隣の部屋の上松さん
重低音が部屋に響く。
俺は動きを止めて壁を見た。
これで何回目だろう?
先程からひっきりなしに壁ドンされている。
割と良い造りをしているマンションなので、そんなに壁が薄いわけではないはずなのに。
こんなに騒がしかったらロクに仕事に集中出来やしない。
俺は眉間にシワを寄せつつも、再び手を動かして金目の物を自分のカバンへ詰め込んでいった。
事前の調査によるとこの部屋に住んでいるのは独身の男性で、日中はIT企業に勤め、夕方以降は家電量販店などを巡って高級ゲーム機や人気のカードパックを買い占めている、俗に言う転売ヤーのようだ。
居間や寝室には高そうな家具を囲むように、これから発送される予定の商品が所狭しと積み重なっている。
部屋を物色した限りではそのゲームやカードのファンでもなさそうで、取り扱っている品自体には何の思い入れもないようだ。
全く持って気に入らない。
好きでもないのにそのアイテムを買い占めて不当に市場価格を高騰させ、本当にそれが欲しい人間から金を毟り取るような行為に吐き気がする。
こんな金の亡者たちに苦しめられている人々の怒りの声が俺の背中を押してくれるのを感じた。
俺は黒いパーカーとジーンズに目出し帽と手袋といういかにもな犯罪者スタイルで、聞こえもしない声援に励まされながら、次々と戦利品を懐へと仕舞っていった。
この時計、質屋に入れたらどれ位の額になるだろう?
少なくとも、今月はもう他の家に忍び込まなくてもよくなる位には高そうだ。
覆面の下で自然と笑みが溢れる。
すると、またしても隣の部屋からドンッという音が聞こえてきた。
俺は舌打ちをして隣の部屋との隔たりを見つめる。
いい加減にしてほしい。
こんな昼下がりの落ち着いた時間帯に隣の住人は一体何をしているんだ?
我慢の限界を迎えた俺は隣人に一言文句を言ってやろうと、金品を詰め込んだリュックをその場に放置して玄関へと向かった。
ドアを少しだけ開けて誰もいないことを確認してから外廊下に出ると、隣の部屋のインターフォンを押す。
黒い手袋が視界に入って自分が不審者の格好のままである事に気が付き、急いで目出し帽と手袋を剥ぎ取ってジーンズの後ろポケットに押し込むと同時に玄関の扉が開いた。
「……はい。どちら様でしょうか……?」
家賃がアホみたいに高いマンションの最上階ということもあり、どうせ金持ちのボンボンかむさ苦しい投資家でも出てくるのだろうと思っていたが、その予想は裏切られた。
ドアの隙間から顔をのぞかせていたのは若い女の子だった。
パッと見た印象では大学デビューしたてのあどけなさが残る顔つきをしているが、濡羽色の前髪がやや長いボブヘアがどことなく大人っぽい雰囲気も醸し出している。
全体のバランスを考慮して俺と同い年くらいに見えるのだが、一年ほど前まで在籍していた大学の構内はおろか、街を出歩いてみてこんな美人とすれ違った事は一度もなかった。
思わず目の前の女の子に見惚れていると、相手は少し困ったように八の字に眉を下げた。
「あの……何かご用ですか?」
「え? ああ、スイマセン。いや、アレですね。良い天気ですね」
「はぁ……」
まずい。
会話の引き出しが無さすぎて初っ端から天気の話をしてしまった。
これじゃあまるで、女の子とまともに話が出来ない陰キャじゃないか。
俺は咳払いをしながら、なぜ隣の家の呼び鈴を押したのかを思い出す。
たとえ相手がこんな可愛い女の子でも、ビシッと言わなければ。
「あの〜、スイマセン。隣の部屋にいるんですけど、さっきからちょっとドンドン音が聞こえてきまして。いや、迷惑とかでは全然無いんですよ。ただ、ほんの少し静かにしてもらえないかなって相談なんですけど。フハハ……」
自分でも驚くくらいに下手に出てしまった。
ニヒルな表情を作ろうとして半笑いになってしまうあたり、異性に対するコミュニケーション能力が皆無である事が露呈してしまっている。
