第三章:声のない同居人
部屋には、二つの布団が敷かれていた。
一つは紬の。もう一つは、弟の絃のもの。
もともと広くない家で、子ども部屋は二部屋だけ。義兄がそのうちの一部屋を占領しているから紬と絃は同室だ。
紬は、布団から出られなかった。
外の音が怖かった。陽翔の足音、継母の機嫌、誰かが呼ぶ声、スマホの通知。
すべてが、心臓を締めつけてくる。
頭が働かなくなり、身体が重くなる。
気づけば一日中、まばたきすらせず、壁を見つめていることもあった。
ご飯は食べられない。
喉が飲み込むことを拒否している。
だから、絃が置いてくれるスープやパンも、ほとんど残る。
でも、絃は怒らなかった。
ただ、毎晩、小さな懐中電灯で本を読んでいた。
音は出さず、存在感も薄く――でも、そこに“いる”ことだけは、紬にとって奇跡のようだった。
ある夜、紬は夢を見た。
部屋の隅に、黒い手が生えていた。
それが彼女の足首をつかんで、ベッドの下に引きずり込もうとしている。
叫ぼうとしたが、声が出ない。
何度も、何度も、胸を叩いた。
目を覚ますと、布団の外で絃がしゃがんでいた。
何も言わず、懐中電灯の光をそっと自分に向け、
ただ、彼女の手を握った。
紬は泣かなかった。
泣き方を忘れていた。
でも、その手の温度だけは、胸の奥に残った。
日中、陽翔は部屋の前に立つようになった。
「紬、入っていい? ちゃんと顔、見たいな。久しぶりだもん」
ドアノブが、ゆっくりと動く音。
紬は震えながら、布団をかぶった。絃は無言で、間に座った。
それだけで、陽翔は立ち去った。
もしかしたら、弟が“盾”になってくれていたのかもしれない。
でもそれを確かめる勇気はなかった。
夜、スマホの電源を入れてみる。
LINEもSNSも通知はゼロ。
唯一開いたのは、検索窓。
「死なずに消える方法」
「息が止まるだけの病気」
「自分がいなくても誰も困らない理由」
画面の明かりが、紬の頬を青白く照らす。
そのとき、背後で絃が、ぽつりとつぶやいた。
「……姉ちゃん、ここにいていいよ。」
紬は振り返らなかった。
でも、それは“生きていていい”と言われたような気がした。
わずかに、息が戻った。