第四章:体のない場所
雨が降っていた。
けれど、紬は音が聞こえなかった。
窓の外の風景が、スクリーンの中の映像みたいに感じられる。
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陽翔は、ある日から無言で部屋のドアを開けるようになった。
「大丈夫、誰にも言わないから」
そう言って、スマホのカメラを向けてくる。
そのとき紬の意識は、体から数メートル浮き上がっていた。
言葉も感覚も、どこか遠くに行ってしまった。
「これは私じゃない」
そう思うことが、唯一の逃げ道だった。
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指の痕が、肌に残っていた。
布団の中で、爪でその部分をひっかいた。
赤くなる。滲む。
それが、「ここにいる」という証明のようだった。
時々、切った部分を見て「これが私の輪郭かな」と考えた。
痛みは怖くない。ただ、“感じる”ことが、安心だった。
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ある夜、鏡の中の自分と目が合った。
「誰?」
その目は空っぽだった。
感情も、意思も、命もない。
口が勝手に動いた。
「私じゃない。私はここにいない。私はもういない」
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絃は、何も言わなかった。
でも、深夜に紬が吐きそうになっても、トイレの前で背中をさすってくれた。
泣いたときは、隣で寝たふりをしていてくれた。
それが唯一の“現実”だった。
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紬の脳は、生き延びるために、すべてを遠ざけていた。
体はここにあっても、心はもう存在していなかった。
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「生きてるって、どういうこと?」
「声を出さなくても、私はここにいるって思っていいの?」
「誰も見ていないなら、私は消えていい?」
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紬の目に映る世界は、モノクロに変わっていった。
音が消え、匂いがなくなり、時間の流れすら歪んでいく。
そしてある日、彼女は起き上がれなくなった。
身体は動かないのに、脳だけが「終わりたい」とつぶやいていた。