第五章:ひとりじゃない
部屋の天井を見つめていた。
何時間、何日、それを繰り返してきたのか思い出せない。
体の重さに埋もれて、意識が深い水の底に沈んでいく。
そこで、彼女は“誰か”に出会った。
⸻
声がした。
「痛いの、もういいでしょう?」
静かな、でも確かな声だった。
女の子の声。
自分と同じ年頃――いや、すこし幼く聞こえた。
「かわいそうだよ、紬。ずっと黙って、ずっと我慢して。
今度は、わたしが代わってあげる」
⸻
朝、紬は鏡の前に立った。
無表情のまま、じっと自分を見ていた。
けれど――その目は、いつもと違った。
落ち着いていて、冷たい。
傷ついた目ではない。
むしろ“観察する目”だった。
指先をゆっくりと上げて、髪を撫でる。
その動きも、どこか他人のようだった。
「――はじめまして、紬。」
唇が勝手に動く。
だけどそれは、自分の声じゃなかった。
⸻
その日から、何かが変わった。
継母が部屋を開けて怒鳴ったとき、紬はただ見返した。
睨んでも、泣いてもいない。ただ、真顔で。
継母は一瞬、言葉を失ってドアを閉めた。
陽翔が入ってこようとした夜も、ドア越しに声がした。
「また来たの? 写真、消したんじゃなかったの?」
その言葉の重さに、陽翔は黙って立ち去った。
何も知らないはずの紬が、“何かを知っているような”口調だったから。
⸻
新しい“紬”は、自分を守る存在だった。
言葉も返せる。
自分の代わりに怒ってくれる。
傷つけられそうなときは、すっと表に出てくる。
でも、絃は気づいていた。
夜、彼女が微笑んでいるとき――
その目の奥に、“紬”がいないことを。
⸻
紬の本来の人格は、徐々に奥に引っ込んでいった。
苦しみや痛みを感じないようにするために。
もう一人の彼女が、傷の上に絆創膏を貼るように振る舞いながら、静かに心の主導権を握り始めていた。
だけどその“守り人”は、決して優しい存在ではなかった。
彼女が動くときは、必ず誰かを遠ざけ、何かを終わらせるときだった。
⸻
「わたしが守ってあげる。だから、もう感じなくていい。考えなくていい。
でも、わたしがいないと――君はきっと、死んじゃうよ?」