しかも、今の言い方だとまるで自分が隣の部屋の住人であると言っているみたいだ。
もし隣人同士の付き合いがあったらバレてしまう。
自分の発言を後悔し、いつでも逃げ出せるように構えていたが、当の女の子は口をハッと開いて謝罪してきた。
「すみませんでした。うるさかったですよね? 実は窓から虫が入ってきちゃって……。もうちょっと静かに追い出すようにします」
「あ、そうだったんですね〜。いや〜、そりゃ大変だ。部屋に入ってきた虫って中々出ていきませんよね? 俺もよく雑誌とかで駆除しようとするんですけど、振りかぶった瞬間に家具の隙間に逃げ込んだりして悪戦苦闘してますよ」
俺が隣の部屋の主では無いことはバレなかったみたいだ。
安心した俺は理解力のある男をアピールしようと共感エピソードをひねり出した。
「そうなんですよ。あっちこっち飛び回る上に狙いをつけると私めがけて飛んできたりするから、避けようとしてつい壁にぶつかっちゃって」
謝りながらも俺のことを警戒して顔だけしか見せなかった隣の部屋の住人だが、その話に少し心を開いてくれたのかドアの隙間がほんの少し広くなった。
「そうだ。あの、お隣さんにご迷惑おかけしておきながらこんな事をお願いするのも申し訳ないんですけど、もしよろしければ虫を追い出すのを手伝ってくださいませんか?」
「え? マジっすか? 全然良いで……」
そこまで言葉が出てから、ふと冷静になる。
自分が何のためにここにいるのか考えろ。
空き巣の最中に綺麗な女性に誘われて部屋にお邪魔するなんて、時間のロス以外の何物でもない。
二人っきりになったからといって特にどうこうなるわけがないのだから、さっさと戻って作業を続けなければならない。
たとえ、これからの人生でもう二度と無いチャンスだったとしてもだ。
俺は決意を固めると親指を立てた。
「了解です。虫でも鳥でも野良猫でも、なんでも追い出してやりますよ」
若い女性にしては部屋の中は殺風景だった。
仕事で使っていると思われるパソコン以外にはテーブルや棚など必要最低限の家具しか置かれておらず、デザインもシンプルな物ばかりだ。
物が少なく、比較的整理整頓もされていたであろうリビングは、虫との格闘によってだいぶ様変わりしてしまったようで、ラックは横向きに倒れ、書類等が床に散らばっていた。
女性は部屋中を駆け回って散乱した荷物を整理しようとしているので、俺も足元に落ちているハガキを拾い集めた。
「すみません。突然お願いした上にこんなに散らかっていて。寂しい部屋でしょう?」
「いやいや。そんな事ないですよ。機能美っていうんですか。無駄を省く現代人らしさが出ていてとっても良いと思います」
「フフッ。褒め言葉として受け取っておきますね」
郵便物を受け取りながら、女性は面白そうに笑っている。
部屋をジロジロ観察されて気を悪くしたのではないかと思ったが、どうやら俺の視線には気づかなかったようだ。
一人暮らしの女性の部屋に案内されてちょっと興奮してしまった部分もあるが、職業柄貴重品がどこに保管されているのか探ってしまう癖がついてしまっていた。
盗みに来たのではなく虫を退治しに来ただけだと心のなかで自分に言い聞かせる。
「それで? どこらへんに逃げ込んだんですか?」
俺の質問に女性は居間の隅にあるテレビ台の方を指さした。
ソロリソロリと近づきながら、もらった紙束を丸めて構える。
そして、飛びかかるようにテレビの裏側を確認した。
が、そこには虫どころかホコリ一つ見当たらなかった。
台の下を覗き込んでみるが、少なくともカサカサと動く物体は存在しなかった。
「う〜ん。いないっすね。もしかしたら玄関で話をしている最中に移動したのかも」
「そうですか……。あの、重ね重ね申し訳ないんですけど、しばらくここにいてもらえませんか? お隣さんがいなくなってから出てきたら、ちょっと不安で……」
上目遣いでそんなお願いをされて断れる人間がいるだろうか?
