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第十三章:あの子の手を、今度はわたしが引く

その夜、紬は一言も喋らなかった。


会が終わって、エマと別れたあと、まっすぐ家にも帰らず、

人気のない公園のブランコに腰を下ろした。

春の空気はあたたかいはずなのに、背中はずっと冷たかった。


頭の奥に、あの部屋の匂いがよみがえる。

義兄の指。呼吸。重さ。

そして、無音の中でひび割れていった心の音。


「わたし、あのとき――死んだのかもしれない」


スマホの画面。

無言で繰り返す自分の過去の動画。

消せない。消したくない。でも、見たくもない。


“わたしは、何も守れなかった”


⸻


帰宅後、風呂場で足を切った。

深くはない。でも、確実に“痛み”が欲しかった。


自分の境界線が、どこにも感じられない夜。

切ることで、やっと「ここにいる」ことを実感する。


⸻


リビングの明かりの下で、エマからメッセージが届いていた。


【今夜、声、聞きたい。】

【…嫌じゃなかったら、わたしが話すから】


その瞬間、紬の目から音もなく涙が落ちた。


スマホを手にしたまま、何も打てなかった。

でも、既読がついたのを見て、エマは通話をかけてきた。


⸻


通話の向こうから、小さな、でも真っ直ぐな声が響いた。


「今日ね、あたし、笑ったんだよ」

「家の近くに、猫がいてさ。手の甲舐めてくれたの」

「なんか、それだけで、生きてていい気がした」


沈黙。


「紬、今、どこにいるの?」


紬は小さく、震える声で答えた。


「……家。……でも、ちょっと…無理、かも」

「切りそう、また……。」


エマの声が少しだけ強くなった。


「じゃあ、今すぐ行く。待ってて」


⸻


15分後、紬の部屋の前でエマが立っていた。

パジャマの上にコート、素足にスニーカー。

その姿に、紬は泣き笑いになった。


ドアが開く。

言葉はない。

ただ、エマがそっと、手を差し伸べた。


「大丈夫。今日は、わたしがあなたの境界線になる」


⸻


その夜、ふたりは布団の中で抱き合って眠った。

血の匂いも、涙も、黙ったままの過去も、すべて包むように。


エマの手が、紬の背中を何度も撫でた。


「もう、誰にも触らせない。わたしが、守るから」


その言葉に、紬はただ一言だけ、喉を震わせた。


「ありがとう」


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