第七章:あなたの声じゃなくて、息が好きだった
呼吸の仕方を、忘れていた。
エマの動画通話の画面越しで、彼女がただ静かに息をしているのを見て、
「それだけでいいのかもしれない」と思った。
彼女もまた、言葉を使えない人だった。
教室で一言もしゃべらず、トイレでパンを齧る昼休み。
机に画鋲を入れられても、痛みに声を漏らさない。
そんな彼女が、スマホの画面の中では――
“息をする”ことで、紬と会話してくれていた。
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ある日、紬(本来の人格)はそっと画面に指を当てた。
「会いたい」
「触れてみたい」
「音じゃなくて、体温で話したい」
誰にも言えなかった言葉が、指の震えとして伝わった。
それを見たエマが、首を小さく縦に振った。
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待ち合わせは、人の少ない川沿いのベンチ。
制服にジャージを重ね、マスクで顔を隠して。
何も話せなかった。
ただ、横に座って、手の甲が触れ合う距離で呼吸を重ねた。
エマが、リュックから小さなスケッチブックを出した。
「わたしね、声が出せないこと、誰にもわかってほしくなかった」
「でも、あなたは“出さなくていい”って思わせてくれた」
「だから、今だけここにいてもいいと思えるの」
紬は震えながら、その紙に手を伸ばし、そっと指でなぞった。
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その日、夕方までふたりはベンチにいた。
一言もしゃべらなかった。
でも、紬の中でなにかが動き始めていた。
世界が“誰かのいる場所”になっていく。
怖いけど、痛いけど、でも――温かい。
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数日後、ふたりは“エマ”の秘密の場所へ向かった。
廃れたレンタルスペースの空き部屋。
誰も来ない、音もない、ただ布団と小さなスピーカーだけの空間。
エマがBluetoothでピアノの音を流すと、紬は初めて、震えながらも声を出した。
「ありがとう」
かすれた声だった。
でも、エマはそれを聞いて――泣いた。
言葉じゃない。声でもない。
ただ、存在が存在に触れた音だった。
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――ふたりは今も壊れかけのまま
だけど、“一緒に壊れていくこと”が、愛情に近いものかもしれないと信じはじめていた。