第1話 その日、彼は恋をした
終わりというものは、いつだってどこか切ない匂いがする。
校庭の桜はほとんど散り、新緑へと移り変わった木々の葉が、夕暮れの光を受けて淡く揺れていた。
下校途中の生徒たちの笑い声は次第に遠ざかり、空には透き通るような橙色がにじんでいく。
そんな帰り道。
僕――影山峻は、いつも通り友達の源實彦と並んで歩いていた。
……いつも通り。
少なくとも、そのときまでは。
「なぁ峻。今日、なんか浮かない顔してねぇ?」
「別に。ただ、ちょっと現実に失望してただけだよ」
「急にポエム出すな」
呆れたように肩をすくめる實彦。
その反応すら、僕にとっては紛れもない日常の一部だった。
校門を抜け、坂道を下る。
高台にある校舎から吹き下ろす風は、夕方にしては少し冷たい。
(……どうして世界は、こんなにも平凡なんだろうな)
薄い雲の切れ間から夕陽が顔を覗かせ、道の上にじんわりと光を落としていた。
誰だって一度は思う。
――自分も物語の主人公になれたら、と。
(……いや、僕に限ってそんな展開、起きるわけないか)
そう自嘲した、その瞬間だった。
「峻! 聞けよ、すっげぇ話があるんだ!」
實彦が興奮した様子で、勢いよく僕の肩を掴む。
「お前も急にどうした?」
「この前さ、とんでもない美人に会ったんだよ! 見た瞬間、運命って悟ったね!」
「……はいはい」
「でな!? その子が転校してきて、『きゃー!』って俺に――」
「ないな。絶対にない」
「お前ほんと夢がねぇな!!」
意味不明なドラマを全力で演じる實彦を横目に、僕は小さくため息をついた。
(どうせ今日も、平凡なまま終わるはずだった)
――このあと、人生最大の“非日常”が始まるとも知らずに。
◆◆◆
「天上院有紗です。よろしくお願いします」
その名を名乗った少女は、あまりにも美しく、あまりにも可憐だった。
教室に差し込む朝の光さえ、彼女を引き立てるために存在しているように思える。
透き通る白い肌。整いすぎた顔立ち。
一瞬視線を向けただけで、現実感が薄れていく。
――まるで、物語の中から迷い出てきた天使。
その瞬間、教室は静まり返った。
春の午後の柔らかな陽光。黒板に落ちる影。
湿り気を帯びた空気が、彼女が一歩踏み出した途端、一変する。
艶やかな髪が揺れ、陶器のような肌が光を反射する。
凛とした瞳には、近寄りがたい気品が宿っていた。
ただの“美人”ではない。
異質――そう形容するほかない存在感。
教室中の誰もが、息を呑んだ。
『……やば……』 『嘘でしょ……』
沈黙はすぐに限界を迎え、ざわめきが弾ける。
男子たちは我先にと立ち上がり、女子は目を輝かせる。
瞬く間に、教室はお祭り騒ぎになった。
(……こんなこと、本当にあるんだな)
ぼんやりと有紗を見つめる。
彼女は喧騒の中心にいながら、どこか距離を保つように立っていた。
案の定、男子たちが群がる。
「連絡先――てぶっ」
ぶつかった。
いや、正確にはなにかに。
有紗と男子の間には、見えない壁があるかのようだった。
不思議なことに、女子は何事もなく近づけている。
「天上院さんって、モデルとかしてるんですか?」
「学校案内するよ!」
有紗は微笑を浮かべ、淡々と応じる。
「ええ、ありがとうございます。でも……一度に言われると困りますわ」
それだけで、男子たちは悶絶寸前だった。
――しかし。
「俺も連絡先――てぶっ!」
再び、見えない壁。
有紗は一歩下がり、視線を伏せる。
「……授業が始まりますわ。お席へお戻りください」
冷ややかな声。
一瞬で、教室の熱が冷えた。
(……男を避けてる?)
