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もう一人の常葉

 常葉は目覚めた。まず目に入ったのは荒野と化した何もない空しい風景。そして曇り空にぽっかりと空いた青空の穴から光が差し込む異様な光景。自分が気絶している間に何かあったな、と思った瞬間、すぐ隣でうずくまって倒れている保見の姿に気づいた。まさかっ、と保見を揺すってみたがぴくりともしない。しかし、すうすうという寝息が聞こえてきて、常葉はふぅっと息をつき安堵した。あれだけ霊力を使い大暴れしたのだ、疲れ果てて深く眠っているのだろう。しばらく起きそうになかった。

 しかし、この荒野は保見の仕業なのだろうか。住処も、肉親も全て吹き飛ばしてしまったというのか。常葉は気絶してしまったことを後悔した。こんな惨い事、止められたかもしれないのに……そう感じながらそっと保見を抱き上げる。この幼い少女にはもう帰る場所がなくなってしまったのだ。

 一先ず、宿を探す為に荒野を出よう。そう思い歩き出すと、保見の長い髪をずるずる引きずっていることに気付いた。常葉の背よりも長い髪である。腕の中の保見の頭から地面へ垂れさがり、常葉の背後へと伸びていた。このまま髪を引きずりながら運ぶわけにもいかないと思い、常葉は懐から短刀を取り出し、保見の髪をばっさり切り落とした。そして、そっとまた保見を抱きかかえると、ひたすら歩き続けた。背中に大きな木箱を背負い、両腕で少女を大切に抱きながら、かなり歩いた。常葉もだいぶ疲れていた。やっとたどり着いた宿にどさっと倒れこむ。しかしすぐに重たい体を持ち上げ、少女の為に布団を敷いて寝かせた。しばらく少女の寝顔を眺めながら、険しい顔でじっと考え込んでいた。可愛らしい寝顔をしていた。どう見ても、普通の女の子と変わりない、愛らしい少女であった。それがなぜ、あのようなことを……。そう考えずにはいられなかった。

 常葉は思い立ったように木箱を漁りだした。深い翠の光沢のある硝子のような硯と、小ぶりな水晶玉を二つ取り出すと、硯で水晶玉を磨るような動作を始める。するとキラキラした光が硯に溜まり、どんどん増えていった。その光の粉を左手の薬指に掬うと、保見の額に塗りつけるように動かした。その指の動きは何かを描いているようだった。常葉の指先から離れた光の粉は、保見の額からしみ込むように消えて透明になっていったので痕は何も残らなかった。それは何かのまじないのようであった。それを終えると、崩れるように床に横たわり、常葉はそのまま眠りについた。窓の外はまだ明るい。

 二人はそのまま夜を越え、朝になり、再び辺りが暗くなるまで眠り込んだままだった。すっかり日が暮れ、静まりかえったその部屋に、烏が一羽舞い込んで一片の文を落としていった。それは常葉の枕元に落ちた。


 まず目を覚ましたのは保見だった。気が付くと、温かい布団の中に寝かされているではないか。たしか荒野で眠くなって……いや、その前に、あれは……


 はっと記憶が蘇り、保見は身震いした。自分が生きていることを不思議に思ったほどだった。あれは一体なんだったのか。常葉は一体何者なのか……そう思った瞬間、急いで辺りを見回す。部屋の中は暗く、よく見えない。もしかしてこの同じ部屋に常葉もいるのだろうか。だとしたら、早く逃げ出したほうが良い、そう思った。


「失礼します」


 部屋の外で声が起こり、保見はびくっと緊張する。声の方をじっと睨むと、中肉で小柄の女中が「灯りをお持ちしました」と部屋の照明に火を移していった。「ちょうどお目覚めでございますね。一日中寝たままでしたので、心配いたしましたよ」そんなことを言い残して退室した。かと思うと、すぐにまたやってきて、

「お食事はいかがなさいます? お一人分ご用意しましょうか? そちら様はまだお休みのようですが……」

 そう言うので、女中の目線の先をさっと見やると、常葉が布団で寝ていた。すぐ隣にいたがいままで気が付かなかった。「あっ!」と思わず保見は声を上げてしまったが、慌てて「二人分!」そう言ってごまかした。女中は了解して、とんとんと階段を下っていった。どうやらこの部屋は二階にあるらしい。

(やっぱりいた! ……どうしよう……)

