第17回 銀の勾玉と、不安をとかす手料理
夕暮れが近づく頃、マスターのカフェは静かに息をひそめていた。コーヒー豆の香りがやわらかく漂う店内は、いつもの慌ただしさが嘘のように落ち着いている。入り口のシャッターはすでに半分まで下ろされ、街路のかすかな明かりが差し込む程度。
「今日はもう早仕舞いだな」とマスターが呟くと、スズメは「うん、もう誰も来ないし」と頷きながら、店内のテーブルを拭き終える。ふと窓の外を覗くと、外はほんのり薄暮の色。ここは都心から少し離れた住宅街の一角で、大通りの喧騒は届きづらい。ほのかな街灯が通りを照らしはじめる光景が、どこかほっとする雰囲気を醸し出していた。
1階のカフェは基本的にコーヒー専門で、ケーキや軽食はあるものの、強い匂いの出る料理はしない方針。スズメは毎日のようにこの店を手伝うわけではないが、閉店後の片づけを手伝ってあげることは多い。
「お腹すいたし、二階でご飯作ろっか?」
スズメが声をかけると、マスターは「そうだな。そろそろ腹も減った」と仕上げ掃除をざっと終え、明かりを落とす。店内のライトが順々に消され、ほの暗い静寂が残ったところで、二人は奥の階段へ向かう。
古い木の階段を上がると、そこには小さなリビング兼ダイニングキッチンがある。コーヒーの香りが残る1階とは対照的に、こちらは温もりのある生活空間だ。スズメはもうすっかり慣れた様子でエプロンを手に取り、マスターは冷蔵庫から肉や野菜を取り出しはじめる。
「明日、ついに大学の入学式だろ?」
マスターはコンロの前で油を敷きながら言う。声にはさりげない気遣いが混じっているようで、スズメは「うん、そうなの。全然実感わかないんだけどね」と笑う。
今日は春休み最後の夜。高校時代の友達とも離れ離れになり、ふと不安が押し寄せる。けれど、こうしてマスターと一緒に夕飯を作っていると、少しだけ気が紛れる気がした。
リビングの隅のテーブルには、スズメの腕時計と連動したタブレットが置いてある。これが“カカシ”のiPadモードだ。通常は腕時計で短文と顔文字を送ってくるのだが、今日は画面にしっかりした文章が表示される準備がしてある。
スズメがレタスやトマトなどを洗いはじめると、袖口につけた腕時計が微かなバイブで知らせる。
(>_<)「CookHelp?」
短い英単語に顔文字といういつものスタイル。
「ふふっ、大丈夫。すぐ終わるから待ってて」
彼女は声に出して答え、マスターは「AIが手伝える料理って何だよ」と苦笑しつつ、まな板の上で肉をカットしている。フライパンで焼きはじめると、じゅうっと音とともに香ばしい匂いが立ち上り、二階の空気を一変させた。
マスターの住居スペースは決して広くないけれど、窓からは夕闇が少しずつ滲んできて、キッチンのオレンジ色の照明がテーブルや調理器具にあたたかい影を落とす。
「うわ、いい匂い」
スズメが思わず鼻をくすぐらせた。その言葉を受けて、テーブルのタブレットがふっと光り、カカシのメッセージが表示される。
「でしょ。たまには食べさせてあげたいくらいだよ」
スズメが返すと、マスターは「そいつが本当に味を感じる日は来るのかね」と半ば呆れ顔でフライパンを揺する。
そんな何気ない会話に混ざりながらも、スズメは明日のことを思い出す。春休みも終わり、新しい大学生活が始まる。友達はみな別の進路に進み、こっちには誰もいない。それが胸に小さな不安を宿していた。
「……心配しすぎると朝寝坊するぞ」
マスターが肉を皿に盛りつけながら茶化すように言う。
「そ、それも考えられる。でも腕時計でアラームかけて、カカシにも頼むし、なんとかなる……かな」
「お前、書店バイト用の腕時計じゃなかったか? 大学にもつけてくの?」
「うん、絶対つけてく。だって英語で困ったらカカシに相談できるし……」
「はは、頼りっきりだな。だがまあ、心配ならそれもいいか」
そんなやりとりを交わすうちに、野菜サラダや味噌汁まで整い、あっという間に夕食が完成した。
