマホを取り出したとき、なぜかためらった。サプライズで帰ったら喜ぶかな、という他愛のない思いつきだった。


マンションの駐車場に入ろうとしたとき、蓮の足が止まった。


駐車場の奥、管理棟の陰に黒いセダンが停まっていた。エアロテックの社用車によく似た型番だと、蓮は職業的な反射で思った。そしてその車の横に、蓮が何千回も見てきた栗色の髪があった。


奈緒だった。


車のボンネットに軽く腰をかけた奈緒の前に、黒沢が立っていた。二人の距離は三十センチもなかった。黒沢が奈緒の顎に手を添えた。奈緒はそれを拒まなかった。むしろ、顔を上げた。街灯の光の下で、奈緒は目を閉じていた。


蓮は物陰から、それを見ていた。


声は出なかった。怒りも、涙も、出なかった。ただ、何かが急速に冷えていく感覚だけがあった。心臓ではなく、脳が冷えていくような感覚。ガラスの薄い壁が一枚、自分とすべての感情の間に立てられたような感覚。


二人はしばらく話し、奈緒が黒沢の車に乗り込んだ。


蓮はその場に立ち尽くしたまま、車のテールランプが曲がり角の向こうに消えるまで動けなかった。


その夜、蓮はビジネスホテルに一泊した。


マンションに帰る気になれなかった。二人が「使った」かもしれないベッドで眠る気が、どうしても起きなかった。シングルルームのベッドの端に腰かけて、スマホの画面だけを見ていた。奈緒から「今日帰ってくる?」というメッセージが届いていた。さも何もなかったように。


蓮は「明日帰る」とだけ返した。


震えを押し殺して、翌朝から調べ始めた。


まず奈緒のSNSの痕跡を辿った。表向きには何もない。だが、蓮には奈緒のサブアカウントの存在を知っていた。以前、奈緒が「友達だけに見せてる裏垢」と笑いながら教えてくれたアカウントだ。当時は「信頼されてる」と思ったが、今思えばそれが何を意味していたのかも分からない。


サブアカウントの投稿を半年以上遡ると、変化があった。「最近、仕事が楽しい理由がある」という一文。「会社の人と、特別な時間(ハートマーク)」という投稿。その日付を蓮のスケジュール帳と照合すると、残業や出張で蓮が不在だった日と、ことごとく一致していた。


次に、奈緒が使い古して充電スタンドに置きっぱなしにしていた古いタブレット端末を開いた。


メッセージアプリのバックアップが、同期されたままだった。


ゆっくりと、蓮は読んだ。


最初の一行を読んだとき、胃の中のものが全部逆流しそうになった。それでも読み続けた。手が震えていた。スクロールするたびに、五年間の記憶が別の色に塗り替えられていく感覚があった。


黒沢から奈緒への最初のメッセージは、一年と七ヶ月前に遡った。「先日の懇親会、楽しかった。また二人でどうぞ」という、表向きは無害な一文から始まっていた。奈緒の返信は「ぜひ(ハートマーク)」。


それからの履歴は、読むほど吐き気がした。


二人の逢瀬の記録。ホテルの名前と部屋番号。「今夜どう?」「部屋、取っておいた」「昨日、最高だったよ」「また会いたい(ハートマーク)」。そういう言葉が、ほぼ週に一度のペースで並んでいた。蓮が「残業で遅くなる」と連絡した夜の翌朝に、奈緒から黒沢への「昨夜、よかったね(笑)また連絡する」というメッセージがある。


蓮は読む手を止めた。


あの夜は九月だった。蓮は徹夜でシステム障害の対応をしていた。社内インフラが落ちて、クライアントへの影響を最小限にするために一晩中画面を見続けていた。その間、奈緒は。


また読み続けた。


奈緒が女友達のグループLINEに送ったメッセージのスクリーンショットが、黒沢に転送されたものもあった。


『蓮ってほんと出世する気ないんだよね。給料もずっとこのままなんだろうなって思うと、なんか笑えてくる(笑)。黒沢さんと比べると、なんだったんだろう感すごいんだけど。あ、でも式費用は出させようと思ってるから、もうちょっとだけ付き合っといてあげる(笑)』