いたらここに連れてきてほしい。
二つ返事でOKすると、女性はホッとした表情になり、お茶を用意するからとそばにあった椅子へ案内してくれた。
俺は促されるまま椅子に腰掛け、キッチンへ向かう女性の後ろ姿を見つめた。
玄関先でやりとりをしている時からなんとなく分かっていたが、女性は長身だった。
横に並んだら俺のほうが背が高いはずだが、長い脚が映えるスラッとしたパンツスーツ姿のおかげで女性の方が背が高く見えた。
しかも、新社会人特有の真新しいスーツに着られているという素振りもなく、バッチリと馴染んでいる。
さっきまでは同年代の女の子に映っていたが、こうしてしっかりとスーツを着こなしていると仕事の出来るキャリアウーマンに見えなくもない。
俺の視線に気がついたのか、ティーポットにお湯を注ぎながらカウンター越しに女性が話しかけてきた。
「部屋の中でもスーツだなんて気になりますか? 普段はもっとラフな服装で在宅ワークをしているんですけど、今日は朝一でリモートの会議があったんですよ。会議が終わった後も着替えるのが面倒だったので、そのままスーツで仕事をしてたんです」
「自宅で仕事だなんて大変っすね。俺だったら誰にも見られてなかったらサボっちゃいそうだなぁ。上松さんってめっちゃ真面目なんですね」
「そんな事ないですよ。私だって人の目がない時は海外ドラマを見ながら作業したりしてますし。あれ? そういえば私、お隣さんに名前を教えてましたっけ?」
「え? アハハ! やだな〜。以前すれ違った時に自己紹介してくれたじゃないですか? 上松聖さん、ですよね?」
先程郵便物を盗み見た時に書いてあった名前を口にする。
女性は小さく頷き、申し訳無さそうに少し俯いた。
「お隣さんはちゃんと覚えてくれていたのに、私の方は忘れてしまってすみません。失礼は承知なのですが、もう一度お名前を教えてもらえますか?」
「いや、全然良いですよ。俺は……山田って言います。ヤマでも山ちゃんでも好きなふうに呼んでください」
「山田さん、ですか。今後ともよろしくおねがいしますね、山田さん」
あだ名を提案してみたものの、堅苦しい名字呼び止まりだった。
まあ、いいさ。
自己紹介もしていないのに女性の名字を呼んでしまうという完全な間違いを犯しておきながら、結果として親密度を上げることが出来たのだから充分だろう。
相手の罪悪感を利用しているのはなんとも心苦しいけれど、短時間で仲良くなるには贅沢も言ってられない。
それに、山田は偽名だし。
俺は会話を途切れさせまいと、彼女の職業を尋ねた。
「在宅ワークってどんな事をしてたんですか? 会議に参加するって事は事務ってわけでもないですよね?」
「大まかな枠組みで言えば、私の仕事も事務作業ですよ。帝国マテリアルズって会社をご存知ですか? 私、あそこの会社の秘書課に在籍してるんです」
その会社なら知っていた。
この近くに本社を置いている、国内の素材メーカーとしては一二を争う大企業だ。
俺も就活中にエントリーをしてみた事はあったが最初の書類面接で落とされた記憶がある。
そんな大手に勤めているなんて、よっぽど優秀なのだろう。
「そんな事ないですよ。たまたま運が良かっただけです。それに、欠員が出たからって新卒なのに秘書課に配属させられて、毎日役員の人たちや上司に怒られてます」
「新卒ってことは一年前まで大学生? うわ、やっぱり同い年じゃん。すげぇな〜。こんなバリバリに働いている人もいれば、俺みたいにフラフラしてるヤツもいるんだもんな」
「そういえば、山田さんはどんなお仕事をされていらっしゃるんですか? 見た所、今日はお休みのようですが……」
上松がカップを手にしてキッチンからこちらにやってきながら質問をぶつけてきた。
確かに、こんな格好で日中から家にいたら仕事をしているなんて思わない。
実は就活失敗して空き巣をしながら生活してるんですアッハッハ、なんてバカ正直に言うわけにもいかない。
俺は数ヶ月前に家に忍び込んだベンチャー企業の社長の経歴を拝借することにした。
「ウチは電子部品用の樹脂を作ってるんですよ。出来たばかりの小さい会社ですけどね。パソコンやら電気自動車やら色んな所で電子部品って使われてるじゃないですか? でも、今一般に流通している電子部品って放熱性能がネックになっていて、パフォーマンスの低下や冷却装置による消費電力の増加など複数の問題を引き起こしているんですよね。そこで、熱伝導率の高い樹脂を作って電子部品の材料にしちゃおうって考えたわけです。試作品を色んなメーカーに試してもらっているところですけど、上手く商品化できれば一つの技術的特異点を超えた事になりますね」
