第十八章:見なかったふり、もうできない
日曜の午後。
紬と別れ、エマはひとりで最寄りの駅前を歩いていた。
どこへ行くつもりでもなかった。ただ、家にも学校にもいたくなくて。
スマホの画面を見つめながら、信号待ちをしていたときだった。
視界の端で、“懐かしすぎる”顔が、通りを歩いていた。
母だった。
整った髪。細い身体。手には小さなショッピングバッグ。
隣には、知らない男の人がいて、楽しそうに笑っていた。
思わずその場で足が止まった。
頭が真っ白になって、息が詰まる。
(うそ、でしょ……?)
見間違いだと思いたかった。
でも、あの横顔、あの肩の動かし方、あの手の形――間違えるはずがなかった。
そのとき、母と目が合った。
ほんの一瞬。
けれど母の目には、“何の感情”も宿っていなかった。
「……あ」
声が出たのに、母は一瞬視線を逸らして――そして、素通りした。
まるで「知らない子」として。
⸻
何かが“壊れた”音がした。
身体が震えて、呼吸ができなくなった。
エマは道端にしゃがみ込んで、手で口を押さえた。
パニックだった。記憶が、フラッシュバックのように駆け巡る。
「泣かないでよ。うるさい」
「どうしてあんたは、そんなふうなの」
「いらない子だったんだよ、最初から」
脳の中で母の声が何度も響いた。
それでも、“会いたかった”自分がいることも――
こんな目で見られて、息ができなくなるくらい傷ついた自分がいることも――
全部、認めたくなかった。
⸻
その夜、紬の部屋で何も言えないまま、エマはうずくまっていた。
声が出なかった。涙も出なかった。ただ、震えていた。
紬は何も聞かずに、黙ってブランケットをかけてくれた。
そして背中に触れて、そっと言った。
「エマ、もう“大丈夫なふり”しなくていいよ」
「会っちゃったんだね。……“あの人”に」
エマの肩がわずかに動く。
時間が止まったみたいな沈黙の中、やっと、搾り出すように言葉がこぼれた。
「ねぇ……わたし、生まれてこなきゃよかったのかな」
「存在がまちがいなら、いまのこの幸せも、嘘なのかな」
紬はエマの手を握って、小さく言った。
「間違いじゃないよ。
だってわたしは、エマがいてくれて救われたもん。
“いてよかった”って、何度思ったかわからない」
「わたしが、そう思ってるよ。――今ここで」
⸻
その夜。
エマは声を出して泣いた。
母の前では一度もできなかった、子供みたいな泣き方で。
そのすべてを、紬は抱きしめて受け止めていた。




