第八章:声になった痛み
「エマ」
ある日の夜、紬はぽつりと名前を呼んだ。
それは、初めて紬自身が“誰かの名を呼ぶ”声だった。
電話越しの沈黙の向こうで、エマが微かに息を呑む音がした。
呼ばれることに慣れていない、誰かの対象になることに怯えていた子の声。
紬は震えていた。けれどそれでも――
**「わたし、生きてる」**と、確かに思えた。
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学校にはまだ行けない。
家の中は変わらず地獄のようで、義兄の視線が夜になると部屋のドアをなぞる。
でも、紬は一つだけ変わっていた。
“エマのために、今日も生き延びよう”と思うようになっていた。
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ある日、エマの部屋に行ったとき。
机の引き出しに乱雑に並べられた薬と、真っ赤なカッターの刃を見た。
紬は何も言わず、それをそっと箱にしまった。
エマは少し笑ってこう言った。
「あんたの声、聞いてからね、こわくなったの。
あんたがいなくなったらって、想像したら、息できなくなった」
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紬は言葉に詰まった。
だけど、手だけはしっかりとエマの手を掴んでいた。
「ねえ、わたし…」
「いなくならないで。お願い。ねえ…」
エマの声はかすれ、泣き声に近かった。
“強がってきた子どもの崩れた声”。
そのとき、紬は初めて、自分が“必要とされてる”と感じた。
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エマの依存は日に日に深まっていった。
夜中に何度も電話が鳴るようになり、繋がっていないと落ち着かなくなり、
「死にたい」じゃなく「あなたがいないと生きられない」と呟くようになった。
そしてある夜、こんなLINEが届いた。
「あんたの声が聞けなかったら、またカッター握っちゃうかも」
「だから、“好き”って言って、ねえ…好きって言ってよ…」
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紬は混乱していた。
好き。たしかに、そうかもしれない。
でも、エマの“好き”は痛みの上に成り立っている。
その“痛み”ごと愛したとき、ふたりはどこまで落ちていくのだろう。
それでも、紬はスマホを握りしめ、震える手で送った。
「好きだよ」
「わたしも、同じだから」
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紬が声を取り戻していく一方で、
らんはそれに溺れるように依存を深めていく――
ふたりは、ただの友情でも、ただの恋でもない、
“救いを欲しがる魂同士の結びつき”になっていた。