もうちょっとだけ付き合っといてあげる。


蓮の手から、タブレットが滑り落ちた。床の上に、乾いた音を立てた。


さらに残酷なものが待っていた。


奈緒が黒沢に送ったメッセージの中に、蓮のプロポーズについての一文があった。蓮がプロポーズの場所を検討していた頃、奈緒は黒沢にこう送っていた。


『笑えるんだけど、蓮がプロポーズしようとしてて草。指輪も自分で買おうとしてるし、式場まで調べてるし。かわいそうになってきた(笑)。でもとりあえず式費用だけは出させよっかな(笑)どうせ捨てるんだし、使えるうちに使っとかないと』


黒沢の返信は「使えるうちは使っとけ(笑) でもお前、婚約してくれてて俺は助かるわ。既婚者の彼氏とか責任取る気ないから、ちょうどいい隠れ蓑になってくれてる(笑)」だった。


ちょうどいい隠れ蓑。


黒沢にとって、奈緒は遊びの女だった。奈緒にとって、蓮は式費用を出す財布だった。五年間の愛情が、二行のメッセージで定義されていた。


蓮はタブレットを元の場所に、静かに戻した。


立ち上がって台所に行った。水を一杯飲んだ。何も感じなかった。感情が、どこかに消えていた。消えたのではなく、凍ったのだ、と後になって思う。


その夜から、蓮は変わった。


表向きは何も変わらなかった。奈緒に笑顔を向けた。「出張、疲れた」と言いながら夕飯を食べた。式場のパンフレットが机の上に広げられたままだったが、それを見ても顔色一つ変えなかった。奈緒は何も気づかなかった。気づかなかったのか、気づかないふりをしたのかは、どちらでもよかった。


蓮はその夜から、すべてを記録し始めた。


翌週から、職場が地獄になった。


発端は蓮にも分からなかった。ある月曜日の朝、出社してパソコンを起動すると、プロジェクトの共有フォルダへのアクセス権が消えていた。チームのSlackチャンネルから自分のアカウントだけが除外されていた。定例会議の招集メールに、自分の名前がなかった。


「あ、神崎さんは今回のプロジェクト、外れてもらうことになったんで」


チームリーダーが、さも当然のことのように言った。誰も蓮の顔を見なかった。蓮は「分かりました」とだけ答えた。


その日の夕方、黒沢が蓮を個別で呼んだ。ガラス張りの広い会議室ではなく、廊下の奥の、窓のない小さな会議室だった。


「神崎、最近パフォーマンスが落ちてるって報告が上がってきてる。お前自身、どう思う?」


黒沢は腕を組み、椅子に深く座りながら言った。その目は蓮ではなく、机の上の書類を向いていた。


「心当たりはありません」


蓮は答えた。黒沢は「そうか」と言って、書類を一枚滑らせた。先月の評価シートだった。「協調性に難あり」「業務への積極性が低下」「チームへの貢献度、評価外」。


どれも事実ではなかった。一つも。


「査定に反映させてもらうから、改善を意識してくれ」


黒沢は涼しい顔でそう言った。蓮の目を、最後まで見なかった。見られないのだ、と蓮は思った。見たら、何かが崩れると知っているから。


それからの二ヶ月が、神崎蓮の人生で最も暗い季節だった。


職場では、同僚たちが蓮を避け始めた。廊下で目が合えば、すぐに視線を逸らされた。昼食に誘われなくなった。後になって知ったのだが、黒沢は部下たちに「神崎は今ちょっと問題がある、あまり関わらない方がいい」と根回ししていた。評価を下げられた人間への、それが組織の正直な反応だった。


仕事は残っているのに、情報が回ってこない。重要な決定に参加できない。チームミーティングの後に「あ、神崎さんには別に言わなくていいかと思って」と平然と言われる。じわじわと、存在そのものを消されていく感覚があった。


家に帰れば、奈緒がいた。


笑顔の奈緒が。「今日どうだった?」と聞く奈緒が。蓮の隣でスマホを操作しながら、どこかへ向けて文字を打っている奈緒が。そのスマホの画面に、黒沢への返信が映っているかもしれないと思っても、蓮は何も言わなかった。