物色中に見つけたパンフレットに書かれていた言葉をテキトウに組み合わせて、それっぽい事を言ってみた。
上松はあまり理解出来ていない様子で、曖昧に微笑みながら俺の目の前に紅茶の入った器を手袋をした手でそっと置いた。
「ゴメン。ちょっと早口で喋りすぎちゃったかな? ま、簡単にいうとベンチャー企業のCEOってとこかな。昨晩取引先と遅い時間まで飲んで二日酔いだったから、家から部下に指示出しをしつつ休んでたんだよね」
「そうだったんですね。そんな事も知らずうるさくしてしまってすみませんでした。それでしたらお忙しいんじゃないですか? こんなところでゆっくりお茶してる暇なんてないんじゃ……」
「いやいやいや。全然全然。大丈夫。アレよ、アレ。部下の教育。俺があれこれ言い過ぎると、ただの指示待ち人間になっちゃうから。ちゃんと自分で考えて行動出来るように仕向けないと」
「そうでしたか。その若さで起業した上に、社内教育までしっかり施すなんてすごくご立派ですね。でも、もし本当にお忙しかったら、私なんか気にせずにすぐ戻られても良いですからね?」
嫌味も言わずに褒め称えて、こちらに気遣いまでしてくれるなんて。
目の前に座っている彼女の頭上に天使の輪が見えてきた。
というか、なんだか怖くなってきた。
もしかして、美人局とかなんじゃなかろうか?
「どうしました? 私の顔に何か付いてますか?」
「いや、単純に見惚れてただけで……。上松さんって彼氏とかいる?」
うっかり初対面の異性に対しては大間違いな質問をしてしまった。
がっつき過ぎてドン引きされてもおかしくない。
しかし、彼女はお茶を勧めながらため息混じりに答えた。
「残念ながら良いお相手と出会えていないんです。目を惹かれる人はいないわけではないんですが、皆さん既にパートナーがいらっしゃって」
「え〜、上松さんから好意を寄せられてるって知ったら、どんなヤツでもコロッと心変わりすると思うけどなぁ。試しにアタックしてみたら? 全員一瞬で乗り換えようとするはずだけど? あ、一般的な話ね。俺は一途だからそんな最低な事しないけど」
「そんな……。私なんて相手にされませんよ。会社でも仕事以外の話は誰とも出来ませんし」
「ウソウソ。こんな美人をほっとくヤツなんていないから。上松さんって、アレっすよね。なんとかっていうアイドルグループのセンターの娘と最近よくドラマに出てるなんとかっていう若手女優。その二人を足して二倍にした感じ、みたいな」
「そこは二で割るところじゃないんですか? それに、冗談にしても褒めすぎですよ? お二人のファンが聞いたら怒られちゃいます。私の事をそんなに持て囃したって何も出せませんからね?」
そう謙遜しつつも、上松は嬉しそうに笑っていた。
だいぶ感触が良い。
大学時代に必死過ぎてウザいと女子から言われていた俺にもついに春がやってきたかもしれない。
ここは一気に畳み掛けようと前のめりになりながら口を開いたが、突如として鳴り響いた騒音に邪魔された。
「なんだよ? 良いところだったのに……」
不満が口をついて出る。
音はこのリビングの向こうにある廊下の方から聞こえてきた。
なんだか聞き覚えのある、重苦しい響くような音だった。
隣の部屋で俺を悩ませていた音によく似ていたが、虫と格闘していた上松がここにいるのにどうして家の中からそんな音がするのだろう?
「寝室にあるハンガーラックが倒れちゃったのかもしれません。ちょっと見てきますね? 山田さんはどうぞゆっくりしていてください」
上松が急いで席を立ち、慌てた様子でリビングから出ていった。
俺はその姿を目で追いながら紅茶に口をつける。
思ったよりもおっちょこちょいな性格なのかも知れない。
一流企業に勤めているという事は恐らく勉強も出来るはずだが、高学歴特有の周囲を見下すような鼻持ちならない言動などは全く見受けられない。
少し抜けているところがむしろ等身大の人間っぽさを感じさせ、より彼女の魅力を引き出しているように思えた。
なんとかしてもっと親密になれないだろうか?
隣の部屋の転売ヤーとは生活リズムが違うみたいなので俺のことを隣人だと勘違いしてくれているが、逆に言えばこれ以上仲良くなると俺の嘘がバレてしまう可能性が高くなる。
どこかのタイミングで本当はこのマンションの人間ではないと正直に言うべきだろうか?
