西園寺家・当日夜
廊下には小走りの足音、控えめなざわめき。
屋敷の空気が、いつもとは違う緊張を帯びていた。
応接室の扉がノックされる。
「奥様、よろしければ…ただいまお嬢様がお戻りになりました」
「須磨子さんが? 本日は外出しておりましたわね。どうぞ入りなさい」
執事が静かに頭を下げる。
その表情には、どこか説明しづらい困惑が含まれていた。
「……何か、ございましたの?」
「はい。SPより連絡がございました。
お嬢様は安全にリムジンへ乗り込まれましたが──
少し、予想外の出来事があったようでして」
西園寺夫人は眉を寄せる。
「怪我を?」
「お身体にお怪我はございません。ただ……」
執事はわずかに言葉を濁した。
「……ご一緒だった殿方が、お嬢様を抱き上げてお送りしたとのことです」
西園寺夫人のまつげが揺れた。
「……まあ」
その声は驚きよりも、
“思わず微笑みを含んでしまいそうな気配”を帯びていた。
「……それで、どうして抱き上げられるような状況に?」
「ストッキングが大きく伝線してしまい、
歩行が危険と判断されたとのこと。それで……抱きかかえて……」
執事は思い出したように付け加えた。
「お嬢様は、大変にお顔を赤くなさっていたそうで」
「…………ふふ」
西園寺夫人は口元に手を添えた。
「SPは、その殿方をどう評価しているの?」
「冷静で、迅速な判断を下す方だと。
お嬢様を守る態度に、一切の迷いがなかったと報告されています」
「そう……」
西園寺夫人の瞳が、わずかに柔らかく細められた。
「その殿方のお名前は?」
「……『チーフ様』と」
「チーフ……?」
初めて聞く名。
けれど須磨子の文に記されていた“その方”なのだろう、と気づく。
西園寺夫人はほんの少し頬に手を添えた。
「……娘も大人になりましたわね」
その声には寂しさでもなく、嫉妬でもなく──
ただ、静かな誇りがあった。
「須磨子は、今どこに?」
「お部屋にお戻りです。ただ……メイドの報告では、
なにやら一人で転げ回っていらっしゃるとか……」
西園寺夫人はゆっくりと立ち上がり、
カーテン越しに夜空を見上げた。
「……まあ、仕方ありませんわね。
初めての気持ちなのでしょうから」
そして小さく微笑んだ。
「明日の朝は、あの子の好む紅茶にいたしましょう。
すこし甘めで」
執事が深く頭を下げる。
「かしこまりました、奥様」
扉が閉まると、部屋はふたたび静寂に包まれた。
西園寺夫人は胸の前でそっと手を組み、
ひとつ、息を吐く。
「……須磨子さん。
その方を、あなたはどう見つめるのでしょうね」
夜の灯りが、
彼女の横顔を静かに照らしていた。




