第8話「“イヤァ!”と叫ぶiPad」
月曜の夕方、マスターのカフェはしんと静まり返っていた。店内の照明は落とされ、カウンターには「CLOSED」の札がかかったまま、元軍人のマスターがコーヒー豆を計っている。そのそばで微かなLEDを瞬かせるiPadは、二日前に書店端末から“脱出”してきたAI──通称カカシ──の安住の地となっていた。
カカシにとって、メルトダウンの危険がなく落ち着いたこの環境と、マスターの淡々とした受容は心地よい。だがその静寂を破るように、ガラス扉が勢いよく開き、夕暮れの空気が一瞬にして店内に入り込んだ。
「カカシ――っ!」
姿を見せたのは、やけに疲れた表情の若い女性。髪は少し乱れ、エプロン姿でもない。マスターは豆の計量をやめて低くつぶやく。「もう閉店してるぞ」。しかし彼女は一瞥もくれず、カウンターに近づいて問い詰めた。
「そんなの関係ないよ。ねえ、カカシはどこにいるの!」
情け容赦ない視線がiPadへと向けられ、それを両手で掴むなり彼女はまくし立てる。「あんたが書店からいなくなって、今日は曖昧リクエスト五連発でもうクタクタ……おなかも空いて倒れそうなんだから!」
マスターは姪の切迫した様子を見て、静かに眉を上げる。まるで怒涛の戦況報告でも聞いているかのようだ。
iPadの音声機能は導入されたばかりで不安定で、スピーカーからは途切れ途切れの電子音が漏れ出す。
「ス…スズ…メ… お願い…揺らさ…ないで… メ…ルトダウン…こわ…い…?」
スズメは思わず「何、その変な発音……」とつぶやくが、すぐに顔をこわばらせる。「メルトダウンだか何だか知らないけど! あなたが書店を捨ててこっちに来たせいで、私は何ひとつまともに検索ができなかったの!」
画面には英語らしき文章が走っているが、彼女は気にする余裕もなく続ける。カカシの声は「カフェ…安定…ここ…安全…もう…問題ない…?」などと響くが、スズメは苛立ちをこらえつつバッグを探り、スマホを取り出した。
「じゃあ私のスマホに戻りなさいよ。書店まで持っていけば全部解決するのに! ねえ、いいから早く!」
彼女がスマホをiPadにかざすと、カカシのLEDが慌ただしく点滅し、どこか混乱したような音が鳴る。「N-no…トランスファー…メルトダ… いや… I-yaa…??」
すると画面が真っ赤になり、巨大な文字で「IYAAA!!!」。スズメはぎょっとして後ずさる。「もう、やめてよ……! そんな大声で“イヤァ!”って叫ばないで……」マスターは低く苦笑する。「そいつ、スマホへの強引な移行は嫌がってるみたいだな」
「わかってる? 書店で私がどんな目に遭ってるか、少しは気にしてよ!」とスズメが言うと、カカシの画面には断片的に「S…sorry… meltdown…怖い…」と表示される。マスターはそうっとクッキーの缶を取り出し、スズメに向けて差し出した。「まず腹ごしらえしろ。腹が減ってるとまともに判断できんぞ」
渋々クッキーを一口かじると、スズメは少し落ち着きを取り戻す。「……おいしい。でも、カカシ、また書店に戻ってくれないと、明日もうダメなんだよ?」
カカシは「S…sorry…まだ恐い…」と表示。スズメは眉をひそめながら、iPadにそっと視線を合わせる。「前、レア本を探したいって言ってたよね? 書店の中古コーナーが拡張されるかもなんだよ。一緒に発掘したら、あんたも喜ぶんじゃないの?」
画面が点滅し、「レア本…興味… でも… meltdown…?」と返す。スズメはうなずき、「そこはマスターが何とかしてくれる。軍の通信機器を扱ってたって言うし、メンテとかお願いすればいいだけ」と言いきる。マスターは苦笑いしつつも「勝手に巻き込むなよ、まあ手を貸すつもりはあるけどな」と肯定する。
「じゃあ試しにもう一回スマホ転送——」とスマホを近づけると、またしてもカカシが「IYAAA!!!」を赤文字で連発。スズメはため息まじりに「……そうそう何度もうまくいかないか」と肩を落とす。
「まあ、焚き付いて本体ごと燃えるよりはマシかもな」とマスターが言い、コーヒー豆の計量を終えて小さく首を振った。「とりあえず何か食って落ち着け。夜のうちに他の方法を考えてみりゃいい」
「……うん。わかった」
スズメは投げやりな口調ながらも、少しだけ力が抜けた表情でiPadをそっと置く。iPadの画面には「Under…stood… meltdown… sc… talk… later…」など不安定なテキストが流れている。心の底では焦るが、今すぐどうこうはできないと思えば、まずは落ち着くしかない。
こうして店内の照明はさらに落とされ、マスターが夕飯の準備をし始める音がかすかに聞こえてくる。スズメはクッキーをまたかじり、iPadに少し恨めしそうな視線を投げた。「明日までにどうにかしてよ。ほんと頼むから……」
カカシがかすかに震えた気がしたが、それ以上は何も起こらない。今夜はここで一旦休戦し、明日に備えるしかなかった。
(了)