噂に名前が出る朝、桐生はただ困惑する
◆◆ 桐生サイド:噂が胸を刺す朝 ◆◆
デート翌々日の午前。
桐生は開店準備のため、厨房でトレイを拭きながら深く息を吐いた。
(……だめだ。一昨日のこと、まだ頭から離れない)
遊園地の光。
メリーゴーラウンドに揺れる笑顔。
あの距離……
あの言葉──
『……ご一緒できて、嬉しゅうございましたわ』
(思い返すたびに……心臓が死ぬ……っ)
頬を押さえてごまかしていると、
「おっはよ、桐生く〜ん!」
明るい声とともに、井上さん(パート歴10年)が入ってきた。
「あ、井上さん。おはようございます」
「なにその顔〜? 寝不足でしょ〜?」
(図星すぎる……)
◆◆ 井上さん、いつもの“噂投下” ◆◆
「……でさぁ、聞いた? 社交界のゴシップ」
「え? 社交界……?」
井上さんは、新聞社の友人経由で変な噂を仕入れてくることで有名だ。
今日もスマホ片手にニヤニヤしている。
「昨日の西園寺家のお嬢様のことよ〜」
(須磨子様!?)
桐生の手が止まる。
「なんかねぇ、遊園地で“庶民の殿方”とデートしてたらしいのよ〜。
そこに九条院とかいうエリート様が割り込んで……公衆の面前でフラれたんだって!」
(…………俺じゃん)
「でさぁ〜、そのお嬢様が言ったらしいのよ〜」
井上さんはスマホを読み上げる。
『あなたに“じゃじゃ馬”と呼ばれるのは、不愉快ですわ』
「……だって〜〜!! わっはっは!! スカッとするわね〜〜」
(……違う……寸止めだし……言い方も違う……いやそういう問題じゃない……)
桐生の胃がキュッと縮む。
「でね? 社交界の子たち、全員その“庶民の殿方”を応援してるってさ〜」
「お、応援……?」
「そうよ〜。“運命の恋”なんだって!
ほら見て、ここ。“お二人こそふさわしい”…だってさ〜」
(……っ……)
◆◆ 井上さん、急に優しくなる ◆◆
「で、桐生くん」
「……はい?」
井上さんはニコッと笑って肩を軽く叩いた。
「昨日の休憩明け、急にニヤニヤしてた理由……
こういうことでしょ?」
「っ!!?!」
「ふふ〜ん、若いねぇ。いいねぇ〜恋って!
でもね? 噂がこんだけ広がるってことは……
向こうの“ご家族”も黙ってないかもよ?」
(……そうだ……俺は……)
「だから桐生くん。
あの子の隣に立ちたいならさ……」
井上さんは、ぐっと親指を立てた。
「覚悟、決めな」
◆◆ 仕事に戻る桐生、しかし胸の奥で何か燃える ◆◆
井上さんが厨房を出ていく。
桐生はトレイを握る手に力が入るのを感じた。
(……向こうは、社交界の人間だ。
俺が“庶民”なのは揺るがない事実だ)
一昨日の……須磨子の笑顔が脳裏に浮かぶ。
(でも……)
胸が熱くなる。
(……俺はもう、逃げたくない)
噂なんて怖い。
彼女の周りの世界なんてもっと怖い。
だけど──
『……ご一緒できて、嬉しゅうございましたわ』
その言葉ひとつで、すべてが揺らぐ。
(守りたい。
隣に立ちたい。
笑っていてほしい)
桐生はゆっくり息を吸い、
ぎゅっと拳を握った。
(だったら……強くなるしかないだろ)
冷蔵庫の扉を閉め、帽子を深くかぶり直す。
(……西園寺須磨子様の“想い人”が俺だなんて……
社交界がどれだけざわつこうが関係ない)
小さく呟く。
「……俺が、決めるんだ」
その声は小さかったが、確かな決意を帯びていた。




