かげおくり
久しぶりに短編の投稿です。
一応ホラージャンルのつもりで書き上げた次第ですが、ぶっちゃけ怖くない。
なのでそのつもりでどうぞ付き合ってやってください。
気が付くと、私は奇妙な映画館に居た。
前方のスクリーンには何も映らず、しかし何かが映写されているようでうっすら白く光っている。
映画館にしては狭く、座席の数も少ない。
タバコの匂いが染みついた木製の壁は、積み重ねた時の長さを物語っていた。
そんな映画館の中央に、ただ一人座っている私。
どうしてこんなところに居るのかとか、ここはどこなのかとか、全然分からないのに、不思議とそうした疑問が頭の中を支配することはなかった。
ただぼーっと、半分眠ったような状態で何も映らないスクリーンを見つめ続ける。
やっぱり、白い光がちかちかしているだけだった。
ひとまず、一度外に出ようと思って席を立つ。
スクリーンには伸びたわたしの影が映し出された。
他に誰がいるわけでもないので、気にせず歩く。
この部屋の出口からは、外からの光がうっすら差し込んでいた。
上映室からでると、すぐに視界が開ける。
狭く短い通路の先にもう受付が見えていた。
その受付のところにもやっぱり誰も居ない。
通路に貼られた映画のポスターたちは、どれも見覚えの無いものばかりだった。
建物の外側から流れ込んでくる日の光は、夕焼けのオレンジ色。
その色に無条件に焦燥感が湧く。
胸が締め付けられるような感覚と共に、帰らなくちゃという思いが大きくなる。
でも、どこに帰ればいいのだろうか。
夕日の色に引き寄せられるように、劇場を後にする。
一瞬誰かに見られているような感じがして振り返るが、私が通ってきた通路にも受付窓口の暗がりの奥にも、やはり誰の姿もないのだった。
劇場の外に広がるのは、知らない町並み。
けれど不思議とどこかで見たことのあるような感じもして、知らない場所に居るというような不安感は無かった。
張り巡らされた電線が粗い道路に影を落とす。
電球の切れかけた街灯がちかちかして、その姿がまるで夜を誘っているようだった。
きっともう、夜が近い。
立ち並ぶ平屋からは明かりが漏れていて、そこにある家庭の団欒を幻聴する。
遠くの方の町明かりは、人魂のようにぼんやりと暗がりに浮かんでいた。
家々が形作る影の中を、帰り道を探してさまよう。
けれどやっぱり、不気味なくらい人がいない。
時折家屋から笑い声が漏れてきたり、帰り道を急ぐ子供の声が聞こえてきたり、そんな気がするのに肝心の人影がまるで見当たらなかった。
家の中を覗けば誰かいるのかもしれないけれど、当然見知らぬ私が急に顔を出せるはずもない。
拭い去れない違和感を抱えたまま、野良猫のようにふらふら歩きまわった。
どれくらい歩いただろうか、結局私の帰り道は見つからず、どこへ向かうべきかも分からず、気づけば元の場所に戻ってきていた。
誰も居ない町で、誰も居ない映画館の前で、一人ため息を吐く。
完全に、迷子だった。
ここに来るまでに時計は何度か見たが、どれだけ目を凝らしてもその針が何時を指しているのか分からなかった。
見えているはずなのに、それを認識できない。
私が腕時計を身に着けているわけでもなく、時間を確かめる手段はたぶん無い。
いったいどれほどの時間が経ったのだろうか。
それでも相変わらず、この町はオレンジ色に沈んだままだった。
まるで夜の直前を切り取って、その一瞬のまま時間が止まっているみたいだ。
当てもなくさまようのに、少し疲れてくる。
走っていたわけでもないので体力でいえばまだ全然余力はあるのだけれど、指針もなく動き回る元気はもうなかった。
それでも、時間が経てば経つほど帰らなくちゃという思いは膨れ上がっていく。
焦りばかりが降り積もり、心の平穏をかき乱す。
いつの間にか私の体には無数の傷や痣が浮かび上がっていた。
「私の帰りたい場所って、どこだろう・・・・・・?」
映画館の前で、そのまましゃがみこんでつぶやく。
この場所はこんなにも静かで、安らかで、平穏なのに、どうして私はこうも苦しいのだろう。
