第二章:消えるための練習
紬が学校で“透明な存在”でいられたのは、1年の1学期の間だけだった。
体育の授業でマット運動があり、着替える更衣室での“沈黙”がクラスの女子に違和感を与えた。
「なんであの子、ひとことも喋らないの?」
「話しかけたら震えてた。気持ち悪い」
「なにあれ、病気? 変な障害?」
そこから“からかい”は始まった。
筆箱に生理用品を詰められる、ノートに「化け物」と書かれる、教科書を捨てられる。
紬は耐えた。耐えることしか知らなかった。
そして家では、陽翔の手が明らかに“それ以上”になっていた。
「誰にも言わないんだね。偉いなぁ、紬は。俺のこと、嫌いじゃないんでしょ?」
手首を掴まれたあとの痕は、制服の下に隠した。
服の上からでも、心まで触られているような気がして、何度もシャワーを浴びた。
皮膚の感覚が、自分のものじゃない気がして――涙も出なかった。
夜、布団の中で紬は息をひそめながら、心臓の音を数えていた。
自分の体に、「今は安全だよ」と言い聞かせるように。
ある日、教室で笑い声が起こった。
女子グループのひとりが、スマホで何かを見せていた。
「これさ、紬の家の前っぽくない?」
「まじで? え、だれ?兄貴?…うわ、キモ」
「え、なんで録画されてんの?」
紬は席で固まった。
視線が集まり、誰かがカメラを向ける。
その日は帰宅途中で過呼吸を起こし、道路の影にうずくまった。
周囲の大人たちは誰も声をかけてこなかった。
ただ、足音だけが通り過ぎていった。
その日を境に、紬は学校に行かなくなった。
朝起きても制服に袖を通せなくなり、布団から起き上がれない。
日中もカーテンを閉めきって、部屋の隅で丸くなっている。
継母は「甘えてるだけでしょ」と言った。
陽翔は「俺が慰めてあげようか?」と微笑んだ。
弟の絃だけが、ドアの隙間から冷えたスープを置いた。
紬は、ただ黙っていた。
彼女が言葉を封じてから、もうすぐ一ヶ月になる。
ノートの記録も止まった。
スマホの電源は切れたまま。
誰にも会いたくないし、見られたくない。
けれど、彼女はまだ生きている。
「死にたい」とは思わない。
ただ、
「このまま時間が止まればいい」と願っている。