ただ、そうなるとどうして隣の部屋にいて、苦情を言いに来たのか理由を考えないといけない。
個人経営の清掃業者や修理屋だったらこの格好でも怪しまれないだろうか?
いや、隣の部屋の住人の知り合いって事にしてしまった方が無難か?
そんな事を考えながら職業病のように部屋を見回していると、キッチンにある冷蔵庫の上に何かが乗っかっているのに気がついた。
一体なんだろう?
立ち上がって近づいてみる。
背伸びすればギリギリ手が届きそうだ。
指先に当たる感覚を頼りに引っ張り出してみると、頭上に平べったい四角の物体が降り注いだ。
咄嗟に身を引いて抱え込むようにソレをキャッチする。
アタッシュケースだった。
ドラマとか映画でよく見る、身代金が詰められたアレだ。
もし紙幣でぎっしりだったら結構なダメージを負っていただろうが、中に何も入っていないかのように軽かった。
試しに両手で持って揺すってみると何かが動いている音が聞こえるので全くの空という訳ではないらしい。
持ち手の部分にはダイヤル式のロックが施されており、『0819』という数字が並んでいた。
「このまま開いたりは……まぁ、しないよな。さて、暗証番号はと……」
「何をしてらっしゃるんですか?」
背後から急に声をかけられ心臓が飛び出るかと思った。
アタッシュケースを抱えながら振り返ると、寝室から戻ってきた上松がこちらを凝視していた。
つい空き巣をしている感覚に陥ってしまい、人の家にお邪魔している事を忘れてしまっていた。
俺は変に言い訳せずに勝手に中を開けようとした事を正直に謝った。
「ゴメン! 冷蔵庫の上に隠すように置いてあったからつい気になっちゃって……。中を見たかっただけなんだ。まじでゴメンッ!」
アタッシュケースを差し出しながら頭を下げる。
もし通帳でも入っていたら黙ってポケットにしまおうと思っていたが、そこまでバカ真面目に伝える必要はないだろう。
顔を少し傾けて彼女の顔を盗み見る。
上松はアタッシュケースを預かりながら、何か考えているかのように眉間にシワを寄せてブツブツと小声で呟いている。
「冷蔵庫の上にあったのか……。ちょうど私の視界から見えない位置にあったなんて……。道理で探しても見つからないわけね……」
「あの〜、上松さん? 大丈夫っすか?」
「え? あぁ、すみません。実はこの荷物を探していたんですよ。以前にここで飲み会をした際に酔っ払った同僚がどこかに隠してしまって。見つけてくれてありがとうございました」
不信感を抱かれるかと思ったが逆に感謝された。
俺ははにかみながら頭を掻いた。
「そうだったんだ。いや〜、役に立ったみたいで良かったよ」
「ところで、鍵がかかっていますけれどこちらは最初からそうでしたか? 山田さんがいじった訳ではありませんよね?」
「そうだけど……。あれ? 上松さんも暗証番号知らないの?」
「はい。この荷物は厳重に保管しておくように命じられた会社の物なんです。だから私も正しい番号を知らないんですよ。ただ、困りましたね。実は午前中の会議で中に入っている資料の内容をできるだけ早めに報告するようにとの指示が出ているんです。やっと見つけることが出来たのに、カバンを開けることが出来る社員はちょうど有給休暇を取っているみたいで連絡がつきませんし。どうしましょう?」
上松が困ったようにため息をついた。
そんなの休んでいるその役員に確かめるしかないと思うのだが、どうやら社会人としての経験がない自分には分からないルールや忖度があるみたいだ。
彼女が手にしたアタッシュケースを改めて観察する。
右端のダイヤル部だけ若干メッキが剥げている。
「仕方がありませんね。今から会社に持っていって暗証番号を把握している人間がいないか尋ねてみる事にします。虫退治をお願いしておきながら申し訳ありませんが、家を出ますので今日の所はお引取りを……」
「それって会社の物らしいけど、頻繁に使われる物なの?」
上松の言葉を遮るように、俺はアタッシュケースを指差しながら質問した。
彼女は記憶を掘り起こそうとするかのように宙を見ながら、ゆっくりと言葉を絞り出す。
「そうですねぇ……。どれ位の頻度で用いられているかは不明ですけど、重要書類を社外に持ち出す際はこのカバンを使用する決まりになっているはずです」
「ってことは何度も使い回されているってことだな。管理している人間は?」
「総務……だと思いますけど正直分かりません。壊れていないのでメンテナンスは誰かがしているはずです。普段は会社の備品置き場に保管されていて、必要な人間がそこから持ち出して使っています」