「普通だったよ」と、答え続けた。


眠れない夜が続いた。食欲がなく、二ヶ月で体重が六キロ落ちた。朝、鏡の前に立つと、自分の顔が別人のように見えた。目の下に濃い隈が張り付き、頬が削げ、唇が乾いていた。それでも毎朝会社に行った。黒沢の前で平静を装った。奈緒の前で笑顔を作った。


ある夜、シャワーを浴びながら蓮は気づいた。


自分が泣いていることに。


声もなく、涙だけが流れていた。シャワーの水音に消えながら、壁に額をつけて、どれだけそうしていたか分からない。職場で一人だった。家で一人だった。誰にも言えなかった。言える相手がいなかった。


愛していた女が自分を笑いものにして隣で眠り、信頼していた上司が自分の仕事を骨ごと抉り取っていく。それが事実だった。事実は変えられなかった。


だがその夜が、底だった。


翌朝、蓮は一つのことを決めた。


感情は捨てる。全部、記録に変える。


証拠があれば黒沢を落とせる。証拠があれば奈緒への清算ができる。感情で動いた瞬間に負ける。冷静でいる限り、俺は負けない。


蓮はシステムエンジニアだった。データを収集し、整理し、論理的に提示することは、仕事そのものだった。感情を排して事実を積み上げることを、プロとして毎日やってきた。だから今度も、同じようにやれる。


まず、奈緒のタブレットに残っていたすべての履歴を完全にバックアップした。画面収録、スクリーンショット、テキスト書き出し。日付と内容を整理した一覧表を作り、暗号化してクラウドストレージに保存した。


次に、職場での黒沢の行動を記録し始めた。


不当な評価の記録と、それが下される以前の自分の実績の対比。プロジェクトから排除された日時と経緯。情報共有を故意に遮断された具体的な場面の記録。会議の議事録から自分の名前だけが消えていた記録。蓮はそれらを毎日、個人のノートPCに積み重ねていった。


そして、黒沢の経費流用についての情報を探し始めた。


きっかけは、同期の高橋誠からの一言だった。ある昼休み、高橋が何気なく言った。「黒沢部長さ、接待費の申請が多すぎるって経理で話題になってるらしいぞ。去年からずっと」。他愛のない雑談のつもりだったのだろうが、蓮にはそれが聞こえた。


高橋に詳しく話を聞いた。高橋は最初「なんか探偵みたいだな」と笑ったが、蓮の目が笑っていないことに気づいてから、真剣に向き合ってくれた。高橋の同期で経理部にいる宮田から、非公式に情報を引き出した。黒沢の接待費申請は、過去二年で合計四百万円以上の水増しが疑われていた。承認は黒沢より上の役職者が行っていたが、その役職者は昨年異動になっていた。


「これ、今の体制で調べたら確実にアウトですよ」と宮田は低い声で言った。「でも誰も手をつけたがらない。あの人、社内に顔が利くから」


「内部告発窓口の存在、知ってる?」


宮田は少し沈黙してから「知ってます」と答えた。


「準備を手伝ってほしい」


高橋が目を丸くした。「お前、本気か」


「本気じゃなかったら、こんな顔してない」


高橋は蓮の顔を見た。二ヶ月前とは別人のような顔だった。削げて、目だけが静かに燃えていた。高橋は何も言わず、うなずいた。


そこから三週間かけて、蓮は材料を揃えた。


黒沢の経費水増し申請の証拠書類と、それに対応する実際の接待実績のなさを示す資料。セクハラについては、被害を受けていた別の女性社員が内々に話してくれた。「正式に名前を出すのは怖い。でも証言はできる」と彼女は言った。その言葉を書面で残させてもらった。そして蓮自身が受けた不当査定と、業務上の排除の詳細な記録。


すべてをまとめ、社外の弁護士に事前確認を取った。高橋が弁護士の知人を持っていたことが幸いした。「これは通ります。会社のコンプライアンス機能が正常に働いているなら、確実に調査が入ります」と弁護士は言った。


十一月の第一週、月曜日の朝九時。


蓮はエアロテックの内部告発窓口に、匿名で資料一式を提出した。


その翌週から、空気が変わった。


最初に動いたのはコンプライアンス室だった。黒沢が「コンプライアンス調査」のため別室に呼ばれたという話が、社内に広まるのに半日もかからなかった。人の噂というのは、蓮が思っていたより速く走るものだった。


