2 レオ・フェネオン
青い目を驚いたように見開いているフェネオンさんに、俺はコンビニの袋を掲げながら訴えた。
「あの、俺これから家に帰って夜ご飯食べたいんですよね。ビールも折角買ったのに温くなっちゃうから、いつの間に連れて来られたかよく分からないんですけどさっさと元の場所に戻してもらえません?」
何故コンビニが目の前からなくなっているのかは謎のままだけど、おっさんたちに囲まれた時にこっそり移動させられてたんじゃないかというのが俺の推測だ。だってそれ以外に考えられないし。
だけどフェネオンさんは固まったままで、何も言わない。うーん、これってもしかしてドッキリ? まだカメラが回ってるとか?
「汗だくだからお風呂も入りたいし。明日も早いから、早く帰って食べて寛いで寝たいんですけど」
疑いの目で周囲を見渡してみたけど、それらしき物は見当たらない。最近の小型カメラってすごい小さいっていうし、素人目じゃ分からないのかも?
フェネオンさんはずっと目玉が零れ落ちそうなくらい目を見開いていたけど、突如鋭い眼差しに変わった。
「――残念ながら、ここは貴方様がいらっしゃった場所とは別の世界でございます。聖女様」
「あー、そのお芝居はもういいんですって。なんで俺が対象になったのか知らないけど、ドッキリみたいな番組でしょ? バイト上がりで疲れてるし、お腹も空いてるんでさっさと解放してほしいんですけど」
俺はとにかく早く帰りたいんだ。口の中は、完全に焼きそばの辛子マヨネーズ味になっている。あ、想像しただけで涎が……!
だけどフェネオンさんは演技をやめてくれなかった。表情は硬く、少し冷たそうに見える切れ長な瞳にはどこか焦燥感が窺える。
「お芝居ではございません。聖女様はこの召喚陣によってこちらの世界に召喚されたのです」
「え? 召喚陣?」
そんなものどこに――と思ったら、あった。石床に溝のように彫り込まれているだけだから気付かなかったけど、俺たちが立っている場所は確かに直径五メートルはありそうな魔法陣っぽい模様の中心だ。
……この石床、本物っぽいな。でもたかがドッキリ番組だけの為に石に溝を彫るか? うーん。もっと大掛かりな番組なのかな。でもそんなのあるか?
フェネオンさんは、あくまで深刻な表情のまま続ける。
「はい。この召喚陣はこの国に古くから存在するものでございます。召喚陣に光属性の魔力を年単位で流し込み続け、膨大な魔力が溜まったところで門外不出の呪文を唱えます。すると世界のどこかにいる聖属性を持つ存在――オメガを呼び寄せることが可能となるのです」
「は? 光属性? オメガ? ごめん、何言ってるのかよく分からないんだけど」
はい、ものすごい厨二設定きましたー! 属性だなんだはなんとなく俺も予備知識はあるけど、オメガってなんだよ。時計?
「それに聖女役はさっきの人なんでしょ? なんなのこれ。どこがお笑いポイントか分からないんだけど」
段々と俺の口調も砕けてきた。だって付き合ってるのも疲れてきたし! 早く辛子マヨネーズを味わせろ!
「ポ……ポイ……ントとは?」
フェネオンさんが小首を傾げた。案外芸が細かいな。外来語は通じないっていうあるある設定だよな。
「笑う部分が分からないってこと」
面倒だったのでサクッと答える。フェネオンさんは不思議そうに小さく頷いた。
「そうですか……聖女役は確かに聖女役です。ですがここで詳細をお話しするにはやや問題がございまして」
「それ俺に関係ある話?」
「ございます」
即答されたところで、俺には問題点が不明なままだ。疑わしげな眼差しをフェネオンさんの映画俳優より整ってんじゃないかってくらい格好いい顔に向けると、手をひらひらと振った。
「よく分かんないけど、とにかく俺は家に」
「ですから、帰れないのです」
「は? マジで冗談やめてくれない? 労働してきて疲れてるんだよ。早く足も伸ばしたいし」
「それでは私がおぶって差し上げましょうか」
「意味分かんない」
埒が明かないぞこれ。他の役者はみんな舞台からはけたのに、なんでこいつだけしつこく俺に纏わり続けるんだよ。
するとフェネオンさんが、「あ」という表情に変わった。
「論より証拠ですね。今からお見せ致します」
「へ?」
フェネオンさんは腰にぶら下げている剣をするりと抜くと、やけにリアルな剣身を腰の高さで横向きに掲げる。
「え、あの」
「ご心配なさらず」
フェネオンさんは剣を持っていないほうの手を広げて上に向けると、親指の根元に刃を当ててスッと横に引いた。皮膚は簡単に破け、鮮血がじゅわりと滲み出す。俺の目が、驚愕に見開かれた。
「ええっ!? ちょ、ちょっと!? えっ、本物じゃないかよ! 銃刀法違反だろこれ!?」
「ジュートーホーとは?」
フェネオンさんが小首を傾げて聞いている間にも、血が流れ出して床にポタポタ落ちていっているじゃないか!