いや・・・・・・それはきっと、帰る場所が分からないからだ。
うずくまったまま、視線だけを起こす。
するとその視線の先には、一匹の小さな黒猫が居た。
いままで誰にも会わなかったし、動物さえも居なかったので少しドキリとする。
やせた黒猫は、右目だけでこちらを見つめていた。
「・・・・・・うそ、なんで・・・・・・」
その猫と視線が交わると、胸中の何かをかき乱されるような感じがして鼓動が早まる。
呼吸が乱れる。
そして・・・・・・静かに涙があふれた。
様子の変わった私に何かを思ったのか、黒猫はこちらに歩み寄ってくる。
そしてその頭を私の手の甲に擦り付けてきた。
短な毛の柔らかい感触とその温かさが私の手をくすぐる。
私は無意識のうちにその頭を手のひらで撫でていた。
この猫は隻眼だ。
左目はカラスにつ突かれて失明してしまっている。
けれどもそんな猫が、私は愛おしくてたまらなかった。
しばらくそうしていると、その猫の後ろからまた誰かがやってくる。
どうしてか表情が窺えないが、小さな女の子だった。
もしかしたら、この名前の無い黒猫の飼い主なのかもしれない。
女の子は私の真似をするように小さく身をかがめ、そして私の顔を見上げた。
「お姉ちゃん、迷い込んだの?」
「迷い、込む・・・・・・?」
「そう。帰る場所が分からないんでしょ? ここにもあなたの帰る場所はあるかもしれないけど、お姉ちゃんはそう思ってないんだよね?」
「それは・・・・・・分からない・・・・・・」
不思議な会話をしているはずなのに、不思議と疑問はわかない。
感覚的に、この子がどういうことを言っているのか分かるし、それは概ね私に当てはまっているような気もした。
「君は、誰なの?」
少女に名を尋ねる。
しかし少女は首を横に振った。
「わかんない。それに、ここではそういうことは大切じゃないから。わたしは誰でもいいし、あなただって誰でもいいんだよ」
けれど、と少女は続ける。
「でもきっと、あなたにとってはそうじゃないね。少なくとも、わたしとこの子は・・・・・・あなたと縁があるみたいだから」
「それは・・・・・・そうだね。きっとそう」
猫を撫でながら、少女の言葉に頷く。
そうして、少し少女からは視線を外した。
少女は私の真似を中断して、ゆっくりと立ち上がる。
そして私にすっとその白い手を差し出した。
その手を取って立ち上がると、あっという間に少女の背を追い越してしまう。
それでも少女は、私と手をつないだままだった。
「お姉ちゃん、帰りたいんでしょ? 来て。一緒に帰り道を探してあげる」
絵面とは真反対に、少女はまるでお姉さんのようにふるまう。
実際、道に迷っているのは私なのだった。
「あ、そうだった」
少女は突然私から手を放して、ポケットの中をあさりだす。
そうして取り出したのは・・・・・・。
「えっ、タバコ・・・・・・?」
「ごめんね、今はこれしかなくって・・・・・・。けど、このままだと不便だから」
「不便、って・・・・・・」
戸惑う私に少女はタバコを一本私に受け渡す。
そして今度はマッチをポケットから取り出した。
「火、着けるから。咥えて」
「え・・・・・・私が吸うの? タバコ、を・・・・・・?」
タバコなんて吸ったことはないし好きでもないので当然戸惑う。
ここで私が喫煙したとて取り締まる誰かが近くに居るわけでもないだろうけれど、それでも抵抗は大きかった。
それでも少女は構わずに薄いマッチ箱からマッチを取り出して私をかがませる。
「ほら、早く」
急かされるままに仕方なくそのタバコを口に咥える。
すると少女はマッチを擦って着火し、それを私の口元に近づけた。
視界の中央でちらちらと小さな炎が揺れる。
小さな炎はタバコの先端を包み、その表面を焦がす。
「吸って」
「・・・・・・」
言われた通り少し緊張しながらもストローでも吸い上げるように息を吸い込む。
それを数回繰り返すと・・・・・・。
「着いたね」
タバコの先っぽが赤く輝きだした。
薄暗さの中でそれは強い輝きを放つ。
そしてもう一度強く息を吸い込む。
