第二章:変異と孤立、共感の発見
キィは死の淵をさまよっていた。彼の体は紫色に変色し、高熱にうなされ、意識は混濁したままだ。まるで熱病に冒されたかのように、全身の繊毛が不規則に脈打ち、その光は次第に弱々しくなっていった。彼の家族や仲間たちは、キィが禁忌の「歌」を食らったことを知り、彼を恐れ、遠ざけた。彼らの間には、「音酔いは伝染する」という根拠のない噂すら広まり、キィの周囲には冷たい沈黙の壁が築かれた。
「音酔い」はコエビトにとって、最も恐ろしい死の形だった。かつて「歌」を食らい、帰らぬ者となったコエビトたちの末路は、体が溶け崩れ、最終的には何の音も発さぬ泥の塊と化す、というものだった。ゆえに、キィの現状は、彼らにとって忌まわしい破滅の予兆に他ならなかった。
そんな中、彼の幼馴染で、やはり「音食らい」であるライムだけは、キィを見捨てなかった。ライムは、キィがいつも口にしていた「歌」への探求心を知っており、彼の好奇心が招いた結果であると同時に、彼の苦痛を理解しようと努めた。ライムはキィの傍らに寄り添い、地中の微かな振動を彼に伝えることで、彼の意識を現実に繋ぎ止めようとした。それは、コエビトにとって、もっとも原始的で純粋な「励まし」の行為だった。
意識が朦朧とするキィの脳裏では、女性の歌声が繰り返し響き渡った。それは、地底の音とは全く異なる、暖かく、時に切なく、時に喜びに満ちた複雑な音の層だった。他のコエビトにとって毒となるその「歌」が、キィの意識の奥深くに、奇妙な作用を及ぼし始めていた。
女性の歌声が響くたびに、キィは無意識のうちにその音の中に含まれる「情報」を取り込んでいった。それは、単なる感情の波動ではなかった。彼女の記憶の断片、故郷の風景、かつて誰かと分かち合った喜び、そして未来への漠然とした希望。それらが音の粒となってキィの体内に流れ込み、彼の内なる世界を構築していった。彼は、女性が幼い頃に歌った子守歌の優しい響き、友と笑い合った日の軽やかな音の粒子、そして、鉱山で一人、夜空を見上げながら口ずさんだ寂しげなメロディを、まるで自分が体験したかのように感じ取った。
そして、その「歌」の中に込められた、女性の「共感」という強い感情が、キィの体内で「音酔い」の毒性を中和する触媒となったのだ。彼女が歌に乗せて放つ「誰かに届いてほしい」「この歌が誰かの慰めになりますように」という純粋な願いが、キィの生命力を高めていった。他のコエビトが歌で命を落としたのは、彼らが歌を単なる音の衝動としてしか認識せず、その中に含まれる「情報」や「感情」に意識を向けず、ただエネルギーとして食らおうとしたためだった。キィは、無意識のうちに女性の感情と共鳴し、その深い「共感」の波が彼の体細胞にまで作用し、破壊されかけていた内臓の機能を修復し始めたのである。
数日後、奇跡的にキィは回復した。体から紫色の変色は消え、高熱も引いていた。しかし、彼の体には大きな、そして決定的な変化が起きていた。
彼の耳は、以前よりもはるかに敏感になり、地中の微かな音だけでなく、地上の音、さらには地球の奥底で脈打つ「大地の響き」までもが鮮明に聞こえるようになっていたのだ。彼の感覚は、もはや単なる聴覚に留まらなかった。これまで単なる振動としてしか捉えられなかった音の周波数帯に、視覚的な色や形、そして触覚的な質感を感じ取れるようになっていた。例えば、低周波の地鳴りは重厚な赤色の波紋として、高周波の鳥のさえずりは煌めく青色の粒子として、彼の意識の中に具現化された。地中を流れる水の音は、ひんやりとした透明な青い光の帯として感じられ、地下で眠る鉱物の結晶音は、硬質で輝く金色の粒子として認識された。
彼の半透明の皮膚は、歌から吸収した「情報」によって、まるで虹のように様々な光を放つようになっていた。それは、単一の光ではなく、赤、青、黄、緑、紫…と、吸収した音の周波数と感情の複雑さに応じて、絶えず変化する光だった。この虹色の光は、彼が複数の異なる音を体内に取り込み、それらを調和させていることの証だった。
そして何よりも、彼は「歌」に含まれる「情報」を理解できるようになっていた。それは、人間の感情、歴史、そして彼らが抱く「希望」や「絶望」といった、コエビトには未知の概念だった。彼の脳裏には、地上の人間たちが築き上げてきた都市の喧騒、争いの怒号、そして喜びの歌声が、音として、そして記憶の断片として流れ込んできた。
さらに、その「歌」がもたらした変化は、過去の記憶だけでなく、未来の可能性までも彼に垣間見せた。一瞬、彼の意識の奥底に、枯れた大地が緑に覆われ、澄み切った水の流れる音と、生き物たちの歓喜の歌が響き渡るビジョンが浮かび上がった。それは、地球が真に再生された、希望に満ちた未来の断片だった。この予感は、彼の心に揺るぎない使命感を植え付けた。
キィの変異は、コエビト社会に大きな波紋を呼んだ。「響き食らい」の長老たちは、キィを「異端」として糾弾した。彼らは、コエビトの社会は音の階級によって秩序が保たれており、キィのように異なる音を食らい、変化することは、その秩序を乱す行為だと主張した。特に、地上の「歌」を食らったことは、コエビトの存在そのものを脅かす危険な行為だと見なされた。彼らにとって、キィの虹色の光は、混沌の象徴に他ならなかった。
しかし、キィは自身の変化が、決して悪いものではないと確信していた。彼は、「歌」から得た「情報」によって、これまでのコエビトの常識では考えられなかった新しい発見をしていた。例えば、地中の深い場所で起こる微細な亀裂の音は、単なる地殻変動の音ではなく、地下水脈の移動によって引き起こされる音であり、その水脈には豊富なミネラルが含まれていることを突き止めた。これは、コエビトの食料源を多様化し、新たな生息地を発見する可能性を示唆するものだった。
キィは、自身の経験を他のコエビトに伝えようと試みた。しかし、彼の言葉は理解されず、むしろ恐れられた。唯一、ライムだけが彼の言葉に耳を傾け、彼の変化を受け入れようとしてくれた。ライムは、キィが語る地上の「歌」の美しさに心を奪われ、自分もいつかその音を聴いてみたいと願うようになった。ライムにとって、キィの虹色の皮膚は、禁忌ではなく、未知の美しさの象徴に見えたのだ。