 保見は恐怖と困惑の混ざり合った気持ちがした。ここから逃げなくては、と心がざわついていた。


「怯えることはない。オレはお前を傷つけたりしないさ。安心しな」


 確かにそう常葉の口が発したので、保見は驚いて常葉の方を見た。しかし依然常葉は眠ったようにピクリともしない。しかし次の瞬間、常葉の口だけがすらすら動いて言葉を発したので、保見は気味が悪くて震えあがった。


「オレはお前を守ったんだぜ? あのままだったら、お前は集まって来た妖怪たちに喰われてたんだ」


「どうして……助けてくれたの?」

 震える声で尋ねると、常葉の口はにやっと笑みを作りながら、


「お前はなかなか面白い……。しばらく生かしておく価値がありそうだ」


 そう言った。


「オレから離れるな。側にいろ。いいか? そうしないと……お前……」


 保見はすぐさま首を縦に振った。常葉の目は閉じられているというのに、口は保見が頷くのを眺めでもしているかのように言った。


「そうだ、いい子だ。……訳が分からないといった顔だな……こいつの枕元を見てみな」


 保見は言われるまま、常葉の枕元を調べた。すると、文を一通見つけた。烏が常葉に落としていったものだ。


「そいつを読めば少しは察しがつくだろうよ。……近いぜ。もうすぐだ。お前の力さえあれば……」


 そう言い終ると、常葉の口元は静かになった。保見が常葉に恐る恐る呼びかけようと口を開きかけた瞬間、

「お食事お持ちしました」

 保見はびくっとして振り向いた。先ほどの女中が食事を乗せた膳を二つ運んで来て保見の目の前に並べて置いた。女中が出て行くと、お腹がすいているはずなのに食事には目もくれず、先ほどの文を急いで広げてみた。




 常葉


 手紙を読んだ。のんきに後継者探ししてる場合かい。

 昨日からこちらじゃあんたんトコの大妖怪が復活したっていうんで大騒ぎ。きっとあんたが文を飛ばした後の噂だろう。

 連絡しろ。あんたが無事ならそれでいい。まさか噂が本当ってことはないだろうね。


                            黒葺山 白狐嬢



 手紙にはそのように書かれていたが、筆で流れるように崩されて書かれていたのと漢字が多く、保見には内容を理解することができなかった。

「これって、どういう……」

 保見は常葉へ向けて語りかけたが、先ほどのようにはもうしゃべらない。ただ寝息がすうすうと聞こえるだけだった。その後何回か恐る恐る呼びかけてみたが、やはりこの調子だった。得体の知れない「常葉」を目の当たりにしたことで、今まで感じたことのない恐怖が保見をその部屋に縛り付け、閉じ込めてしまった。二つ並んだ夕食の盆の上で、味噌汁が冷たくなって震えていた。



 常葉がやっと目覚めたのは、再び夜が明けて太陽が高く上がってからだった。うっすらと目を開けたかと思うと、がばっと一気に身を起こして辺りを見回した。常葉の視界に、こちらをじっと見つめる保見が映る。

「ほみ……。ずっと、ここにいたのか?」

 保見はこくんと頷いた。

「……なかなか起きないから……」

 うつむきながら保見は言った。

「ごめんな……。心配させたな……」

 そう言って、常葉は保見の頭を撫でてやろうと手を伸ばしたが、はっとしてその手を引っ込めた。保見はぶるぶると震えていた。違う。保見は心配などしていない。ただ常葉を恐れているのだった。どうしたというのだろうか。常葉が保見を恐れることがあったとしても、保見が常葉を恐れることがあるだろか。

(やはり、何かあったんだな。……オレが気絶している間に……)

 常葉は複雑な表情のまま保見に尋ねた。

「なぁ、保見。何があったんだ? オレはあの日、気絶してからの記憶がないんだ。気がついたら保見が隣でうずくまって眠っていた。その時はもう、辺りは荒野だし、雲は吹き飛んでるし、散々な光景だった。あれは保見がやったのか?」

