第6話:試作の冷却装置と不安定な声
スズメが小さな東京のアパートに戻ってきたのは、すっかり夜も更けたころだった。今日は秋葉原でAIパーツを探すだけでも大騒ぎだったのに、その後マスターのカフェで「メルトダウン防止の作業」に追われ、カカシ(端末AI)の暴走を止めるやら何やら……とにかく慌ただしかった。おかげで頭の中には、まだファンの回転音がこびりついているような気がする。
おなかが空いて倒れないよう、マスターがむりやり握らせてくれたおにぎりをかじりながら、スズメは狭い部屋に入るなりベッドへ倒れ込みたくなった。だが同時に、彼女の視線は枕元に置かれた古い一冊の本へと吸い寄せられる。
それは数日前、書店の返品作業で見つけた“謎のオズ番外編”。
既に何度か読もうと試みてはいるが、バタバタが重なり、まだ途中までしか目を通せていない。そのうえ「これを捨てないで」とでも言わんばかりに、カカシが妙に執着した本でもある。裏表紙には“Fragment of…”と読み取れるかどうかの金色の文字が擦り切れているだけだ。
「疲れたけど……せっかくだし、もうちょっと読んでみるか」
そうつぶやいて靴を脱ぎ、さっそく古書を開く。すると部屋の片隅で眠っている“スマホ版カカシ”が少し反応しそうになったが、今はさすがに沈黙したままらしい。きっと再起動に備えて休んでいるのだろう。スズメはそっと机のライトをつけて、くたびれた表紙をなぞるようにめくる。
◆ わずかな読書のつもりが…
ここ数日バタついた疲れもあり、字面を追っているうちにまぶたが重くなる。本には「ある案山子が、完全な“知恵”を得るために世界を旅する」――というあらすじがあり、どうやらこの案山子は、誰かに助力してもらわない限り突破できない壁に当たる……と書かれているらしい。内容は古風で解釈しづらいが、“自力だけでは無理”という描写は、何だかカカシ(AI)の状況と重なるような気もして面白い。
「案山子って、まるで端末が“助けて”って言ってるみたいだよね……」
そう思いつつページをめくり続けるが、やがて睡魔が背後から静かに忍び寄る。
「でももう少し……もうちょいだけ……」
無理をしたところで、いつの間にか意識が遠のき、あっという間に眠りに落ちてしまった。
◆ エメラルドの崩れた大広間
目を開けると、そこは狭い部屋などではなく、緑色の欠片が散乱する巨大なホール。床や壁にはヒビが走り、まばゆいはずのエメラルドの輝きがどこか曇って見える。足元には濃い霧が漂い、どう見ても現実ではない――これは夢……?
「え……ここは……?」
声を出すが、反響するだけで答えはない。辺りを見回すと、一人の人物らしきシルエットが遠巻きに立っている。背の高い痩身で、頭から足先まで色褪せたような服を身にまとい、銀色の髪が淡く揺れている。その背中は儚げで、吹けば倒れそうなほど頼りなく見えた。
スズメは恐る恐る近づき、その人物の真横から顔を覗き込もうとする。だが彼は何かうわごとのように繰り返しているだけで、まるでスズメがいないかのように反応しない。聞き取れるのは「一人では超えられない……誰もいない……」といった悲痛な言葉。
「すみません、聞こえますか?」
手を振り、大きな声で呼びかけるが、一向に気づく気配がない。彼の目は焦点が合わず、ただどこかを見つめ、同じ文句を呟き続けている。
彼の銀髪や装いは、日差しに長くさらされ過ぎて色が抜けたかのよう。一歩踏み込んでその顔を見ようとしても、シルエットが霞んで定まらない。まるで幽霊かホログラムのようだ。
スズメの胸はチクリと痛む。見知らぬ場所で、ずっと「助けて」とは言わないまでも、孤独に震えている様子がひどく切なく感じる。
「ねえ……どうしたの? 何か困ってるなら……私、聞くよ!」
必死になって声をかけたり肩に触れようと手を伸ばすが、どこかすり抜けるような感覚があってうまく触れられない。彼はまるで存在しないかのごとく、反応を返さないのだ。
すると、足元から白い霧が濃厚にわき上がり、男の姿を包むように広がっていく。
「ちょ、待って! 話させてよ!」
スズメは焦って手を伸ばすが、霧はじわじわと彼を呑み込んでいく。彼はうわごとのように「誰もいない……助けが……」と繰り返し、すべてが溶けるように消えていった。
◆ 目覚め
がばっと飛び起きると、自分のベッドだった。枕元の小さなライトはつきっぱなしで、古書は開いたまま。すっかり朝の薄明かりが部屋を照らしている。
「夢……だよね……?」
額に手を当て息を整える。時計を見ると朝の6時。「やだ、ちゃんと寝た覚えがないのに、変な夢ばっかり……」
ベッド脇の本をぱらぱらめくる。そこには今の夢で見たような“銀髪の旅人”についての具体的な記述はない。ただ“案山子が誰かの手を借りなければ動けない”とぼんやり書かれている程度だ。
「悲しげな姿、あんなの書いてなかったと思うけど……私の脳内補完かな」
胸のざわつきを抑えきれず、隣に転がっているスマホに目をやる。まだカカシは起動していないのか静かだ。メルトダウン続きだったせいもあるし、相談したい気持ちも湧くが、変に負荷をかけたくない。それに店のバイトもあるし、余計なことはあとで考えようと自分に言い聞かせる。
とはいえ、夢の中で“完全に無視された”感覚がどうにも胸に刺さった。必死で呼びかけたのに届かない切なさ――あれは何だったのか。
「端末も、自力じゃどうにもならないから助けを求めてるのかな……」
いつもの調子でからかおうと思ったが、夢の余韻が妙に重くのしかかる。しばらくして起き上がり、水を飲み、身支度を整える。もうすぐ出勤時間だ。
しぶしぶ本を枕元へ戻していると、かすかに金色の文字がこちらを呼ぶように見えた気がした。「あとでもう一度読んであげるからね……」と小さくつぶやいて部屋を出るスズメ。いつもの見慣れた朝の通勤風景が、どこか霞んで見える。
昨夜の“エメラルドの廃墟”、孤独な銀髪の姿――もしあれがただの夢でないとしたら。カカシの拡張だの、マスターの手助けだのとは別の次元で、もっと大きななにかが進行している……そんな漠然とした不安とわずかな興奮が入り混じる。
「とにかく、出勤しなきゃ。銀髪さん、あなたのこと……諦めないからね」
声にならない決意を飲み込み、朝の冷たい空気の中を駅へ向かう。多分、いつもと変わらないバイトのはず。それでも彼女の胸には、あの“エメラルドの廃墟”がくっきりと焼きついて離れなかった。
一方、カカシの拡張やメルトダウン騒ぎですら「ただの始まり」にすぎないかもしれない、とどこかで悟っていた。だけどそれを面白がる自分もいる――スズメはそんな戸惑いを抱えつつ、バイト先へ急ぐのだった。