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西園寺須磨子は未だ恋を知らない  作者: 天音紫子(著)×霧原影哉(構成・監修)
第5章 恋は試される──午後の小さな嵐のなかで
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西園寺家・当日夜

廊下には小走りの足音、控えめなざわめき。

屋敷の空気が、いつもとは違う緊張を帯びていた。


応接室の扉がノックされる。


「奥様、よろしければ…ただいまお嬢様がお戻りになりました」


「須磨子さんが? 本日は外出しておりましたわね。どうぞ入りなさい」


執事が静かに頭を下げる。

その表情には、どこか説明しづらい困惑が含まれていた。


「……何か、ございましたの?」


「はい。SPより連絡がございました。

 お嬢様は安全にリムジンへ乗り込まれましたが──

 少し、予想外の出来事があったようでして」


西園寺夫人は眉を寄せる。


「怪我を?」


「お身体にお怪我はございません。ただ……」


執事はわずかに言葉を濁した。


「……ご一緒だった殿方が、お嬢様を抱き上げてお送りしたとのことです」


西園寺夫人のまつげが揺れた。


「……まあ」


その声は驚きよりも、

“思わず微笑みを含んでしまいそうな気配”を帯びていた。


「……それで、どうして抱き上げられるような状況に?」


「ストッキングが大きく伝線してしまい、

 歩行が危険と判断されたとのこと。それで……抱きかかえて……」


執事は思い出したように付け加えた。


「お嬢様は、大変にお顔を赤くなさっていたそうで」


「…………ふふ」


西園寺夫人は口元に手を添えた。


「SPは、その殿方をどう評価しているの?」


「冷静で、迅速な判断を下す方だと。

 お嬢様を守る態度に、一切の迷いがなかったと報告されています」


「そう……」


西園寺夫人の瞳が、わずかに柔らかく細められた。


「その殿方のお名前は?」


「……『チーフ様』と」


「チーフ……?」


初めて聞く名。

けれど須磨子の文に記されていた“その方”なのだろう、と気づく。


西園寺夫人はほんの少し頬に手を添えた。


「……娘も大人になりましたわね」


その声には寂しさでもなく、嫉妬でもなく──

ただ、静かな誇りがあった。


「須磨子は、今どこに?」


「お部屋にお戻りです。ただ……メイドの報告では、

 なにやら一人で転げ回っていらっしゃるとか……」


西園寺夫人はゆっくりと立ち上がり、

カーテン越しに夜空を見上げた。


「……まあ、仕方ありませんわね。

 初めての気持ちなのでしょうから」


そして小さく微笑んだ。


「明日の朝は、あの子の好む紅茶にいたしましょう。

 すこし甘めで」


執事が深く頭を下げる。


「かしこまりました、奥様」


扉が閉まると、部屋はふたたび静寂に包まれた。


西園寺夫人は胸の前でそっと手を組み、

ひとつ、息を吐く。


「……須磨子さん。

 その方を、あなたはどう見つめるのでしょうね」


夜の灯りが、

彼女の横顔を静かに照らしていた。

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