廊下を歩く黒沢の表情が、蓮の知っているものとは別人のようだった。颯爽とした仮面が剥げ、落ち着きのない目が左右に揺れていた。部下への指示の口調が、日ごとに荒くなった。昼食を一人で取るようになった。会議での発言が、以前の半分以下に減った。


蓮は静かにそれを観察しながら、仕事を続けた。


二週間後、黒沢は「業務上の不適切行為」を理由に部長職を解かれ、総務部への異動を命じられた。ヒラの担当者として、だ。「次の執行役員候補」だった男が、一ヶ月足らずで書類整理をする部署に送られた。


さらにその一週間後、黒沢は会社を去った。


依願退職という形だったが、誰も「依願」とは思っていなかった。デスクの荷物を段ボール一箱に詰めて、退職の挨拶もなく、うつむいたまま社屋を出ていったと高橋から聞いた。


「あいつ、最後まで誰にも頭を下げなかったらしいぞ」


高橋はそう言った。


らしい、と蓮は思った。そういう男だった。だからここまで転落した。


黒沢が去った後、奈緒のSNSの更新が止まった。


高級レストランでの食事も、旅行先のツーショットも、「充実した毎日」を示す投稿も、すべて消えた。代わりにストーリーズには、憔悴したようなセルフィーが一枚だけ上がった。化粧が薄く、目元が腫れていた。コメントは一件もついていなかった。


蓮はそれを、感情なく見た。


奈緒と別れたのは、黒沢が去った翌週の土曜日だった。


蓮は奈緒をリビングに座らせ、向かいに腰を下ろした。テーブルの上に、スマホを一台置いた。


「話がある」


奈緒は「どうしたの、改まって」と言いながら、どこか落ち着かない表情をしていた。黒沢のことを知っているかもしれないと、うっすら感じているのかもしれなかった。


「黒沢との関係。一年と七ヶ月前から、ずっと知ってた」


奈緒の顔が固まった。


「タブレットのバックアップ、全部取ってある。メッセージも、ホテルの記録も、お前が友達に送った話も、黒沢が『隠れ蓑になってくれてる』って言ってた話も、全部」


「……っ」


「黒沢が俺を職場でどう扱ったか、お前は知ってるか。プロジェクトから外され、評価を不当に引き下げられ、同僚から孤立させられた。毎週、毎月、じわじわと、仕事人として存在を消されていった。お前と黒沢が俺を笑いものにしてる間、俺は毎晩シャワーの中で一人で泣いてた」


奈緒の目に、涙が浮かんだ。唇が震えた。「蓮、違う、私は――」


「違わない」


蓮はスマホの画面を奈緒の前に向けた。


奈緒の文字が映っていた。


『笑えるんだけど、蓮がプロポーズしようとしてて草。指輪も自分で買おうとしてるし。かわいそうになってきた(笑)。でもとりあえず式費用だけは出させよっかな(笑)どうせ捨てるんだし、使えるうちに使っとかないと』


奈緒の顔から、血の気が引いた。みるみると白くなった。


「俺は五年間、お前との将来を本気で考えてた。プロポーズの言葉を何通りも練習した。指輪の予算を毎月積み立てた。式場を予約した夜、嬉しくて眠れなかった。でもお前にとって俺は、式費用を払ってくれる『使えるうちに使う』財布だった」


「蓮、お願い、聞いて。黒沢のことは、本当に間違いだった。あなたのことを大切にしてなかったのは分かってる。でも、今は――」


「奈緒」


蓮は静かに奈緒を見た。


五年間、愛し続けた女だ。その顔を、よく知っている。だが今、その顔に感じるのは何もない。怒りでも、未練でも、哀しみでもない。ただ、何もない。


「お前が俺を笑いものにしてた夜、俺はお前のために式場を予約してた。お前が黒沢の部屋にいた夜、俺は徹夜でシステム障害の対応をしてた。お前が友達に俺の悪口を送ってた夜、俺はお前の誕生日プレゼントを選んでた。それが五年間だ」