「わっ、し、止血! 止血しなくちゃ!」
慌てる俺とは対照的に、フェネオンさんは冷静そのものだ。
「この傷は聖女様であればすぐに治せましょう。少し汚れてしまいますが、傷口に触れて祈りを捧げていただけますでしょうか」
「えっ!? 何言ってんの!? 早く押さえて血をっ」
剣を鞘に納めたフェネオンさんが、怪我をしていないほうの手で俺の右手を取った。
「まずはお試し下さいませ、聖女様」
どこまで続けるんだよこの厨二設定!?
段々と苛ついてきた俺は、やれと言われたし、と苛立ち混じりに導かれるがままフェネオンさんの傷口に触れる。さすがに傷口に直接触れたら痛むんだろう。フェネオンさんが一瞬ピクリと反応した。ふんだ。
フェネオンさんは真剣そのものの眼差しで、俺を熱心に見つめる。
「さあ、祈りをお願い致します」
「祈りって……どんなの」
溢れてくる血のぬめりと温かみに、背筋がぞくりとした。少なくとも、この傷は本物だ。お芝居なんかじゃない。
「私も詳しくは存じ上げませんが、治癒を願うとか」
「願うって、そんな抽象的な……」
「申し訳ございません。何せ文献でしか存じ上げておらず」
申し訳なさそうに言われてもなあ。
とにかく、こんな茶番はさっさと終わらせたい。言われた通り、ちゃんと祈りを込めながら言うことにした。
「え……とじゃあ、治れ! 治ってくれっ!」
次の瞬間――信じられないことが起きる。
「は……?」
キラキラの白い粒子が、突然俺の身体から浮き出てきた。驚いて見ていると、粒子が勝手にフェネオンさんの手の傷口に集まっていくじゃないか。
フェネオンさんは、奇跡を見るような煌めいた眼差しで俺の手を凝視している。
「ああ……! 痛みが消えていきます……!」
嘘だろ……。信じられないんだけど。
粒子はフェネオンさんの傷口に溶け込んでいき、静かに消えていく。やがて粒子がひとつもなくなったところで、恐る恐る手を離してみると。
鮮血は残ったままだ。でも、大きく横にあった傷がどこにもない。――え。
「嘘……」
「嘘ではございません」
フェネオンさんは血まみれの俺の手を恭しく取ると、片膝を突いた。憧れを孕んでいるようななんとも言えない眼差しで、俺を見つめる。
「貴方様が真の聖女様でございます」
「え? でもさっきの女の人は……」
「諸事情ございまして、聖女様をお救いする為にひと芝居打たせていただきました」
「ひと芝居? え、どこからどこまでが……」
目下、俺の脳内は絶賛混乱中だ。お芝居の中でお芝居? でもコンビニがどこに行ったのかは謎のままだし、それにフェネオンさんの傷が治ったのはリアルとしか思えない。
「聖女様。私はレオ・フェネオンと申します。どうぞレオと呼び捨て下さいませ」
「はえ?」
「レオと」
「あ、はい、レオ」
あ、フェネオンて名字だったのか。しかしレオねえ。名前からして格好いいな――と思っていたら、血まみれの俺の指先に唇を押し当ててきたじゃないか。はっ!? ちょ、ちょっと何やってんの!?
「我レオ・フェネオン、騎士の名誉に誓い、真の聖女様に揺るぎなき忠誠を捧げる」
「へ」
アニメや映画で見たことがあるようなないような騎士の誓いをされて、あまりの格好よさに固まってしまった。フェネオンさん――もといレオがすっくと立ち上がると、俺の肩を抱き寄せる。
鋭い眼光を周囲に向けた。
「では聖女様、この場は危険です。速やかに離れましょう」
「えっ、でも俺、家に」
「しばしお静かにお願い致します」
耳元でセクシーボイスに囁かれた俺は、思わずこくんと頷いてしまった。
あっ、何頷いてんだよ俺! と思っても、時既に遅し。
レオが身に着けているマントで俺の身を隠すと、「こちらへ」と肩を抱かれたまま、王子と聖女が向かった方向とは真逆に向かっていったのだった。
ああ、辛子マヨネーズ……。
明日より朝6時、夜6時の一日二回投稿していきます!