9 恋人設定
俺たちを部屋に案内した宿の男は、俺の腹がギュルギュル鳴っていることに気付くと、憐れみの眼差しを浮かべて「残り物でよければ食べますか?」と尋ねてきた。
た、食べたい……! もうこの際、辛子マヨネーズじゃなくてもいい!
レオに目で訴えると、レオが小さく頷いて男に「頼む」と伝えてくれる。葡萄酒はどうかと聞かれたのでこれにも目で訴えると、レオは目元を小さく綻ばせながら「そちらも頼む」と伝えてくれた。
や、やったーっ! ビールではないけど、これでようやく仕事終わりの酒が飲める!
「すぐにお持ちしますね」という男にありがとうの意味も込めて微笑みかけると、男の顔にフニャア、という緩んだ笑みが浮かんだ。男は次に俺の隣にいるレオを見ると、途端に表情を強張らせてサッと目を逸らす。どうしたのかと思って隣のレオを振り仰ぐと、レオが俺を見下ろしてにこりと笑いかけてくれた。……ん? さっきのはなんだったんだろう?
男が慌てたように出て行った後、レオが俺の肩を抱いて「こちらへ」と言いつつ、部屋の奥にあるベッドに座らせる。ベッドはシングルよりは大きいけど、ダブルよりは小さいかもしれない。散々働いた後に更にかなりの距離を歩いてきたので、もうふくらはぎがパンパンなんだよな。
「あー……っ、疲れたあ……!」
グーッと足を伸ばすと、気持ちのいい痛みを感じた。疲れた。今日は本当によく働いたよ、俺の足。
足を下ろすと、チクリとした軽い痛みが後ろ側に走る。
「あ」
俺の足を突いているのは、ベッドマット代わりになっている藁の先端だった。そこはかとなくいい匂いがするから、安眠効果もありそう。……ん? そういえば、ベッドがひとつしかない。
「あのさ、レオ――」
部屋は合ってるのか、と聞こうと思ったんだ。だけど聞く前に、レオが俺の前に膝を突いて俺の両手を握り締めてきたじゃないか。……え? ええっ?
「――ハヤト」
「は、はいっ」
射抜くような真剣な眼差しで見られて、思わずどもる。だ、だって!
「ハヤトの笑顔を無闇矢鱈に振りまいては危険でございます」
「はい?」
ちょっと何を言われているか分からない。
「先ほどの宿の男も、あからさまにニヤついておりました。――尊い御身に対してなんたる冒涜でしょうか」
「はあ?」
レオは微笑を浮かべているけど、目が笑ってない。
「あのー……。知ってると思うけど、俺は男だよ?」
少なくとも、元の世界で女に間違えられたことはない。バイト先の居酒屋の常連で男でもいけるよっていうお兄さんにちょっかいを出されたことはあるけど、告白された時に丁寧にお断りしたらそれ以上しつこくはされなかったし、結局あれは俺をからかっただけだったと思っている。
なのに、レオの目は逸らされない。眼力強いなあ。
「ハヤト」
「はい」
「ハヤトのおられた世界ではどうか存じ上げませんが、こちらでは男でもいいという輩は山のようにおります。しかもハヤトは先ほども申しました通り、中性的でどちらとも取れない美しさがあるのですよ。きちんと自覚なさっていただかなければ困ります」
自覚……そんなことを言われてもなあ。元の世界じゃ、俺は本当にワンオブゼムだったんだよ。でもこっちじゃアジアンビューティー扱いなのか。そういうこと? でもそう考えれば、レオがやたらときれいだのなんだのと素っ頓狂なことを言ってくることにも納得がいくかも。だって珍しいものって良さそうに見えるもんな、うん。
レオが懇願するような上目遣いで俺の目を覗き込んできた。
「ハヤトの身に何かあったら、死んでも死に切れません」
「いや、レオに死なれたら困るからな? 絶対に先に死なないでね?」
「勿論ハヤトを置いて野垂れ死にするつもりは毛頭ございませんが、魔の手はいつ伸ばされるかこれでは気が気では――あ」
なんだか余裕のなさそうな表情を浮かべていたレオが、ズイと俺に顔を近付けてくる。人形のように整った麗しい男顔が、眼の前に迫ってきた。
「レ、レオ……?」
「先ほどハヤトは、私と駆け落ちしたと言われても問題ないと仰っておりましたね?」
「え? あ、うん、まあそうだけど……?」
レオの言いたいことが分からなくて、小首を傾げた。レオは祈りを捧げるポーズで俺の膝の上に肘を突く。まるで恋する相手に囁くようなしっとりとした声で、言った。
「では、私の祖国に到着し王家に保護されるまでの間、私とハヤトは結婚を間近に控えた恋人同士の設定でいきましょう」
「あの、俺男だけど」
「見えないので大丈夫です、ご安心下さい」
「ええ……」
安心したくないよ。ていうかやっぱりこっちの人からは男認定されてないのか! そういうのは早く言ってくれよ!