「不特定多数の人間が使えるようになっているってことね。なるほどな〜」
俺は最後の言葉だけ少しボリュームとテンションをあげて、目の前の女性の反応を待った。
上松は俺の思惑通り、目を大きく開きながら問いかけてきた。
「どうしたんですか? やけに声色が明るいですが?」
獲物が食いついて心のなかでガッツポーズをしながら、俺は余裕の表情を浮かべて答えた。
「もし良かったら、俺がそれを開けてあげようか?」
「まず最初に、ダイヤル式のロックは正しい数字が横一列に並ばないと解除する事は出来ない。これはOKだよな?」
対面で椅子に座りながら、間にあるテーブルの上に置かれたアタッシュケースを小突く。
上松は授業中に教師にあてられた学生のように居住まいを正して頷いた。
「はい。このカバンに取り付けられているダイヤルは四つあります。数字は0から9までの十個ですから、一万通りの配列の中からたった一つの正しい番号を選択する必要があるわけです。総当りで試していけばいつかは開けることが出来るはずですけど、単調な作業を何時間も続けることになると考えたらできればやりたくはないですね」
「百点満点の答えをどうも。でも、安心して。総当りなんて面倒なことをしなくても暗証番号を導き出すことは出来るから」
疑うような目つきで見てくる上松に対し、俺はクールに微笑んで見せる。
「さっき上松さんが教えてくれた通り、こいつは社内の複数の人間が何度も繰り返し使用している。頻度は不明だけど、それだけ大勢に使われるとなると一つの問題が発生する。何か分かるかな?」
優等生の上松は少し考えてから、自信がないのか恐る恐る答えを口にする。
「暗証番号をどうやって管理するか……ですか?」
「ご明答。例えば、使用される度に毎回番号を変更するとしたら、貸し出すタイミングでその都度番号を伝えなくちゃならない。でも、上松さんの言い方からすると誰かが口頭で伝えている様子はないんだろう?」
テーブルの向こうに座っている彼女は目的のブツを舐めるように観察している俺へ小さく頷いた。
口頭でないとしたら番号が記載された紙が付属しているという可能性もあるが、第三者の手に渡ってしまう危険性を考慮したらそんな杜撰な管理はしないだろう。
毎回ではなく一定期間で変更するとしても同様の問題は常につきまとってしまう。
「伝達しなくてもルールさえ知っていれば解除出来る番号ならどうですか? 四桁の数字でしたら西暦や月日を割り当てることが出来ると思いますが?」
「確かにある一定の規則に則った数字なら、申請書にそのルールを書いておけば個別に通知する必要はない。だけど、規則性のあるパスワードは管理しやすい反面、誰にでも解けてしまう危険性がある。重要書類のやり取りに使われるのに、そんなガバガバなセキュリティを許すか?」
俺の指摘に上松は納得半分、疑問半分といった様子で首をひねっている。
俺は気にせずダイヤルを弄りながら話を続ける。
「逐一暗証番号を変えるのは現実的じゃない。でも、だからといって適当に番号を設定すれば使用する人間が覚えるのが大変だし、かといって分かりやすくしてしまうと外部の人間にも解除出来てしまう。それじゃあどうすればいいか? 答えは簡単。社員にしか分からない暗証番号にしてしまえば良い。こんな風にね」
ガチャッという音と共に気取った言い方をした俺は、アタッシュケースを半開きのまま回転させた。
相手に開閉部が向くように止めて視線を上げると、驚いて目を丸くしている上松がいた。
「本当に開いている……。すごいです! でも、一体どうやって暗証番号を解読したんですか? もしかして何か裏技でも?」
南京錠の形をしたダイヤルロックだったら音や感触で番号を割り出しているテクニックはあるし、実際に俺も空き巣業でも役立てている。
だが、このアタッシュケースの場合は鍵の部分と留め具が独立しているためにその手は使えない。
「ズルをしたみたいな言い方はひどいなぁ。正々堂々、真正面から推理して正解の番号を導き出したんだぜ?」
「そう言えば、番号は……『0814』? これが暗証番号ということですか? 推理によって割り出した数字ということは何か意味があるんですよね? 一体どんな意味が込められているんですか?」
上松が尊敬の眼差しで俺を見つめてくる。
俺はたっぷりと相手を焦らしながら、種明かしを始めた。
「さっきも言った通り、簡単に分かる暗証番号じゃ誰でもカバンを開けることが出来てしまうから、社員だけがピンとくる設定にしてやる必要があるんだ。『0814』という数字を見て何か気づくことはないか?」
