第十六章:壊れるのが怖い。だから言う。
夕飯の時間が終わって、父が食器を片付けに立った。
キッチンに立つその背中を見ながら、紬はテーブルの上で手を握り締めていた。
喉が詰まりそうで、唾を飲み込むのも苦しかった。
でも、「今日じゃなかったら、もう一生言えない」気がして。
「…ねぇ、お父さん」
「……ちょっと、だけ、話したいことが、あるの」
父が振り返った。
笑顔でもなく、怪訝な顔でもなく、ただ“ちゃんと聞く顔”だった。
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リビングのソファに並んで座る。
部屋は静かだった。テレビもラジオも、つけてなかった。
その沈黙に、紬は何度も言葉を呑み込んだ。
「あのね――
わたし、小さい頃から、ずっと“普通じゃなかった”んだと思う」
「人と喋るの、怖くて。学校でも浮いてて。
でもそれだけじゃなくて……家でも、“痛いこと”がたくさんあった」
父の目が少し揺れた。
でも、何も口を挟まなかった。
「継母さん、優しくなかった。……怒鳴られたり、叩かれたりした。
物を投げられたり、ご飯抜かれたり――
でも、もっと……一番、言いづらいことがあるの」
紬の声がかすれる。喉が締まって、息が漏れるようになっていく。
「……義兄、に。ずっと。
やられてた。触られて、動画、撮られて……」
「わたし、ずっと黙ってた。
お父さんに嫌われたくなくて。
『そんな子じゃなかった』って、思われたくなくて」
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父は、その場で動かなかった。
手を握ったまま、深くうつむいて、何も言わなかった。
沈黙が、永遠のように続いた。
紬の頬に、涙がいくつも流れていた。
言ってしまった。戻れない。何もかも終わるかもしれない。
「ごめんね。
ほんとうに、ごめんね。こんな話――
もっと早く言えばよかった。でも、言えなかったの」
そのとき。
父が、ゆっくりと手を伸ばし、紬の頭をそっと抱きしめた。
髪を、何度も、何度も撫でた。
「……ごめんな」
「気づけなかった。気づこうとしなかった。
お前のこと、信じてるふりして……全部、見ないふりしてた」
「話してくれて、ありがとう」
「どんなに遅くても、それは……紬が“生きようとした”証拠だから」
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紬は、父の胸の中で、声を上げて泣いた。
子供みたいに、言葉にならない嗚咽で、何度も何度も。
やっと、「お父さん」に戻ってくれたその人の腕の中で――
初めて、自分が“守られていい存在”なんだと思えた。




