第2話 文を認める夜に
サロンで西園寺夫人にそっと背中を押され、自室へ戻った須磨子は、文箱の蓋を静かに開いた。
幼い頃より身につけてきた作法どおりに、筆と便箋を整える。
けれど──いざ筆を持つと、胸の奥がそわそわして落ち着かない。
(……どうして、こんなにも緊張しているのでしょう?)
深呼吸をして筆を握り直すが、最初の一字が置けない。
すると、ふいに脳裏に蘇った。
『人前で財布の中を見せるのは危険です。お閉じください、須磨子様』
──あの落ち着いた声。
たったひと言だったはずなのに、
胸のどこか深いところに、すとん、と落ちたあの響き。
思い返すだけで、なぜか胸が熱くなる。
(どうして……わたくし、こんなに心が揺れるのでしょう)
理由は分からない。
けれど、この“名もなき想い”を誰かに伝えたくなる──
そんな衝動だけが、胸の奥に膨らんでいった。
須磨子は震える筆先を整え、書き始める。
──公共交通機関デビューの日にお世話になったお礼。
──危険を教えてくれたこと。
──そして、あの声が胸に残っているということ。
書いているうちに、自然と心の奥から和歌が浮かんだ。
“声ひとつ
胸にながれて
波ひびき
名もなき想い
ひそと揺らめく”*
……わたくし、本当に、この気持ちに名前などありませんのに。
胸がこんなにも温かくなるのは、なぜなのでしょう。
そっと筆を置き、最後に結語を記す。
かしこ。
追伸
先ほど、文をしたためております折に、
不意に くしゅん としてしまいましたの。
気温でしょうか?
季節柄、どうぞお身体ご自愛くださいませ。
溶かしたシーリングワックスを落とし、家紋の印を静かに押す。
赤い封蝋が固まりゆくその刹那──
「……っくし!! なんだ今日……風邪でもひいたか?」
遠く離れたバーガーショップの裏口で、
チーフが、ふたたび盛大なくしゃみをしたことなど、
この時の須磨子は露ほども知らなかった。




