第12話 イノベーション
峻は自分の部屋のベッドに転がり、天井を見上げていた。
「……あー、やることねぇ」
スマホは手に持っているが、特に見るものもない。
ゲームも動画も、さっきまでで飽きてしまった。
――そう、暇なのである。
「なんか……すること、ないかなぁ」
そう呟きつつ、無意識に画面をスクロールしていると、
唐突に一つの広告が目に入った。
《アルバイト募集! 未経験歓迎!》
「……あ」
一瞬、指が止まる。
「……バイト、か」
その言葉を口にした瞬間、
頭の中で一人の顔が浮かんだ。
(確か……實彦、飲食店でバイトしてたよな)
思い立ったが吉日。
峻は迷うことなく、通話ボタンを押した。
『もしもし?』
「もしもし、實彦。今からお前のバイト先、行っていい?」
『……は? なんで?』
「暇なんだよ」
『え、急すぎない?』
「そうなんだyo! 暇なんだyo!」
勢いだけで押し切ろうとすると、
電話越しにため息が聞こえた。
『……いいけどさ。うち、結構厳しいよ?』
「大丈夫だって。ちゃんとするから」
『うわ、出た。“ちゃんとする”ってやつ』
「失礼だな!」
『ともかく、応募は正式にしろよ』
「わかってるって!」
そう言い残し、峻はやや乱暴に通話を切った。
――さて。
「……姉さんにも、一応言っとくか」
廊下に出て、リビングの方へ声をかける。
「姉さん、ちょっと話があるんだけど」
「なぁに、日菜?」
振り返った姉は、相変わらず余裕のある笑顔だった。
「社会経験のためにも、バイト行ってみようと思うんだよね」
「へぇ」
一瞬だけ感心したように頷いたあと、
姉はじっと峻の目を見つめてくる。
「……で? 本当の理由は?」
「暇だから」
「正直でよろしい!」
姉は大きくうなずき、背中をぽんと叩いた。
「よし、行ってこい! くれぐれも人に迷惑かけちゃだめだよ?」
「そんな心配しなくても、わかってるって」
そう答えた瞬間、
後ろからふわっと抱きしめられる。
「……姉さん?」
「応援」
短い一言だったが、
その温もりに、峻は少しだけ気恥ずかしくなった。
――そして、バイト面接当日。
峻は“安桜日菜”として、
指定された飲食店の扉をくぐった。
「えー……帝王学園から? しかも、女の子?」
店長は履歴書を見て、わずかに目を丸くする。
「はい。よろしくお願いします」
声を落ち着かせ、姿勢を正す。
多少の質問はあったものの、
面接は拍子抜けするほどあっさりと進んだ。
「うん、問題なさそうだね」
その一言で、合格が決まった。
「ええと……シフトは、いつからがいいかな?」
(確か、實彦は――月曜と木曜、あと日曜。
今日は日曜で、昼頃だったはず……)
――いやいや。
(なんで實彦のシフト把握してるんだ俺。
そこ突っ込まれたら完全アウトだぞ)
「では……月曜日と木曜日と、日曜日でお願いします」
「OK。それじゃあ、木曜日に一度来て。仕事の説明するから」
店長はそう言って、にこりと笑った。
その表情はまるで――
“帝王学園の生徒なら、余計な心配はいらない”
そう言わんばかりだった。
こうして、峻――いや、安桜日菜の
新たな日常が、静かに動き出したのだった。
店内に足を踏み入れた瞬間、
油とソースが混じった、いかにも飲食店らしい匂いが鼻をくすぐった。
――ここが、バイト先。
エプロンを身につけ、少し背筋を伸ばして立っていると、
奥から一人の人物が近づいてきた。
「はじめましてかな? 安桜日菜さん」
低くも通る声。
「俺はバイトリーダーの古木。よろしく」
そう名乗った人物を見上げた瞬間、
日菜は思わず息をのんだ。
(……でっか)
身長も高い。肩幅もある。
それ以上に――目に飛び込んできたのは、圧倒的な“タッパ”。
エプロン越しでも主張してくる胸部の存在感に、
日菜の視線は無意識のうちに吸い寄せられてしまう。
(いや、違う違う違う! 見ちゃダメだろ!)