 優しく言ったつもりだったが、保見は依然として震えながら黙っている。

「なあ、保見。頼むから教えてくれ」

「わたし!」

 保見は急いで言葉を発した。話さないと、殺される。保見はそう思った。

「私がやったの! ……村を吹き飛ばして、そしたらっ――」

 保見はその次に起きた光景を思い出し、いっそう震えだした。

「私、死ぬんだと思った……妖怪に食べられるって思った。でも……でもっ、生きてた……私、私っ」

 常葉は何のことかさっぱり分からなかった。しかし、取り乱した保見の様子を見ると、これ以上問い詰める訳にもいかないと思い、

「分かった。分かったよ、保見。有難う。もういいんだ。もういいよ、保見」

 そう言って、そっと保見の頭を撫でた。

「私、死ぬの? 殺すの? 私、殺される?」

「殺さない。殺さないよ、保見。死なない。保見は死なない。生きるんだ」

「怖かったの……」

 もう怖くない、そういって常葉は保見の小さな体をそっと抱きしめた。そして頭を撫でてやると、小さな声で保見が、

「怖かったの……。……あなたが」

 と言った。常葉はどきっとして抱いていた保見の体をそっと離して保見の顔をしっかり見た。

「……オレが? 怖かった?」

 保見は大きく頷いた。常葉は保見と対峙したことを思い出し、きっとそれが怖かったのだろうとこの時は考えた。大きな力を持っているとはいえ、保見はまだ幼い子供なのだ。

「もうしないよ……。もうしないから。大丈夫」

「本当に?」

「うん」

 常葉はにっこりと微笑んだ。その顔を見て、保見は、

「……ちがう」

 そう言った。常葉は首を傾げたが、深く追求はしなかった。

「……しばらくは、オレと一緒に行こう。保見」

「うん。離れない! 絶対、側にいる。だから……」

 殺さないで、とその続きは言わずに保見はうつむいた。

 常葉は静かに保見を見つめて黙った。どうにも嫌な予感がする。体の深い所から胸騒ぎが巻き起こり、それは常葉の枕元にあった烏文を読んでさらに増幅された。



 朝食を終えると、常葉は急いで身支度をした。

「保見。準備するんだ。一緒に行こう」

 保見は黙って頷くと、荷物を整理する常葉を両膝を抱えて座りながら眺めていた。準備しろと言われても、保見には身に着けているもの以外持ち物がないのだ。常葉は薄汚れた着物を何重にも着込んで、最後に首元に布を巻きつけると大きな木箱を背負った。

 二人は宿を後にすると、無言でもくもくと歩き続けた。常葉は歩き慣れている。どんどん先に行ってしまう常葉に何とかついて行こうとして、保見は小走りでついていく。しばらくして息をきらす保見にやっと気づくと、常葉は「ごめんな」と言って歩幅を縮めた。村をいくつか抜け、人気のない林へさしかかった。   

 鳥の声が遠く聞こえる。常葉は軽く咳払いすると、思い出したかのように言った。

「髪の毛……短く切ってしまった……ごめんな」

 保見は黙ったままついて来る。

「それと……。お前の力だが……封じておいた」

 歩きながら保見はぽかんと常葉の顔を見る。

「お前の力は強大すぎて危険だからな。まだ自分でも制御しきれてないだろ? オレが封じておいた」

「私の力を? 封印したの? ……もう、力を使えないの?」

「封印を解けばまた力は戻る……。でもまだ――」

 保見は右手を挙げて何かを念じたようだが、何も起こらない。

「な? 今のお前は、普通の女の子だ。力は使えない。だけどそのうち――」

 言いかけた常葉の袂にしがみついて、保見は訴えるように尋ねた。

「もう……驚いた時とか、怖いって思った時に、無意識に力を使ってしまうこともないの?」

「……あぁ。封印を解くまではな。オレは、封じ師なんだ。封じることにかけては一流さ」

「もう、外に……町に出れる? 皆と同じように、買い物したり、お散歩も、できる!?」

 常葉ははっとした表情をすると、すぐに笑顔をつくり、優しく、「できるよ」と言った。

「私、普通になったの? 普通の女の子なの!?」

 常葉は少女の両肩に手をおいて、少女と同じ目線までしゃがみ込むと、そうだよ、と言った。少女の顔がぱあっと明るくなった。あぁ、そうか、と常葉は思った。

(本当は、皆と同じように普通に暮らしたかっただけなんだな……でもそれができなかったから、あんなことを……。保見は、普通の女の子になりたかっただけなんだ……)

 きゅっと常葉の胸が痛んだ。可哀想に思うと同時に、とても他人事とは思えなかった。しかし、だとすれば……

(この子に後を継がせる訳には……いかないよなぁ……)

 常葉は複雑な心境だった。やっと後継ぎが見つかったと思ったのに。しかし、できるだけの笑顔で、保見の頭をなでてやった。その時、


 バキバキ!!!


 頭上の木々の枝がなぎ倒され、その割れ目から大きな何かが二人目掛けて急降下してきた。保見はきゃあ! と叫ぶと、無意識に常葉の影に隠れた。常葉は保見をかばいながら、瞬時に身構えた。常葉の左脇をかすめて、黒い影は再び大空に舞い上がった。風が勢い良く舞い上がる。砂埃が湧き立ち、視界を曇らせる。


(来る!)


