エピローグ
朝の光がレースカーテン越しに差しこみ、
須磨子はゆっくりとまぶたを開いた。
(……あのあと……わたくし……)
昨夜のことを思い返すと、胸の奥がぽうっと熱を帯びる。
湖畔のベンチ。
指をからめた恋人繋ぎ。
そして──ひたいに触れた、小さな星みたいな口づけ。
(……桐生様……)
名前を思い浮かべるだけで、呼吸が甘く震える。
(あれは……夢ではありませんわよね……?)
両手で頬を覆うと、熱がさらに広がった。
(……恋とは……こんなにも……胸が満ちるものなのですのね)
静かに目を閉じた須磨子は、
昨夜の最後の一言をそっと思い返した。
『……次は……ほっぺに……』
言った瞬間に桐生が硬直した光景が鮮明に蘇り、
須磨子は枕に顔を埋めた。
(あああ……! あのような……!
わたくしったら……!)
しかし後悔ではない。
それは確かに、
恋を知った令嬢の“勇気”だった。
***
一方その頃、バーガーショップのバックヤード。
「桐生くん? 今日……様子変じゃない?」
井上さんが不審そうに覗き込む。
「へ、変じゃないですよ……?」
桐生は白い帽子のつばを必死に下げた。
隠しきれない。
頬がゆるむ。
勝手にゆるむ。
(……須磨子様……)
昨夜の、ひたいの感触。
触れたのか触れてないのか分からないほど儚いのに、
心臓は今でも爆音で跳ね続けている。
「ねぇ桐生くん……告白でもされた?」
「っ……ゴホッ、ゴホッ!!? い、いや、その……ち、違……!」
「図星じゃないのよそれ〜」
井上さんはニヤニヤしながら肩を叩く。
「ま、いいわ。顔に全部出てるから。……幸せねぇ、若いって」
桐生は両手で顔を覆い、深呼吸した。
(……俺は……どうすれば……
いや、どうしたら次……ほっぺ……!?)
思い出すだけで思考が爆散する。
(須磨子様……反則すぎる……)
***
美佳のスマホが震えた。
すまっち
『美佳様……昨夜のことなのですが……その……わたくし……』
美佳は椅子から転げ落ちた。
「来たあああああ!! すまっちの恋進捗!!」
すぐに返信を叩き込む。
美佳
『で? どこまで行ったんだ!? 言え! 詳しく言え!!』
すまっち
『……ひたいに、ちゅ……と…………』
美佳
「ぎゃああああああああああ!!!!
ついに公式発表ーーー!!!!」
奇声が響き、近所の犬が吠えた。
***
西園寺邸。
夫人は、朝の紅茶を口に運びながら微笑んだ。
「……須磨子……あなた、昨日よりずっと綺麗よ」
「え……そ、そうでございますか……?」
頬を染める娘を見て、夫人は静かに目を細めた。
(ようやく……恋を知ったのね)
母としての喜びが、胸いっぱいに広がっていく。
***
その日、ふたりは別々の場所にいた。
けれど──胸の中心に浮かんでいたのは、
ただひとりの名前。
次はどんな表情を見られるだろうか。
どんな声を聞けるだろうか。
思うだけで、胸があたたかく満ちていく。
そしてふたりは気付いていた。
これはもう、逃げられない。
──恋は静かに、確かに。
ふたりの世界に根を下ろし始めたのだと。