慌てて視線を戻し、
日菜はぴしっと姿勢を正した。
「は、はじめまして。安桜日菜です」
そう言って、深々と頭を下げる。
新人らしく、礼儀正しく。
――完璧だ。
「うん、元気でいいね。じゃあ今日は簡単に仕事教えるから」
古木はそう言って、にこりと笑った。
そのときだった。
「……え?」
少し離れた場所で、
一人の男子バイトがこちらを見て、固まっている。
見覚えのある顔。
(……實彦)
その實彦は、目を見開いたまま、完全にフリーズしていた。
(おいおい、そんな顔するなよ……)
心の中でそう突っ込みつつも、
日菜は平静を装う。
一方の實彦は、ようやく我に返ったのか、
小さく呟いた。
「あいつ……本当に来やがった……」
驚きと呆れと、
ほんの少しの嫌な予感を滲ませたその声に、
日菜は知らないふりを決め込むのだった。
――こうして、
安桜日菜のバイト初日は、
静かに、しかし確実に波乱の予感を孕んで幕を開けた。
忙しさが一段落し、店内にほんのわずかな余裕が戻った頃だった。
カウンター越しに作業をしていた古木が、ふと何気ない調子で口を開く。
「ねえ、もしかしてさ」
視線が、日菜と實彦を交互に行き来する。
「日菜ちゃんと實彦くんって……知り合いなの?」
その一言に、日菜の背筋がぴくりと反応した。
「え〜?」
あくまで自然に、首をかしげて笑顔を作る。
「知らない人ですけど?」
即答だった。
「えー、ほんとに?」
古木は納得いかない様子で、にやりと笑う。
次の瞬間――
「もー、私たち“ずっ友”でしょ?」
そう言いながら、古木は悪気のない仕草で實彦の腕に自分の胸をぐいっと当てた。
柔らかな感触。
距離、ゼロ。
「っ……!?」
實彦の肩が、わずかに跳ねる。
顔は引きつり、視線は完全に宙を彷徨っていた。
(やめろ……今はやめろ……!)
しかし、不思議なことに。
胸が当たっているにもかかわらず、
心の奥底では――まったく、興奮しなかった。
(……違う。これじゃない)
頭に浮かぶのは、別の姿。 別の声。
その微妙な空気を、古木は面白がるように眺めていた。
「ふーん……」
そして、追い打ちをかけるように、さらりと聞く。
「やっぱりさ、もしかして二人って……付き合ってたりする?」
その瞬間。
日菜と實彦は、同時に顔を見合わせた。
一瞬の沈黙。 ほんの一拍の間。
そして――
「「いや、ないです」」
ぴったり重なる声。
あまりにも即答。 あまりにも息の合った否定。
古木は目を丸くし、次の瞬間、吹き出した。
「あははっ、なにそれ! 息合いすぎでしょ!」
「……偶然です」
日菜は平静を装って答えるが、
内心では心臓が忙しなく跳ねていた。
(今の、危なすぎる……)
一方の實彦は、深く息を吐き、天井を仰ぐ。
(……ほんと、勘弁してくれ)
こうして、
疑惑は晴れたようで晴れていないまま――
店内には、どこか意味深な空気だけが残っていた。
――そのとき店内の空気が、はっきりと歪んだ。
男四人組が、肩をぶつけ合うようにして入ってくる。 酒と煙草の混じった匂いが、空調に逆らって広がった。
「……げ」
古木の喉から、反射的に声が漏れる。
(最悪……)
視線を逸らし、そのままバックヤードへ下がろうとした――その背中に。
「やー、古木ちゃん。久しぶりじゃん」
粘ついた声。
「あのさ、このあと空いてる?」
古木は足を止め、ゆっくり振り返った。
「……空いていません。ご注文をどうぞ」
「えー、冷たくね? ちょっとくらいさ」
「ご注文は?」
同じ言葉を、同じ調子で返す。
「チッ……」
男の一人が舌打ちし、机を指で叩く。
「いいから付き合えって言ってんだろ!」
その瞬間。
「……っ」
實彦の肩が跳ね、思わず日菜を見る。
「ど、どうしよう日菜……これ、やばいよ……」
日菜は一度だけ、深く息を吐いた。
「落ち着きなさい」
声は静か。 だが、芯があった。
「ここは私に任せて。
實彦は、そのまま他のお客様を」
「で、でも――」
「大丈夫」
短い言葉。 それだけで、實彦は動けなくなる。
日菜はエプロンの裾を整え、男たちの席へ向かった。 足音は小さく、無駄がない。
「――お客様」
「あ”?」
男が顔を上げる。
次の瞬間、視線が日菜を舐め回した。
「お、なんだよ。新人?