彼女は低くうなりながら考えていたが、お手上げと言わんばかりに首を大きく横に振った。
「西暦で考えたら平安時代だけど特に有名な出来事もないし、そもそも会社との関係性が見えてこない。日付だとしても八月十四日はまだだいぶ先だ。他に四つの数字が使われているモノは? 電話番号の下四桁なんかもあるけど、所属部署によって番号は違うだろうし、代表の電話番号なんて記憶している社員の方が少ないだろ?」
それ以外だと、例えば郵便番号や住所の番地、社員の数などが挙げられるが、どれも大勢の人間が使用するという条件にしっくり来ず、そもそもそれだけ沢山の可能性がある時点で暗証番号の共有方法としては扱い辛い。
「となると、考えられるのが数字自体には意味がなくて、数字の並びに意味がある可能性。つまり、語呂合わせだ。語呂合わせだったら記憶にも残りやすいし、知らない人間からしたら意味不明の数列にしか映らない」
「でも、『0814』で上手い語呂合わせはありますか? 特に意味のない単語にしかなりませんけど……」
「素直に読み過ぎたらそうなるかもね。だけど、ちょっと捻れば上松さんの勤めてる会社らしい語呂合わせが浮かんでくるよ。ヒントは二つ。『0』は零ではなくて丸として見る。『4』はネット上ではアルファベットのAの代わりに用いられる事がある」
「『0』が丸で、『4』がAですか? それだと、マルハチイチエーになりますが……。いえ、山田さんは丸として見ると言っただけで、マルと読むとは言っていませんね? つまり、読みはマルではないはず……。マル以外だとエンでしょうか? そうすると、Aもエーではなく母音のアとするのが正しい? エンハチイチア? あっ……もしかして、エンパイアですか?」
上松の問いかけに俺は力強く頷いた。
納得してくれるだろうか?
相手に悟られぬように自信に満ちた表情を取り繕うが、心臓はバクバクだ。
実際は推理で暗証番号を解いた訳じゃない。
ダイヤル式ロックで割とありがちなのが、セキュリティの為に横に並んでいるダイヤル全てを変えるのを面倒くさがって、端っこの一つだけを正しい数字から変えるておくという現象だ。
目の前にあるアタッシュケースを観察した時、右端のダイヤルだけメッキが少し剥がれていたのを見つけて、このカバンも普段から数字を一つだけ変えてロックされているのだと気づいたのだ。
後はそれっぽい事を言いながら四つ目のダイヤルを順番に回していって、鍵が開いた瞬間に格好つけただけだ。
今さっき話した内容も強引にこじつけただけの口からでまかせに過ぎない。
帝国マテリアルズでエンパイアは我ながら良い閃きだと思うけれど、流石に丸とAはこじつけが過ぎただろうか?
これ以上追及されたらボロが出てしまう。
頼むから今ので誤解してくれ。
祈るように相手を見つめるが、上松は険しい表情のままだ。
駄目だったか?
そう思った瞬間、彼女はニコッと微笑んだ。
「びっくりしました。こんな難しい謎を解いてしまうなんて。ベンチャー企業のトップなだけあって頭も良いんですね。私、ちょっと感動しちゃいました」
「え? いや、まあね〜。俺にとってはこんな謎解き、簡単過ぎて朝飯どころか前の日の晩飯前くらいだったけどね」
「フフ。相変わらず面白い表現ですね。頭も良くてユーモアまであるなんてとっても素敵です。こんな方と恋人になれたら楽しいだろうなぁ」
キタキタキタ。
ついに来た。
このビッグウェーブ、逃すわけにはいかない。
俺は両手をテーブルについて身を乗り出すと、彼女に自身の想いを伝えようとした。
「あ、あの、上松さん? いや、聖ちゃんッ! もし良かったら何だけど、俺と付き合わ……」
「あ。すみません。ちょっと会社から連絡が来たみたいで。多分、カバンに入っていた書類の事だと思います。一応社外秘の内容なので、私一旦外で応対してきますね? 山田さんはどうぞゆっくりしていてください」
止める暇もなく、上松がアタッシュケースから取り出したファイルを手にリビングから出ていってしまった。
あまりの素早さに俺はタイミングを見誤ったのだと理解した。
焦りすぎたか。
完全に告白する流れだと思ったのに。
いや、諦めるにはまだ早い。
流れは来ているはずだ。
ここからゆっくりと外堀を埋めていこう。
隣の部屋の住人が帰ってくるまでにはまだ時間はある。
上松が戻ってきたらどう話しかけようか、脳内シミュレーションを始めようとしたのだが、またしても騒音が聞こえてきて遮られた。
さっきと同じ、壁を殴っているような音だ。
またハンガーラックでも倒れたのだろうか?