すると・・・・・・。
「っ・・・・・・! んぐ、・・・・・・ぇほっ、げほっ・・・・・・」
無遠慮に喉の奥に流れ込んできた煙に盛大にむせる。
煙のせいかむせたせいかわからないけれど、それは多少の痛みをもたらした。
漂う煙が涙目の視界の中で揺れる。
そしてその煙が、ぼんやりと景色に影を浮かび上がらせた。
「・・・・・・え?」
「見えるようになった?」
「・・・・・・・」
少女の言葉に、目の前で起きたことに、言葉を失う。
さっきまで誰もいなかったはずの往来。
民家の中、映画館の中にも。
この夕暮れの町に半分溶けだしたような影がいくつも浮かび上がった。
輪郭の曖昧なその影は不確かながら人のような形をしていて、目の位置にその影に穴をあけたかのような白い二つの光点が瞬きをしていた。
その影たちは、むせる私を一瞥だけして通り過ぎていく。
中には全く気にかける様子もなく通り過ぎていく者もあった。
人ではない、人のような何かが、それが当たり前であるかのようにここで生活している。
タバコは一口で吸うのをやめてしまったが、それでもその影は見え続ける。
「これでしばらくは大丈夫だと思うけど・・・・・・さ、お姉ちゃんが帰れる方法を探そ?」
「・・・・・・うん」
今更ながら痛感する。
やっぱり、ここは私が来ちゃいけない場所だった。
ここに居るのは、人間じゃない。
そしてたぶん、この子たちも・・・・・・。
マッチ箱をしまう少女と、足元からこちらを見上げる黒猫を見る。
他の影たちとは違って、はっきりとした形を持っているけれど、やっぱり“違う”と分かる。
そもそも最初から、同じはずなどなかったのだ。
それはきっと、本当は分かってたはずだ。
多少取り乱したが、すぐに気を取り直す。
やっぱり、私は帰らなくちゃいけない。
「・・・・・・ごめん。じゃあ行こうか・・・・・・」
「うん。・・・・・・あ、でもちょっと待って。あなたにあげちゃったから、お父さんに新しいタバコを買わないと」
「・・・・・・でも、私早く帰らないと・・・・・・」
「大丈夫。心配いらないよ。ちょっとだけだから」
そうして少女は再び私の手を取る。
どのみち自分だけじゃどうすることもできないので、私は少女についていくほかなかった。
少女に手を引かれ、黒猫も引き連れ、タバコ屋へ向かった。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「うん?」
「わたし、お姉ちゃんのこと憎んでないから」
「・・・・・・」
「怖がらないで。悲しまないで。でも・・・・・・やっぱりさ、お姉ちゃん・・・・・・迷い込んだんじゃないよね。自分で、ここに来たでしょ?」
「・・・・・・・・・・・・うん」
曲がり角付近に建つ小さな建物。
そこには装飾過多なタバコ屋の看板が立っている。
開かれた窓の内側には闇が満ち、その中にやはり二つの光点が浮かんでいた。
「おばあちゃん、タバコ買いたいの。これと同じやつ」
少女が背伸びして私にタバコを渡すときに取り出した箱を暗がりの中に居る何かに見せる。
その何かは、少女の言葉に穏やかに答えた。
「おや、お父さんのおつかいかい? 偉いね」
「うん」
「・・・・・・そんないい子には、そうだね・・・・・・」
ごそごそと、闇の中で影がうごめく。
そして窓の外側にヌッと暗がりと境目のない腕を伸ばしてきた。
その真っ黒な影の腕は少女の手のひらの上に新しいタバコとそして個包装の飴玉を一つ載せる。
そしてその腕は、私の方にも伸びてきた。
「ほら、あなたも・・・・・・」
影にかけられた声にドキリとしながらも、差し出されたその手の下に私も恐る恐る手のひらを出す。
影の手はゆっくりとそれに触れ、同じように飴玉一つを残していった。
「あ、ありがとう、ございます・・・・・・」
「ありがとう、おばあちゃん。お代ここに置いとくね」
少女は丁寧にお礼を言って、小銭を窓の内側に置かれている受け皿の上に置く。
それにタバコ屋の(おそらく)おばあちゃんは「はいよ」とうれしそうな声色で答えた。