 常葉は保見を庇いながら横っ跳びに身を翻した。鋭い尾羽が地を裂いて駆け抜けて行った。旋回するそれは、大きな鳥の姿をしていた。体長は優に二丈は超えている。

「女! 女を食わせろ!」

 けたたましく叫びながら大鳥は体の半分近くある嘴をがっと開きながら突っ込んでくる。嘴の内側には鋭い牙がぎっしりとひしめき合っており、牙の間から唾液がはじけ飛んだ。

「さては、婿探しの文を読んだな!」

 錫杖を水平に構え中心に札を張り付けながら常葉は大鳥に向き合った。走りだそうとする保見に背中越しに「離れるな!」と叫んだ。保見はびくっと固まると常葉の足元に蹲った。


 バリバリバリッ!!!


 雷のような激しい音と花火のような閃光が弾けた。常葉は錫杖で大鳥の嘴を受け止めた。勢いに押され、踏ん張る足がずるずると後ろへ滑る。ものすごい風圧が着物の袖を狂ったようになびかせた。

「邪魔するな人間! その女を食らってワシの力を増すのだ! どけ!」

 大鳥は肉食獣特有の鋭い足の爪を振りかざした。常葉は無理な姿勢から強引に大鳥を押し戻す。

「断る!」

 大鳥の体が一瞬よろめいた。今だ、と常葉は懐から札を六枚抜き取り、大鳥に向けて放った。札には模様とも文字ともみえる線が書き込まれており、六枚の札はそれぞれ大鳥の頭、左右の足、左右の羽、尾にまとわりついた。大鳥は身をよじってこの札を振り払おうとしたが、札はぴったりと貼りついて剥がすことができなかった。

「なんだ!? これは……っ!」

「オレは封じ師。その札にはオレの霊力をたっぷり練り込んである……お前の飛ぶ能力は封じさせてもらった」

 乱れた呼吸を整えながら常葉は右手に錫杖を構えた。少し動いただけなのに常葉は肩で息をしていた。体中が重く、思うように動かない。保見との一件の疲れがまだ残っているのか……長引くとまずい、早急に片を付けなければ……そう頭をよぎった瞬間、

「封じ師? ほぅ……それで? 飛べぬ私に既に勝った気でいるのか? 小癪な!」

 大鳥は両足で地面を乱暴に掻きむしると体をねじって長い尾を旋回させた。まずい! そう思うが早く、体はついてこない。常葉は辛うじて反射した。保見を庇うことはできたが尾を脇腹にくらってしまった。みしっという嫌な鈍い音が重く体に響く。常葉はそのまま跳ね飛ばさた。飛ばされながら(保見が危ない……!)そう思った瞬間、気を失った。木に体を打ちつけ、地面に墜落した常葉はピクリともしなかった。さっきまで傍らにいた常葉が一瞬で跳ね飛ばされ、横たわったまま動かなくなった光景を目撃し、保見は恐怖で声も出せず、震えていた。


「さぁ……お前が望んだんだろう? 私がお前を喰ってやろう……」


 保見は心の中で後悔した。知らなかった。妖怪に自分の霊力を与えるということは、自分を食べさせるということ。自分の命を差し出すということ。その先に保見の生きる未来はなかったのだ……。結局、何も叶わないまま……私は一人のまま……。私は誰にも愛されず、受け入れられず、悲しいまま死ぬんだ……笑えないんだ……。

 

 ゆっくりと大鳥が保見に近づいてくる。保見は腰が抜けて立ち上がれないまま、両手で必死に後退しようともがいた。動かなくなった常葉の方へどうにか近づこうと震える両手を動かすが力が入らない。霊力も封印されてしまい今の保見は無力だった。大口を開けた化け物は目前になった。


「いや……止めて……助けて…………お願い! たすけてー!」


 常葉へ向かってそう叫びながら、保見の目から涙が弾けた。その瞬間、保見と大鳥の間に何かが立ちふさがった。その影は弾丸のように真っ直ぐ大鳥に突っ込んでいった。あわてて振り返った保見には何が起こっているのか理解できなかった。ただ、突如として大鳥の体が真っ二つに裂かれ、けたたましい大鳥の叫び声を聞いたかと思うと次の瞬間、大鳥の姿は一瞬にして蒸発するかのように煙になって消え、常葉の姿だけがくっきりと浮かび上がった。常葉はゆっくりと保見の目の前に来てかがみこむと保見の体を労わるように抱え起こしながら、

