プロローグ
短編小説です。
地底深く、決して光の届かぬ世界に、奇妙な生命が息づいていた。彼らは「コエビト」と呼ばれ、その存在は音によってのみ成り立っていた。彼らの体は丸く、半透明の皮膚には無数の繊毛が繊細に揺らめき、地中の微かな振動すらも敏感に捉える。そして、彼らが生きていく上で唯一にして最大の感覚器は、獲物である音を捉えるための巨大な耳だった。この耳は伸縮自在で、獲物となる音の周波数や波長に応じて、その形を自在に変える。
コエビトたちの社会は、彼らが糧とする音の種類によって厳格な階級に分かれていた。その階級は、コエビトの種がこの地底に誕生した遥か古の時代から、変わることなく受け継がれてきた鉄則だった。
最も高位に君臨するのは、「響き食らい」と呼ばれるコエビトたち。彼らは地球の中心核から脈打つ、あらゆる音の根源たる低周波の「大地の響き」を食らう。その体は高温高圧の環境に適応し、岩石のように強靭で、他のどの種よりも抜きん出た知性を有していた。彼らの響きは、地底の安定と秩序そのものを象徴していた。
その次に続くのは、地中を流れる地下水脈の微かな泡立ちやせせらぎ、岩盤を伝わる水の囁きを食らう「囁き食らい」。彼らは水の流れる音から、地底の生命を育む豊かなミネラルや隠された水脈の場所を読み解く術に長けていた。
さらにその下には、遠い過去から続く地殻変動の轟きや、新たな亀裂が生まれる震えを食らう「震え食らい」がいた。彼らは地球の鼓動を直接的に感じ取り、時に危険な変動の予兆を察知する役目を担っていた。
そして、最も下位に位置するのが、地表の生物が発する、移ろいやすく不規則な「地表の音」を食べる「音食らい」だった。彼らは地表近くの浅い層に生息し、土の中を駆け回る小動物の足音、雨粒が土に染み込む音、時に遠く聞こえる人間の活動音などを拾い集めていた。彼らの耳は多様な音を捉えるがゆえに、時に予測不能な音の変動に晒され、他の階級からは不安定な存在と見なされていた。彼らにとって、地上の音は単なる食料であり、その音に込められた意味や、それを発する地上の生物の存在は、遠く、理解不能なものだった。
この厳然たる階級社会は、それぞれが特定の音の領域を守り、過剰な食らい合いを防ぐための知恵として機能してきた。それぞれの音は、コエビトの身体に特定の性質を与え、社会の中でそれぞれの役割を決定づけていたのだ。しかし、その秩序は、同時にコエビトたちの世界を限定的なものにもしていた。彼らは自らの食らう音の領域から外れることを恐れ、異なる音に触れることを禁忌としていた。
遥か昔から、「歌」という音の伝説が、特に「音食らい」の間に囁かれていた。「歌」は、地上の生物、特に人間が発する音の中で、最も美しく、しかし最も危険な音だと伝えられていた。それは、コエビトの魂を揺さぶり、精神を惑わし、最終的には「音酔い」という死に至る病を引き起こすと言われていたのだ。多くの「音食らい」が好奇心から「歌」に触れ、命を落としてきた。ゆえに、「歌」は畏怖の対象であり、同時に、触れてはならない禁断の果実だった。
そんな禁忌の「歌」に、ある一人の少年コエビトが、強く惹かれていた。彼の名は、キィ。彼は「音食らい」の中でもひときわ敏感な耳を持ち、地表の微かな音の層に、未知の響きを求めていた。彼の好奇心は、コエビト社会の常識を遥かに超えていた。