そうして会計も済ませたが、少女はタバコ屋の前から離れない。
どうしたのかと思ってみていると、再びタバコ屋のおばあちゃんに向かって話しかけた。
「ねぇ、おばあちゃん。このお姉ちゃん、帰り方を探してるの。何か知らない?」
少女の言葉に、影は一瞬その白い眼を大きく見開く。
「そうかい・・・・・・」
その白色の光点をゆっくり私に向け、細める。
どこか寂し気に。
「・・・・・・きっと、まだ帰れるなら切符を持っているはずだよ。大切なのは、お嬢ちゃんの帰ろうとする気持ちだ。あとは自ずと、その切符が導いてくれるよ。ただ、気をつけなさい。ここにもまだ・・・・・・人間に戻ろうとする獣は居るから」
「人間に・・・・・・戻ろうと・・・・・・」
「そう。ここから出るには、どうしたって切符が要るからね。安寧の夢も、長いこと見ていると・・・・・・疲れてしまうからね」
「・・・・・・」
この場所は、来たことがないのにひどく懐かしい。
帰って来た、って感じがする。
それは・・・・・・ここがそういう場所、そういうことを求められた場所だからなのだろう。
もし戻れるなら、私には切符が・・・・・・。
「・・・・・・」
制服のスカートのポケットから、小さな紙切れを取り出す。
あった。
それは果たして、切符なのだった。
少女が、私の顔を見上げる。
黒猫はそっと、私の足元から離れた。
「もう、わたしの案内はいらないみたいだね。ちょっとの間だけだったけど、わたし・・・・・・お姉ちゃんに会えてよかったよ。貰った飴は、ここに居る間に舐めるんだよ」
「うん・・・・・・ありがとう」
言われてすぐに貰った飴玉を口の中に転がす。
チープで平坦なリンゴ味。
けれど、いつも飲まされてる薬と違って甘くて、そんなものよりずっと良かった。
「それじゃあ、わたし・・・・・・お父さんにタバコ渡さないとだから。・・・・・・っしょと、この子も連れていくね」
少女が黒猫を抱き上げて、最後の挨拶を私にする。
私はそれに、穏やかな心持ちで頷いた。
瞬間、町の作りが一瞬で変わる。
入り組んでいた道は真っすぐになり、その先は延々と続いている。
あのタバコ屋も、少女も黒猫も、もう近くに居ない。
けれど、一本道なら迷いようがなかった。
それに・・・・・・もうわかっている、どこかを目指さなくちゃいけないんじゃなくて、私がたどり着いた場所が終着点なんだ。
ただ、やはり平穏なままこの旅を終わりにはしてくれないみたいだった。
「・・・・・・!」
私のいる一本道以外の小路、そのすべてが「撮影中」と書かれたテープで塞がれる。
異変を感知してか、そのテープギリギリのところに影が群がってくる。
いくつもの目が、好奇心に駆られてこちらを見つめる。
そしてその中に・・・・・・。
「お姉ちゃん! 急いで!」
あの少女の姿もあった。
一体何が起きているのか分からないが、少女に言われたのでともかく走る。
走り始めると、急がなければならない理由もすぐに明らかになった。
私の背後に、巨大な影が形成される。
全ての建物を追い越して、無数の電線を引きちぎって、それは徐々に形を成していった。
巨大な爬虫類、恐竜・・・・・・どれとも当てはまらないそのシルエット。
しかし見覚えのあるそのシルエット。
所詮影で、細かなディテールの一切は省かれているがその姿はまさしく破壊の象徴、怪獣だった。
クジラよりもゴリラよりも脅威的なそれは、咆哮で空を縁から蝕むように赤色に染めていく。
優しいオレンジ色は一瞬にして血のようなおどろおどろしい色に塗り替わった。
人間に戻ろうとする獣、その白い目が真っすぐに私を見る。
そこに感情や意志は透けないが、私があれから逃げなければならないことは明白だった。
「撮影中」の通路を、その巨体から遠ざかるように走る。
延々と続くこの道は進めど進めどその先が見えなかった。
怪獣は走りこそしないが、その一歩で容易く間にある距離を縮めていく。
どれだけあがこうと、数分でさえもちそうにない。
私の帰ろうとする意志が足りないのだろうか。