カワイイじゃん」
「ありがとうございます。ですが――」
「どうよ、このあと俺らと遊ばない?」
「結構です」
即答。
「は?」
「業務外ですので」
「チッ……連れねぇな」
男が椅子を引き、立ち上がる。
距離が、詰まる。
「調子乗ってんじゃねぇぞ」
その瞬間――
日菜の目の温度が、はっきりと下がった。
空気が、張り詰める。
「……」
言葉はない。 だが、その沈黙が、男を苛立たせた。
「聞いてんのか!」
腕が振り上げられる。
――次の瞬間。
日菜は半歩ずれただけだった。
拳は空を切り、体勢を崩した男の足元が、もつれる。
「……ゴミ」
低く、淡々と。
床に響いた鈍い音。
男は、瞬きをする間もなく倒れていた。
「ひっ……!」
「な、何しやがった……!」
残りの三人が、明らかに引いた表情で後退る。
日菜は視線を上げず、淡々と告げる。
「お客様。
これ以上騒がれると、営業妨害になります」
一拍。
「今すぐお帰りください」
その目には、冗談も、余地もなかった。
「く、くそ……覚えてろよ!」
「次会った時はただじゃすまねぇからな!」
「いえ」
日菜は、はっきりと言った。
「結構です」
男たちは悪態をつきながら、逃げるように店を出ていった。
――ドアが閉まる。
張り詰めていた空気が、一気にほどけた。
店内に戻る、いつもの音。 食器の触れ合う音と、BGM。
實彦は、その場で立ち尽くしていた。
(……何も、できなかった)
そして同時に――
(……すごい)
その背中を見つめながら、
胸の奥に、悔しさと尊敬が静かに混じっていた。
――ドアが閉まり、店内に残ったのは、割れ物が元の位置に戻るような、ぎこちない静けさだった。
食器の触れ合う音が、ひとつ、またひとつと再開される。
スピーカーから流れるBGMも、遅れて存在を思い出したかのように、控えめに鳴り始めた。
實彦は、まだ動けずにいた。
ほんの数分前まで、空気そのものが牙を剥いていたとは信じられないほど、店は平穏を取り戻している。
――そのとき。
「一体、何事かね?」
少し息を切らした声とともに、店長がホールへ駆け込んできた。
額にはうっすらと汗が滲み、騒ぎの大きさを物語っている。
古木が一歩前に出て、軽く頭を下げた。
「……先ほど、少し厄介なお客様がいらして……」
言葉を選びながら、だが隠し立てはせず、起きたことを簡潔に説明する。
「しつこく絡まれて、業務に支障が出そうだったので……その……」
視線が、一瞬だけ日菜へ向けられる。
「日菜ちゃんが、対応してくれました」
「……かくかくしかじかで……」
最後は曖昧な言い回しだったが、店長はすぐに察したようだった。
「ふむ……」
腕を組み、低く唸る。
ホール全体を見渡し、他の客に影響が出ていないことを確認してから、ゆっくりと日菜の前に立った。
「日菜ちゃん、少し時間いいかな」
「はい」
日菜は背筋を伸ばし、穏やかに答える。
その態度は、まるで最初からこうなると分かっていたかのように落ち着いていた。
「問題のある客を追い出してくれたことには、正直、感謝している」
店長は率直にそう言った。
だが、次の瞬間、声の調子がわずかに重くなる。
「……だが、だ」
一拍、間を置く。
「この店では、万が一ことが大きくなった場合、誰も責任を取れない」
視線を落とし、申し訳なさそうに頭を下げた。
