第10話「実は古くないスマートウォッチ(AIはもう焦っていない…はず)」
マスターのカフェを出るとき、まだ少し残っていたガーリックの匂いを気にしながら、スズメは細い階段を上がった。夕食は美味しく済ませたはずなのに、唐辛子とオリーブオイルが混ざった香りが衣服に染みついている気がする。いつもならコーヒーの香りに包まれた店内も、今夜だけはニンニクが勝っていた。だが、ここはマスターが住む2階のスペース。ちょっと広めのダイニングセットやソファが置かれていて、元軍人らしからぬ快適さを備えている。
「ずいぶん広いですね、ここ」
スズメは鍋を片手に持ったまま、感心したように呟く。
「まあ、退役後に少し改装したんでな」
マスターは窓辺に立ち、腕を組んでいる。口数は少ないが、確かな自信がうかがえる。
「……でも、料理するなら下のカフェでも良かったのでは?」
「匂いが充満して店に残るだろう? こっちは夜しか使わんし、それにおまえとカカシの騒動に巻き込まれたくない」
彼が“騒動”と言うのは、スズメが連れてきたAI──いまはiPadの中にいるカカシのことである。先日まで書店にいた端末がメルトダウン寸前になり、手を尽くした末にカフェへ逃げ込んできた。ところが、今度は書店側が困るから戻ってくれと言っても、カカシは「熱暴走が怖い」と渋っている。
「…まあ、せっかくマスターが協力してくれるって言うし、今日はもう少しがんばりますか」
スズメは鍋をコンロに置き、ため息まじりにこぼす。iPadはカウンターでかすかなLEDを点滅させているが、カカシも何だかバツが悪そうだ。
夕飯の片づけを終えたあたりで、マスターは奥のクローゼットから黒い小箱を取り出した。そこには古めかしい腕時計に似た機械が納まっている。
「これが海外勤務のころ使ってた試作機だ。大した代物じゃないが、通信や翻訳を一部サポートできる。“メルトダウン”までは起こさない程度には頑丈かもしれない」
「要するに、カカシがいなくても“遠隔で”検索できるかもしれない、ってことですよね? 書店にいる私がその時計に問い合わせたら、上のiPadからカカシが答えてくれる?」
「うまくいけばな。問題はバッテリーと発熱だ。長時間稼働すると溶けるかもしれん」
マスターの言い回しは物騒だが、彼の顔にはどこか楽しげな色が浮かんでいる。iPadの画面ではカカシが「Remote… searching… meltdown…回避…興味」といった感じの表示を出していた。
二人が腕時計とiPadをケーブルで繋ぎ、テーブルに広げた配線やパーツを組み立て始めると、部屋の空気が少しわくわくしたものに変わる。スズメは懐中電灯を持ち、「ここはどう繋げるんですか?」などと手伝いながら、マスターの指示を受ける。
「カカシ、ソフトのほう準備できた?」
iPadがビープ音を鳴らし、「Yes… config… beep… meltdown…大丈夫?」と表示。スズメは思わずくすりと笑う。「大丈夫になるように頑張るしかないよね」
1時間ほど奮闘し、ようやく腕時計の画面に“INITIALIZING”の文字が浮かぶ。iPad側にもログが走り始め、「起動テスト完了」らしい。
「よし。じゃあテストしてみるか。えーっと、じゃあ『1930年代に書かれた青いハムスター探偵もの』とか?」
そう口にすると、腕時計は一瞬緑色に光りかけたが、突如として「IYAAA!! (O_o)」と赤文字を出す。スズメはがっくりうなだれる。
「またそれ? カカシ、どうにかならない?」
iPadの表示は「S-sorry… meltdown…no… system error… soon fix…たぶん」と断続的に流れ、マスターは「初回で完璧に行くわけないだろ」と言って再度設定を見直す。
何度か再起動を繰り返すうちに、少しずつエラーが減り、“IYAAA!!”も回数が減っていった。さらにスズメが「ピンクの犬のファンタジー」といったリクエストを投げると、部分的に検索結果が返ってきた瞬間があり、スズメは小さく歓声を上げる。「これ、使えそう! まだエラー出るけど前より全然いいかも!」
iPadからは「sorry for IYAAA… meltdown… avoid… must refine」と表示され、まるで照れ隠しでもしているかのよう。マスターは穏やかに頷き、「たまにはお前たちも息が合うな」と笑った。
気づけば夜も更け、テーブルの上はケーブルや空のカップが散らかったままだ。スズメは腕時計を軽く着けてみて、「サイズもだいたい合ってる」と喜んでいる。
「これで明日は大丈夫そうですね。もちろん完璧じゃないけど、書店で以前みたいにグダグダ探し回らなくて済むなら……」
「まだ油断するなよ。実際に使ってみなきゃわからん」
その釘差しにも、スズメの表情は明るい。「でも正直、すごく助かります。カカシ、ありがとう。マスターもありがとう」
iPadのLEDがかすかに点滅し、「N-no meltdown… we’ll manage… beep…」と表示が続く。本当に嬉しそうに見える。
こうして深夜の2階で生まれた“特殊な腕時計”を使った遠隔検索システムは、メルトダウンの恐怖を乗り越えるための一歩になりそうだ。完璧には程遠いが、スズメは心の底から「これで書店の混乱を何とかできるかもしれない」と希望を抱き、工具を片付け始める。しばらくすれば明日が来る。あの難題も、少しだけ解決に近づいた気がした。
(了)




