第十五章:じゃあ、やめよう。ふたりで。
それは、何の前触れもない夜だった。
外は小雨。窓の向こうに、街灯の光が滲んでいた。
ふたりは、紬の部屋で並んで座っていた。
テレビもスマホも、音を消していた。
ただ、隣にいる“ぬくもり”だけが、世界と繋がる感覚だった。
その夜、紬の声はかすかだった。
「ねぇ、エマ。あの薬、今日持ってきた?」
エマは、カバンの中からひとつの小さな瓶を出して、静かに頷いた。
眠剤。抗不安薬。鎮痛剤。
そのときの気分によって、選ぶものは違っていた。
けれど今日は、なんとなく、開ける気になれなかった。
紬が小さく笑った。
「わたしね。ずっと思ってたの」
「あれがあると、“もう何もしなくていい”って安心するけど――
飲んだあとは、必ず自己嫌悪してる」
「エマも…そう、じゃない?」
しばらくの沈黙。
そして、らんがぽつりと口を開いた。
「ほんとは、怖い。
自分の感情も、痛みも、過去も。
でも――何も感じないのも、もっと怖い」
そのとき、ふたりの間に流れた空気は、
どんな言葉よりも重くて、優しかった。
「じゃあ、やめよう」
「ふたりで、ちゃんと感じよう。痛いことも、あったかいことも。
薬じゃなくて、わたしたち自身で」
紬の手が、エマの指に重なった。
エマの瞳に涙が浮かぶ。
「ひとりだったら…絶対無理だったと思う」
「でも今は――一緒に壊れるんじゃなくて、一緒に、残りたい」
「この世界に、“ふたりで”残りたいって、初めて思えた」
⸻
次の日。
ふたりは、川沿いの小道を歩いていた。
小瓶を一緒に持ってきて、橋の上から、そっと投げた。
音もなく、薬の瓶が水の中に沈んでいく。
その景色を見ながら、ふたりは小さな手を繋いだ。
「あの薬より、あなたの声の方が、ずっと効くから」
「わたしの不安に効くのは、あなたの存在だから」
ふたりの声が、やっと“生きる”という方向に向きはじめた。