奈緒は涙をこぼしながら、何かを言おうとしていた。言葉が出てこなかった。


「もう一度チャンスが欲しいなら、自分でつかみ取れ。俺にすがるな。俺にはもう、お前を受け取る器がない。それだけだ」


蓮は立ち上がった。


「荷物はまとめておく。来週末までに取りに来てくれ」


扉を閉めた。


リビングから奈緒が泣く声が聞こえたが、蓮は振り返らなかった。廊下の窓から外を見ると、晩秋の空が薄く白かった。街路樹の葉がほとんど落ちて、枝だけになっていた。


何かが終わった。


それだけは、はっきりと分かった。


痛みは、まだあった。たぶんしばらくは消えない。五年間分の痛みは、一晩で消えるものではない。消えるべきでもないのかもしれないと思った。だが、その痛みはもう前に進む邪魔をしなかった。痛みは痛みとして、自分の後ろに置いておける。そういう強さが、いつの間にかついていた。


翌月、蓮は転職活動を始めた。


この一年で蓮は変わっていた。技術力は元々あったが、逆境の中で磨かれた「冷静さ」と「記録する力」が、面接での落ち着きに出ていた。どんな圧迫気味の質問も、黒沢の前で平静を装い続けた日々に比べれば何でもなかった。


三社目の面接で、内定が出た。


ITセキュリティのスペシャリスト集団として業界で知られる中堅コンサルティング企業だった。年収はエアロテック時代の一・六倍。五百八十万円。以前、漠然と「いつかこのくらいになれたら」と思っていた数字だった。


退職日、黒沢の後任として着任していた新しい部長が握手を求めてきた。「神崎さんには長く活躍してほしかったんだが、残念だ」と言った。蓮は礼儀正しく握手した。そして退社前、高橋と宮田を人気のない階段の踊り場に呼んで、初めて本当のことを話した。


「お前ら、ありがとう。お前たちがいなかったら、俺は本当に潰れてた」


高橋は少し照れたように笑った。「潰れるわけないだろ。あんな顔してたのに」


あんな顔。蓮は少しだけ笑った。


あんな顔をしていた男が、今ここに立っている。


退職の翌日、蓮は一人で昼食を食べに行った。


ずっと気になっていた、転職先のオフィス近くのイタリアンの小さな店だった。カウンター席に一人で座り、パスタを頼んで、窓の外を見ていた。十二月の陽射しが、銀杏並木を透かしていた。葉はほとんど落ちて、乾いた黄色が地面に積もっていた。


「ここ、よく来るんですか?」


声に振り返ると、隣に座った女性が、少し照れたように微笑んでいた。ショートカットの、目元の涼しい人だった。手元に転職先と同じロゴの入った社員証があった。


「初めてです」と蓮は答えた。「おいしいと聞いて」


「ここのカルボナーラ、本当においしいですよ。私、週に二回来てます」


「それは信頼できる情報ですね」


女性は笑った。小さく、でも本当に楽しそうに。


桜井このみ、と名乗ったのは、食事の終わりに近い頃だった。コーポレート部門に所属しているという。「今日、たまたまランチの場所を変えてみただけで」と笑いながら言った。


「たまたまがあってよかった」と蓮は言った。


このみは少しだけ目を見開いてから、ゆっくりと微笑んだ。「そうですね」と言った。


外に出ると、十二月の風が冷たかった。銀杏の最後の葉が風に舞い、空は澄んで高く、どこまでも青かった。


蓮は少しだけ立ち止まって、上を向いた。


終わったのだと思った。


職場の地獄も。五年間の欺瞞も。泥の中で一人で泣いた夜も。全部、終わった。


残ったのは、今日この瞬間だけだった。


それで十分だった。それ以上は何もいらなかった。


神崎蓮の、本当の意味での人生が、今ここから始まる。


---


あとがき:


この物語をお読みいただき、ありがとうございました。


他にも作品を連載、短編を投稿していますので、もしこの話がお気に召しましたら、ぜひ下記の作品もご覧いただければ幸いです。


▼連載中の作品はこちら▼


引き続き、読者の皆様の心に残る物語をお届けできるよう努めてまいります。これからも応援よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。