テーブルの上には香草を絡めて焼いた肉と彩り豊かなサラダ、そして温かなスープ。ほんのり湯気が立ち上り、オレンジ色の照明と相まってごく普通の家庭の食卓風景が広がる。スズメとマスターは向かい合って腰を下ろし、「いただきます」と軽く頭を下げる。
「お前は地元の友達がいない分、新しい出会いを楽しめばいいさ。元々人付き合いは得意だろ?」
マスターが切り出すと、スズメは「うーん、自分ではあんまりそう思わないんだけど。ま、がんばるよ」とかすかな笑みをこぼす。
食事がひと段落する頃、マスターがふと何かを思い出したように立ち上がった。
「そうだ。ちょっと待ってろ。お前に渡したいものがある」
そう言ってキッチンの棚を開け、小さな箱を取り出してテーブルに置く。
「え、何?」
スズメが蓋を開けると、中にはリール付きのカラビナキーホルダーが納まっていた。革製のホルダーと一緒に、銀色の勾玉がチャームとして揺れている。
「うわ、綺麗……銀の勾玉なんて初めて見る。これ、どうしたの?」
スズメが目を輝かせると、マスターは少し言いにくそうにしながら箱を指さす。
「昔、縁があって譲り受けたんだよ。詳しくはあんまり話せないが……妙に手放せなくてな。お前が上京して一人暮らしだし、鍵やICカードを落とさないようにな。入学祝いのつもりでもあるし、ちょっとしたお守り代わりだと思ってくれ」
「そんな過去が……。でもすっごく嬉しいよ! 鍵とかまとめられるの便利だし、何より銀の勾玉って何かすごい特別感ある」
スズメはさっそく自分の家の鍵を取り出して、カラビナに取りつける。リールをぴょんと伸ばしてみると、確かに使いやすそうだ。
箱の中の勾玉は、灯りを反射して繊細に輝いている。手に取ればひんやりとした感触があって、どこか不思議な存在感を放つ。
「もっと詳しく聞きたいけど、あんまり話してくれないんだね」
「まあ、俺も詳しく知らん部分があるしな。だが、お前が持ってて損はないと思う。いつか役に立つかもしれないし」
意味深なマスターの口ぶりに、スズメは気になりつつも深入りせずに「ありがとう! 大事にするね」とだけ言った。
iPadのカカシがそこに割り込むように言葉を表示する。
「うん、これで明日から頑張れる気がする!」
スズメは銀の勾玉をそっとなぞって微笑む。今の心細さをちょっとだけ埋めてくれる――そんな小さな光を感じた。
マスターは「無くすなよ、本当に。俺としては心配でな」と照れ臭そうに釘を刺す。彼の声には少し温かい笑いが混じっており、まるで本当に親代わりだ。
食事の片づけを終えた頃には、窓の外はすっかり夜の帳が下りていた。住宅街の外灯がちらちらと光を投げかけ、二階の部屋もどこかしっとりとした静けさに包まれる。
スズメはアパートへ戻る支度をしながら、鍵をキーホルダーに付けたまま手で握ってみる。銀の勾玉が小さく揺れて、微かな“シャラッ”という音がする。その冷たい感触にちょっぴり力強さを覚える気がした。
「じゃあ、私そろそろ帰るね。明日は早いし……本当にいろいろありがとう」
「ちゃんと起きろよ? なんかあったらすぐ連絡しろ」
「わかってるって」
軽く笑い合い、スズメは小さく頭を下げる。カカシ(iPad)のほうも「(・∀・) “お疲れさま! 明日もサポートします”」とでも言うように画面を光らせている。
室内の電気を少し落とすと、銀の勾玉が最後に一度だけきらりと光ったように見えた。スズメはその輝きを胸に留めながら、マスターの部屋を出る。
地元の友達とは離れ離れ、初めての大学生活、何もかも不安だらけ――だけど、この場所と、この勾玉が、そしてマスターとカカシがきっと支えてくれる。そう思うと、夜の闇もどこか心地よく感じられた。
明日、窓の外が白んだら新しい一日が始まる。スズメは腕時計を確かめ、カカシにアラームをセットする。
「大丈夫、きっとなんとかなる」
小さな声が二階の廊下にしんと溶ける。銀の勾玉は、まだその不思議な力の理由を語らぬまま、スズメの“お守り”として揺れていた。




