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西園寺須磨子は未だ恋を知らない  作者: 天音紫子(著)×霧原影哉(構成・監修)
第14章 庶民の青年は、知らぬ間に恋の渦中に立っていた
69/80

噂に名前が出る朝、桐生はただ困惑する

◆◆ 桐生サイド:噂が胸を刺す朝 ◆◆


 デート翌々日の午前。


 桐生は開店準備のため、厨房でトレイを拭きながら深く息を吐いた。


(……だめだ。一昨日のこと、まだ頭から離れない)


 遊園地の光。


 メリーゴーラウンドに揺れる笑顔。


 あの距離……


 あの言葉──


『……ご一緒できて、嬉しゅうございましたわ』


(思い返すたびに……心臓が死ぬ……っ)


 頬を押さえてごまかしていると、


「おっはよ、桐生く〜ん!」


 明るい声とともに、井上さん(パート歴10年)が入ってきた。


「あ、井上さん。おはようございます」


「なにその顔〜? 寝不足でしょ〜?」


(図星すぎる……)


◆◆ 井上さん、いつもの“噂投下” ◆◆


「……でさぁ、聞いた? 社交界のゴシップ」


「え? 社交界……?」


 井上さんは、新聞社の友人経由で変な噂を仕入れてくることで有名だ。


 今日もスマホ片手にニヤニヤしている。


「昨日の西園寺家のお嬢様のことよ〜」


(須磨子様!?)


 桐生の手が止まる。


「なんかねぇ、遊園地で“庶民の殿方”とデートしてたらしいのよ〜。


 そこに九条院とかいうエリート様が割り込んで……公衆の面前でフラれたんだって!」


(…………俺じゃん)


「でさぁ〜、そのお嬢様が言ったらしいのよ〜」


井上さんはスマホを読み上げる。


『あなたに“じゃじゃ馬”と呼ばれるのは、不愉快ですわ』


「……だって〜〜!! わっはっは!! スカッとするわね〜〜」


(……違う……寸止めだし……言い方も違う……いやそういう問題じゃない……)


 桐生の胃がキュッと縮む。


「でね? 社交界の子たち、全員その“庶民の殿方”を応援してるってさ〜」


「お、応援……?」


「そうよ〜。“運命の恋”なんだって!


 ほら見て、ここ。“お二人こそふさわしい”…だってさ〜」


(……っ……)


◆◆ 井上さん、急に優しくなる ◆◆


「で、桐生くん」


「……はい?」


 井上さんはニコッと笑って肩を軽く叩いた。


「昨日の休憩明け、急にニヤニヤしてた理由……


 こういうことでしょ?」


「っ!!?!」


「ふふ〜ん、若いねぇ。いいねぇ〜恋って!


 でもね? 噂がこんだけ広がるってことは……


 向こうの“ご家族”も黙ってないかもよ?」


(……そうだ……俺は……)


「だから桐生くん。


 あの子の隣に立ちたいならさ……」


 井上さんは、ぐっと親指を立てた。


「覚悟、決めな」


◆◆ 仕事に戻る桐生、しかし胸の奥で何か燃える ◆◆


 井上さんが厨房を出ていく。


 桐生はトレイを握る手に力が入るのを感じた。


(……向こうは、社交界の人間だ。


 俺が“庶民”なのは揺るがない事実だ)


 一昨日の……須磨子の笑顔が脳裏に浮かぶ。


(でも……)


 胸が熱くなる。


(……俺はもう、逃げたくない)


 噂なんて怖い。


 彼女の周りの世界なんてもっと怖い。


 だけど──


『……ご一緒できて、嬉しゅうございましたわ』


 その言葉ひとつで、すべてが揺らぐ。


(守りたい。


 隣に立ちたい。


 笑っていてほしい)


 桐生はゆっくり息を吸い、


 ぎゅっと拳を握った。


(だったら……強くなるしかないだろ)


 冷蔵庫の扉を閉め、帽子を深くかぶり直す。


(……西園寺須磨子様の“想い人”が俺だなんて……


 社交界がどれだけざわつこうが関係ない)


 小さく呟く。


「……俺が、決めるんだ」


 その声は小さかったが、確かな決意を帯びていた。

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