「本当にすまないが……
今日付けで、辞めてもらえないだろうか」
言葉を切り、続ける。
「もちろん、特別ボーナスは支払う。
君が悪いわけじゃない。それだけは分かってほしい」
店内が、再び静まり返る。
一瞬の沈黙。
その沈黙を破ったのは、日菜だった。
「はい」
静かな声。
「店側のご都合でしたら、受け入れます」
顔を上げた日菜は、穏やかに微笑んでいた。
そこには、不満も、驚きもなかった。
「このたびは、ありがとうございました。
短い間でしたが、働かせていただいて感謝しています」
「……本当に、すまない」
店長は、深く頭を下げた。
その様子を見て、古木が唇を噛みしめながら声をかける。
「……ごめんね、日菜ちゃん」
拳を握りしめ、俯いたまま続けた。
「私が、もっと上手く対応できていれば……
こんなことには……」
「いいですよ、古木先輩」
日菜は、いつもと変わらない調子で答えた。
「こういうこと、慣れてますから」
その一言が、なぜか胸に引っかかる。
「……ありがとう」
古木は小さく呟き、視線を上げた。
實彦は、そのやり取りを少し離れた場所から見ていた。
日菜の背中は、騒動の前と何も変わらないようで―
それでも、どこか遠く感じられた。
胸の奥に残るのは、守れなかった悔しさと、
そして、彼女が背負ってきたものへの、言葉にできない重みだった。
◆◆◆
「姉さん、ただいま」
玄関のドアを閉めると、ほっとした空気が肺に流れ込んだ。
一日の終わり特有の、少し湿った夜の匂いが家の中に溶けていく。
「おかえり、日菜。バイトどうだった?」
キッチンから顔を出した姉は、エプロン姿のまま、いつも通りの柔らかな声で尋ねてくる。
日菜は靴を揃えながら、少しだけ間を置いた。
「……一日でクビになっちゃった。てへ」
軽く舌を出してそう言うと――
「っ、ちょ……!」
次の瞬間、姉は腹を抱えて笑い出した。
「はははっ! 一日!? まさか一日でクビになるとは思わなかったわ!」
「姉さんたら、もう……笑いすぎ」
日菜は頬を膨らませるが、姉の笑いは止まらない。
「ごめんごめん。でもさ、別にいいじゃない」
ようやく落ち着いた姉は、目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら言った。
「少しは社会の経験、積めたでしょ?」
「……まぁ、多少はね」
日菜は肩をすくめて答える。
嘘ではない。ほんの一日だったが、確かに学ぶことはあった。
「お風呂、もう沸いてるから。先に入っていいよ」
「じゃあ、そうさせてもらうから。姉さん」
日菜はそう言って、廊下の奥へと消えていった。
――しばらくして。
浴室から水音が響き始めた頃、姉は静かに居間の引き出しを開けた。
奥から取り出したのは、一枚の古い写真。
そこには、制服姿の同級生らしき人物と、少し若い頃の姉が並んで写っていた。
そして、その隣には――今よりずっと幼い峻の姿もある。
姉は写真を指先でなぞり、小さく微笑んだ。
「……峻は、無事に育ってるよ。日菜」
誰に聞かせるでもない、静かな独り言。
写真の中の少女は、何も答えない。
それでも姉は、どこか安心したように、そっと引き出しを閉めた。
浴室から聞こえる生活音が、今日も変わらない日常を告げている。