直感が告げる。
でも胸の奥に、ぐちゃりと絡みつく感情。
嫉妬でも、羨望でもない。
――恋だ。
疑いようもなく、その時僕は恋に落ちていた。
◆◆◆
放課後。
夕陽に染まる教室で、僕は机に突っ伏しながら呟いた。
「なぁ實彦……理想って、追うべきだよな」
「どうした急に!? ヒロインかよ!」
「つまりだ。有紗さんと、仲良くなりたい」
「ド直球すぎる!!」
實彦は全力で否定する。
「無理だろ! あれは別世界の人間!」
「……弱みを掴めばワンチャン」
「やめろ死ぬぞ!」
「命は惜しくない」
「惜しめ!!」
だが僕の中では、すでに計画が動き出していた。
(男を避けるなら……女として近づけばいい)
――馬鹿げた発想。
それでも、そのときの僕は本気だった。
◆◆◆
夜、自室。
街灯の光がカーテン越しに差し込む。
そして、僕は結論を出した。
──女装する。
隣の部屋の愛綾姉さんに助けを求めると、返ってきたのは感嘆だった。
「やっと来たね、この時が!!」
「なんの時だよ……」
メイク、髪、香水。
姉の手によって、影山峻は少しずつ別人になっていく。
鏡の中に映ったのは、紛れもなく少女だった。
「……これ、僕?」
「うん。惚れる」
「胸触るのやめろ」
でも、確かに思った。
(……これなら、いける)
こうして――
僕の物語は、動き出した。
◆◆◆
次の日の朝。
僕――いや、安桜日菜としての私は、何のためらいもなく校門をくぐった。
(恥じらいなんて、昨日の夜のうちに全部置いてきた)
少し強い風が吹くたび、スカートの裾が脚にまとわりつく。
それだけで、自分が“女の子”としてここに立っているという事実を、否応なく意識させられた。
朝日を浴びた校舎は白く輝き、通り過ぎる制服の影が長く地面に伸びている。
整髪料のほのかな香りと、姉が最後に吹きかけてくれた甘い香水がふわりと漂い、それが別人としての私を後押ししてくれているように感じた。
登校してくる生徒たちの視線が、一斉にこちらへ向けられる。
(……そりゃ、見られるよね)
昨日まで影山峻だった人間が、今日は美少女の姿で歩いているのだ。
ざわつかないほうが、むしろ不自然だろう。
「おーい、峻!?」
校舎脇から、實彦が全力で駆け寄ってきた。
目を限界まで見開き、口をぱくぱくと動かしている。
「お前……その格好……まさか、昨日言ってた策って……」
「そうよ。女装して、直接彼女と関わる。それしか思いつかなかったの」
日菜としての声は、昨夜ひたすら練習した甲斐あって、自然に耳へ馴染む高さになっていた。
實彦は頭を抱え、今にも膝をつきそうな勢いで肩を落とす。
「あと、今の私は“峻”じゃなくて、安桜日菜よ」
「……ところで峻――いや、日菜。クラスはどうするんだよ?」
「親の七光りを少し借りて、校長先生に頼んだの。交換短期生として在籍できるようにしてもらったわ」
「親の権力、強すぎだろ……」
半ば呆然としながらも、實彦は真剣な眼差しで私の顔を見つめた。
「……男だって分かってるのに、普通に可愛いな。峻の面影、ほとんど消えてる。声も全然違うし」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「うわ……性格まで変わってる……」
「このことは、くれぐれも秘密にして。もしバラしたら……ただじゃおきませんわよ?」
にこりと微笑むと、實彦の顔からさっと血の気が引いた。
(……こいつ、本気だ)
◆◆◆
教室の扉の前に立つと、胸がどくんと大きく跳ねた。
深呼吸をひとつ。胸元に手を添え、気持ちを整える。
(大丈夫。私は日菜。峻じゃない)
扉を開けると、いつもと変わらない朝の教室が広がっていた。
――だが、足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。
会話が途切れ、視線が一斉に集まる。
ざわめきが、波紋のように教室全体へと広がっていった。
「皆さん、今日から交換短期生として来た安桜日菜さんです」
先生の紹介が終わらないうちに、教室はざわつき始める。
『誰あの子……可愛すぎない?』
『声、めっちゃ好みなんだけど……』
好奇、興味、羨望。
さまざまな感情が入り混じった空気が、朝の光の中で揺れていた。
私は一歩前へ出て、丁寧にお辞儀をする。
「皆さんとは短い間ですが、お世話になります。安桜日菜です。よろしくお願いします」
鏡の前で何度も練習した所作のおかげで、動きは自然だ。
影山峻の面影は、どこにも残っていない。
教室の後方では、實彦が机に突っ伏し、絶叫寸前の表情でこちらを見ていた。
(誰だよお前……!)
声にならない悲鳴が、顔にありありと浮かんでいる。
席へ案内されるタイミングで、先生が何気なく言った。
「じゃあ、そこの席でいいかな?」
――有紗の、隣の席だった。
その瞬間、教室の空気が凍りつく。
それでも私は動じることなく、微笑んで頷く。
「ええ、問題ありません」
(むしろ問題しかないけど)
内心で突っ込みながら席へ向かい、髪を揺らして腰を下ろす。
それだけで、周囲がぱっと色めき立った。
(……本当に峻なのかよ……)
そんな小声が、いくつも耳に届く。
――ただ一人、その空気に飲まれていない生徒がいた。
笹倉澤汝。
普段から無口で、感情を表に出さないタイプ。
そんな彼が、曇りのない視線で、じっと私を見つめていた。
(……この感じ、どこかで……)
それは単なる興味ではない。
何かを思い出そうとするような、探る視線。
窓の方を向いた瞬間、風が吹き込み、前髪がふわりと揺れた。
その刹那、澤汝の瞳がわずかに揺れる。
伏せたまつ毛。
視線を上げる角度。
指先の癖、呼吸の間。
――それらすべてが、峻としての私そのものだった。
(……誰だ?
いや、“誰に似てる”じゃない。これは――)
雷に打たれたような表情で、澤汝が目を見開く。
(……影山、峻……?
そんなはず……いや、でも……)
否定しようとしながら、深まっていく疑念。
教室がざわめく中で――
澤汝だけは、重たい疑問を胸に抱いたまま、静かに私を見つめ続けていた。