こうなった今、それを考える余裕すらない。
私は結局どこに帰ろうとしているのか、そもそも本当に帰りたいのか、それすら定かでない。
ただ逃げなければならないので、がむしゃらに逃げる。
この期に及んで、私は何に縋り付いているのだろうか。
結局、巨大な影はすぐそこまで迫る。
怪獣の足の影が、私の全身を飲み込む。
そしていまにも踏みつぶされるという瞬間、怪獣の姿をした影は霧散した。
それと同時に、あの町の景色も消え去った。
あるのは暗闇だけ、すべての優しい夢の装飾を取り払った完全な闇だった。
けれども、行先はすぐに分かる。
少し先に輝く、緑色の光。
それが照らし出すのは、そこだけぽつんと生成された横断歩道。
前方に光る緑は信号機だった。
信号機から流れるひび割れたメロディに耳を傾けながら、ゆっくりとその頼りない光を目指す。
しかし・・・・・・。
「・・・・・・!?」
何かに、強く腕をつかまれた。
想定していなかった接触に心臓が跳ねる。
振り返っても、何も見えない。
しかも、前に向き直ると青信号が点滅しているのに気づく。
最後の最後まで、執念深く何かは追ってきていた。
「やめ、て! 私は帰るの・・・・・・!」
せっかくここまで来たんだ。
あの子の助けを借りて、ひどいこと言うと・・・・・・私は許された気がしたんだ。
まだ生きてみようって、初めて思ったんだ。
あの子が私を見つけたとき、悲しそうな顔をしていたから。
私の腕を掴んでいた何かは、私の声に怖気づいたように手を離す。
その隙に、私は勢いよく駆け出した。
ずっと見えていなかった、見ないふりをしていたあの子の表情が脳裏によみがえる。
私を「憎んでいない」と言ってくれた優しいあの子の表情が。
不可視の何かは勢いよく私を追い上げる。
なんとしてでも私の切符を手に入れようと、足音だけで迫ってくる。
点滅する緑色。
深くなっていく闇。
崩れていく横断歩道。
信号機が奏でるメロディはさらにとぎれとぎれになっていく。
それでも、一歩でも前にと、今までの人生で一度あったかどうか位に必死になる。
手を伸ばして、前のめりになる。
そうして、ほとんど転ぶようにして・・・・・・私は横断歩道を渡り切った。
その瞬間、信号が赤に変わる。
横断歩道を渡った先で転倒した私に、何かはたどり着かない。
立ち上がって振り向くと、横断歩道の向こう側には小さな影が一つ。
右側にしかない目を光らせてこちらを見ていた。
「そっか、君は・・・・・・」
その姿を一瞥して、前に向き直る。
小さな影を背に、切符を握りしめて前進していった。
◇◇◇
ゴミだらけの部屋に薄明るい朝日が差し込む。
捨てても捨てても、いつの間にか床を埋め尽くしてしまう。
まだ朝早いのか、珍しく静かだった。
まだ寝ている父を起こさないように細心の注意を払って、足の踏み場の無い床をそろりそろりと歩く。
ビールの空き缶をつま先で除けながら、やっとのことで玄関までたどり着く。
そうしてそっと外に出て、階段を下りる。
このときも、他の部屋の人の迷惑にならないように静かに歩いた。
そのまま建物の裏側に回って、そこにある木の板を地面に突き刺しただけの拙い墓標の前にしゃがみこむ。
この下には、幼い頃私が拾ってきた猫が埋まっている。
アパートだから、本当はこういうの良くないんだけど、私に同情してか黙認してくれた。
その前で、何が変わるわけでもないのに手を合わせる。
お互いにお互いを頼るしかなかったから、この子はすごく私に懐いていた。
本当に、愛おしくてたまらなかった。
◇◇◇
夕焼けに沈んだ町。
きっと昔はどこかにあった古びた劇場で、そのスクリーンに小さな墓前で手を合わせる少女の背中が映し出される。
時間のせいか、劇場内はひどく閑散としている。
少女の姿を最後に映像は終わり、映写機が動きを止める。
それを合図にたったの二人・・・・・・いや、一人と一匹の観客も席を離れる。
そうして、黒猫を連れた少女はオレンジ色の安寧の中に溶けるように消えていった。
かげおくりっていうかかげ”おくられ”でしたね(笑)←やかましい