胸が苦しくて、嬉しいのです
◆◆ 西園寺家・午後のサロンにて ◆◆
遊園地デートの翌日。
西園寺家のサロンでは、美しい菓子皿と紅茶が並んでいた。
西園寺夫人は読書をしており、その前に須磨子が静かに座る。
けれど、いつもと違う。
須磨子は落ち着きなく、膝の上の指先を何度も揺らしていた。
「……お母様。その……少し、お話ししたいことがございます」
夫人は本を閉じ、やわらかく微笑んだ。
「ええ。ゆっくりお話しなさい、須磨子さん」
言われた途端、須磨子は胸の奥をぎゅっと掴まれたように顔を伏せた。
「遊園地では……とても楽しく過ごせましたの。
桐生様が、優しくて……わたくし……」
そこで言葉が途切れ、頬が赤く染まる。
夫人はその変化を、愛しさと切なさが混じった眼差しで見つめていた。
「でも、帰り道に……九条院様が突然現れて……」
須磨子の指先が強張る。
「桐生様を……『庶民ごとき』と。
公衆の前で、です。
わたくし、あまりの侮辱に……思わず、前へ出てしまいました」
「そうだったのですね」
「はしたない真似を……本当に申し訳なく……」
夫人は小さく首を振った。
「須磨子さん。あなたが誰かのために怒るのは、はしたなくなどありませんよ」
須磨子の肩がかすかに震えた。
「けれど……社交界では、あの出来事が噂になったりしたら……
わたくしの行動が、桐生様のご迷惑になっているのではと……」
夫人は、しばらく須磨子を見つめ、やがて静かに口を開いた。
「昨日の件は、九条院家が非難されて当然の振る舞いでした」
「……え……?」
「噂が広がったとしても、むしろ、桐生様のほうを応援する声が多いでしょう」
須磨子は大きく目を見開いた。
「わたくしと……桐生様が……?」
「ええ。誰が見ても、あなたは桐生様を大切にしているように映ったでしょう」
「わ、わたくし……そんなに、分かりやすいのでしょうか……?」
「可愛らしいほどに、ですわ」
須磨子の頬が再び染まる。
夫人は、優雅に紅茶を口に運んだ。
「須磨子さん。あなたは恋をしているのですよ」
娘の肩がびくりと震える。
「……こ……恋……?」
「胸が温かくなったり、不安になったり、誰かを守りたいと思ったり。
そういう心の動きを、恋と呼ぶのです」
須磨子の指先は、スカートの上で小さく握られた。
「わたくし……そんな……
でも……
桐生様と手を繋いだとき……胸が苦しくなるほど嬉しくて……」
「それで十分です」
夫人は本をそっと閉じ、須磨子の手に触れた。
「身分や家柄よりも、あなたが“誰と一緒にいたいか”。
それが一番大切なのですよ」
「お母様……」
「あなたが選んだお相手なら、わたくしは反対いたしません。
どれほどの立場であろうと、胸を張りなさい」
須磨子は、震える声で呟いた。
「……わたくし……逃げませんわ。
桐生様のお隣に立つこと……怖いですが……
でも、それでも……一緒に、いたい……」
夫人はやわらかく微笑んだ。
「ええ。とても素敵なことですわ」
その言葉に、須磨子は胸の奥で小さな灯がともるのを感じた。
それはまだ不安定で小さな光。
けれど──確かに“恋”そのものだった。