にしても、これは食費をケチっていたせいで痩せてしまい華奢に見えるのが裏目に出たのかもしれない。だってお金は大事だったし。
レオが、笑ってるんだけど笑ってない笑顔で言い聞かせるように言う。
「ではハヤト、私たちは今日から恋人ですから、そのように振る舞いましょうね」
「振る舞うって言っても……俺彼女とかいたことないしよく分からないよ」
勉強とバイトで精一杯だった俺に、彼女を作る余裕なんてなかったんだよ。彼女ってお金がかかるっていうしさ。
レオが恭しい仕草で俺を見つめる。
「私にお任せ下さい。無体なことはせぬとお約束しますので」
「な、ならレオに任せるけど……」
「ありがとうございます」
レオはそう言って立ち上がると、俺のすぐ隣に座ってきた。肩に手を置いて俺を抱き寄せると、頭頂に唇を当てる。へ……っ?
次の瞬間、軽いノックと共にドアが開かれた。
「お待たせしまし――あっ」
食事を持ってきてくれた宿屋の男が、いちゃついているように見えるだろう俺たちを見てパッと顔を背ける。
びっくりするくらい冷たい笑顔になったレオが、男に告げた。
「食事はそこに置いておいてほしい。そして速やかに部屋から出ていっていただけると助かるのだが」
「わ、分かりました!」
男はさっと踵を返すと、テーブルの上に食事と酒が入った籠を置いて慌てた様子で立ち去る。
ドアがバタンと閉じると、レオが立ち上がってわざとらしく音を立てながらかんぬきをかけた。にっこり笑顔で、俺を振り返る。……なんか怒ってない? 大丈夫?
「レ、レオ……?」
「これで余計な虫は一匹退治できましたね」
「虫って……ただの親切な人じゃないか」
「ハヤトはお優しい。――さ、食事にしましょうか」
「あ、うん! もう腹減っちゃってさあ!」
俺のどこが優しいのかは分からないままだったけど、レオの機嫌は元に戻ったようだし、とにかく腹が減っていた俺は念願の食事と酒に飛びついた。
「いただきます!」
「いただきます、とは?」
でた、異世界あるある! まさか自分が聞かれることになるとは思わなかったけど。
「俺の国の言葉で、命をいただきますみたいな食べ物に対する感謝の言葉だよ」
「それは素晴らしい風習でございますね」
「だろー? あ、なあ、これ何?」
「これはですね――」
レオからの料理の説明を聞きながら食べる食事の時間は、至福の時だった。レオもさっきの冷たい笑顔とは違ってリラックスしたような穏やかな笑顔だったから、余計にホッとしちゃってさ。
そもそも、俺は疲れ切っていたんだ。
だってさ、居酒屋のバイトで散々働いた後に気付いたら異世界転移させられていて、そこから追放劇に魔物に襲われてからの徒歩だよ? むしろよくここまで頑張ったと思う。
だから、大分質素で素材の味の料理を腹一杯に食べて大分渋い葡萄酒を一杯飲むと、座っていることすら難しくなってきて――。
そのまま寝落ちしてしまった。