戻すという判断
剣を戻した瞬間のことを、彼はすぐには思い出せなかった。
正確には――
思い出したくなかった。
生き残った三人は、十六区の出口近くで腰を下ろしていた。
誰も喋らない。
誰も装備を外さない。
音が、まだ信用できなかった。
酸の匂いが薄れても、
「戻った」と判断するには早すぎる。
斧使いは、斧を地面に置いたまま、
ただ両手を膝に乗せている。
術師は咳を止めようともしない。
止めると、体の奥に残ったものが動く気がしたからだ。
副官の彼は、
腰の剣に触れたまま立っていた。
鞘に戻っている。
だが、それが正しかったのか、まだ分からない。
(……抜いたままの方が、よかったのか)
その考えが浮かんで、すぐに否定した。
結果は、生き残った。
それだけが事実だ。
だが、理由が分からない。
なぜ、剣を戻したのか。
なぜ、あの一拍で判断できたのか。
説明できない判断は、次に使えない。
それが一番怖かった。
――斧使いが、低く言った。
「……あそこで、戻しただろ」
副官は答えなかった。
「剣だ。戻した」
斧使いは続ける。
「俺は、抜いたまま行くと思った。
正直、あそこで戻すとは思わなかった」
術師も、ゆっくり頷いた。
「音がなかった。命令もなかった。
……でも、体が動いた」
副官は、やっと口を開いた。
「……風だ」
それだけ言った。
二人は顔を上げる。
「風が、抜けた」
「布もないのに?」
「……ほんの一瞬」
彼は、言葉を探しながら続けた。
「肩に触れた。強くはない。
流れとも言えない」
術師が眉をひそめる。
「そんなもので判断したのか」
「判断、じゃない」
副官は、首を振った。
「……耐えられなかった」
二人が黙る。
「剣を抜いたままだと、場が壊れる気がした」
それは、理屈ではなかった。
理屈にできないことを、彼自身が一番分かっている。
「早すぎたんだ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
「抜くのが」
斧使いは、しばらく黙っていたが、
やがて、短く息を吐いた。
「……俺は、助かった」
それだけだった。
副官は何も返せなかった。
助かった。
だが、二人は死んだ。
その数は、変わらない。
――帰還後、事情聴取は淡々としていた。
「剣を抜いた理由は?」
聞かれたことに、彼は答えた。
「命令です」
「戻した理由は?」
そこで、言葉が詰まった。
沈黙は長くなかった。
だが、その一拍が、重かった。
「……風が、違いました」
記録官は、顔を上げなかった。
「違うとは?」
「説明できません」
正直に言った。
説明できない判断は、評価されない。
それは分かっている。
記録官は、筆を止めた。
「剣を戻したことで、状況が改善したと?」
「結果としては」
「意図的に?」
「……無意識に近いです」
その言葉で、場の空気が変わった。
評価ではない。
整理の空気だ。
彼は、そのとき初めて理解した。
問題は、
剣を抜いたことでも、戻したことでもない。
言葉にできない判断をしたことだ。
それは、次に繋がらない。
――夜。
彼は一人で、布を広げていた。
風のない場所。
安全域。
それでも、布を置き、
濃度石を並べる。
意味はない。
だが、やめられなかった。
布が、わずかに揺れた。
錯覚だと分かっている。
それでも、
その揺れを見て、呼吸が整った。
(戻す、という判断は……)
剣を抜かないことではない。
逃げることでもない。
場を壊さないための判断だ。
彼は、剣に触れた。
抜かない。
だが、捨てもしない。
まだ、言葉にならない。
だが、この感覚を
言葉にできなければ、次はない。
彼は、布を畳んだ。
濃度石をしまう。
そして、小さく呟いた。
「……止める、か」
まだ、それが
何語になるのかは、分からなかった。