「まったく手のかかる小娘だ。……今回で二回目だ。それにしてもこいつも頼りない奴だ……。いいか? 絶対にオレから離れるんじゃないぞ?」

 そっと保見の頭を撫でながらそう言った。

「分かったか? 小娘」

 保見は無言で大きく何度も頷いた。その様子を見て常葉は満足そうに笑うと、「良い子だ」といって保見の両目をそっと塞いだ。保見は一瞬にして深い眠りに落ちた。



「気がついたかい?」


 常葉は初めて耳にする声に一瞬戸惑ったが、気絶する直前を思い出し、勢い良く上体を起こしながら「ほみっ!」と叫んだ。

「ほみってのは、この女の子のことかい? 安心しなよ。無事さ。よう寝むっとるよ」

 常葉が声のする方へばっと顔を向けると、小柄な影が焚き火の前に胡坐をかきながらこちらを見ていた。粗末な小屋の中で焚き火を囲むように、老人と常葉と、そしてすうすうと寝息をたてる保見の姿があった。常葉はほっと溜息を一つ吐き出す。

「あなたは……。オレと保見を助けてくれたのですか?」

 老人は黙って頷いた。全身を毛布に包み顔も隠れていたので表情は分からない。前で組まれた両手に皺が多いことから老人であることが見て取れた。

「有難うございます」

 常葉は深々と頭を下げた。

「二人して道に突っ伏しとったよ。死んどるかと思ったわい」

 爺さんとも婆さんとも分からぬ声で、ゆっくりと老人がそう言った。

「……すみません……ご迷惑をおかけしまして……」

 ふむ……と老人はつぶやくと、焚き火にかけていた鍋の蓋を取った。ふわっと白い湯気が立ち上り、隙間だらけの屋根へ吸い込まれていった。

「たいしたもんじゃあないがね……根菜を煮詰めたもんだ。見たところ訳ありのようだから詳しくは聞かないよ。まぁ、腹ごしらえしていきなさい」

 常葉は有り難く器に注がれた汁を受け取り、一口すすった。じんわりと苦く、お世辞にもうまいとは言えないものだったが、心に沁みるものがものがあった。何だか分からない汁の具を奥歯で噛みしめながら、常葉は記憶を遡った。大鳥が襲ってきて……跳ね飛ばされて……気を失って……それからの記憶がぷっつりと途切れ、今に至る。

(まただ……気を失ってから……何が起きたのか分からない……だが、間違いなく何か起きている……)

 奥歯の堅い何かの根っこがすっかり干からびて、青臭い味がしなくなってもなお、常葉は噛み続けた。

(何だ……? 保見と対峙したときも、今回も……何かがおかしい。まさか……)

 常葉は一人胸に深い煙を抱きながら、長い夜を寝ずに過ごした。


 翌朝、保見も目を覚まし、常葉はほっと安心した。親切な老人はそれから三日間、常葉と保見をかくまってくれた。最初は老人のことを怖がっていた保見も、二日目にはすっかり打ち解けて、老人にあやとりを教えてもらいはしゃいでいた。

 三日目の夜、常葉は明日ここを立つと老人に告げると、老人は黙って頷き、「しっかりな」と言った。

「人間はいいのぅ。お前さんも色々と抱え込んでいるようじゃが、わしからするとそれはうらやましくてな。わしなんて、月が満ちて欠けて行くのを見守るのみ……ここから動けもせんから見える景色も同じ。しかし、同じ景色でも、いつもどこかしら違っておってな……それを見つけるのが唯一の楽しみよ。人間には足が付いとる。いいのう。悩み、惑うこともまた一興。平穏な毎日は安定さえするが退屈なもんじゃ」

 今まで寡黙だった老人が、今夜は良くしゃべるな、と常葉が驚いていると、

「驚くことなかれ……世の中人間もいれば妖怪もいる。……妖精というのも……のぅ?」

 そう言い残すと老人と小屋はふっと消え失せてしまい、隙間だらけな天井は満点の星空へ、腰を下ろしていた座布団は石に変わっていた。先に眠りについていた保見は石の上でも変わらずすやすやと眠り続けている。思わず常葉は立ち上がり、辺りを見回すと、月光に照らされて数千のすすきがそよそよと揺れていた。その姿は、まるで常葉に語りかけてくるように、優しく常葉の方へなびいている。あぁ、そうだったのか、と常葉はゆっくりと腰を下ろし、傍らのすすきへそっと語りかけた。

「今夜は満月ですね……」

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