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西園寺須磨子は未だ恋を知らない  作者: 天音紫子(著)×霧原影哉(構成・監修)
第1章 胸ざわめく理由を、まだ知らぬままに
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第2話 文を認める夜に

 サロンで西園寺夫人にそっと背中を押され、自室へ戻った須磨子は、文箱の蓋を静かに開いた。

 幼い頃より身につけてきた作法どおりに、筆と便箋を整える。

 けれど──いざ筆を持つと、胸の奥がそわそわして落ち着かない。


(……どうして、こんなにも緊張しているのでしょう?)


 深呼吸をして筆を握り直すが、最初の一字が置けない。

 すると、ふいに脳裏に蘇った。


『人前で財布の中を見せるのは危険です。お閉じください、須磨子様』


 ──あの落ち着いた声。

 たったひと言だったはずなのに、

 胸のどこか深いところに、すとん、と落ちたあの響き。


 思い返すだけで、なぜか胸が熱くなる。


(どうして……わたくし、こんなに心が揺れるのでしょう)


 理由は分からない。

 けれど、この“名もなき想い”を誰かに伝えたくなる──

 そんな衝動だけが、胸の奥に膨らんでいった。


 須磨子は震える筆先を整え、書き始める。


 ──公共交通機関デビューの日にお世話になったお礼。

 ──危険を教えてくれたこと。

 ──そして、あの声が胸に残っているということ。


 書いているうちに、自然と心の奥から和歌が浮かんだ。


 “声ひとつ

  胸にながれて

   波ひびき


 名もなき想い

  ひそと揺らめく”*


 ……わたくし、本当に、この気持ちに名前などありませんのに。

 胸がこんなにも温かくなるのは、なぜなのでしょう。


 そっと筆を置き、最後に結語を記す。


 かしこ。


 追伸

 先ほど、文をしたためております折に、

 不意に くしゅん としてしまいましたの。

 気温でしょうか?

 季節柄、どうぞお身体ご自愛くださいませ。


 溶かしたシーリングワックスを落とし、家紋の印を静かに押す。

 赤い封蝋が固まりゆくその刹那──


 


「……っくし!! なんだ今日……風邪でもひいたか?」


 遠く離れたバーガーショップの裏口で、

 チーフが、ふたたび盛大なくしゃみをしたことなど、

 この時の須磨子は露ほども知らなかった。

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