もしくは電話をしながら壁にでもぶつかったのかも。
しかし、その音は一度で止まず、ドンドンと繰り返し鳴り響いた。
流石におかしい。
俺は立ち上がってリビングから出ると、廊下に幾つか並んでいる扉を眺めた。
そのうちの一つが音に合わせて振動している。
どうやらあの扉の向こうが音の発生源のようだ。
なるべくゆっくり近づき、ドアノブへと手を伸ばしたが、途中で動きを止める。
このまま開けて良いのだろうか?
勝手に部屋に入るなんてあまりにもプライバシーを無視した行為だ。
せっかく好感度が上がってきているのに、一気にマイナスまで落ちてしまう可能性も充分にある。
固まったまま逡巡するが、ドアの向こうから音が聞こえてきてしまい、好奇心に勝てずそのまま手を伸ばしてドアノブを回した。
扉の向こうの寝室は電気がついておらず薄暗いものの、廊下から差し込む光で中に何があるか位は識別することが出来た。
シングルサイズのベッドにタンスとラック、そしてロープで拘束されて床に倒れている男性だ。
男性と目が合い、お互いに状況が飲み込めずに固まる。
しかし、いち早く冷静になって壁際で再び暴れ始めたその男性の姿を見て、俺もハッと意識を取り戻し急いで彼のそばへと駆け寄る。
猿轡代わりに口に巻かれた布を解いてあげると、男性が俺を睨むように見つめながら大声で話しかけてきた。
「あんた、一体誰だ? あの女の仲間か?」
「おいおい。人に名前を尋ねる時はまず自分からって小学校で習わなかったのか? あんたこそ誰だよ? なんで上松さんの寝室でそんなぐるぐる巻きにされてるんだ? もしかして、そういう性癖の彼氏か?」
「上松さん? 彼氏? 何を言ってるんだ? この家の家主は俺だぞ! 俺が上松だ!」
男性の言葉が理解出来ず、俺は頭がフリーズする。
そんな俺を気にすること無く、上松聖は声を張り上げる。
「この際あんたが何者でも関係ない! あのスパイ女を捕まえてくれ! ウチが、帝国マテリアルズがベンチャー企業と共同開発している新素材の資料を奪いに来たんだ! 早く! 冷蔵庫の上に隠してあるカバンが持ち出される前に!」
頭を何度も殴られたような感覚に陥る。
俺は喘ぐように息をしながら、彼女が既にアタッシュケースの中身を手に入れた事を告げた。
上松はショックを受けて目を丸くしている。
「そんな! どうやってカバンを開けたんだ? 無理やりこじ開けられたのか?」
「あー、いや? 普通に暗証番号を合わせてたけど?」
「くそ! なんてことだ! ウチの会社の事を事前に調べていたのか! だから数字を創立記念日にすべきじゃないって何度も言ったんだ! いつかこんな事になるだろうと思ってたよ!」
八月十四日は創立記念日だったらしい。
なるほど。
俺の変な語呂合わせよりよっぽど納得がいった。
「ちょっと待て。あんた、あの女と一緒にいたのか? ていうか、結局あんた何者だ?」
「俺? 俺は隣の部屋の山田だけど?」
「隣の部屋に住んでる佐藤さんはもっとちゃんとした身なりの人間だったはずだぞ?」
「あー、うん。その親戚、みたいな?」
どうやら本物の上松はしっかりと近所付き合いをしていたようだ。
このまま会話を続けていると、俺が空き巣だと言うことがバレてしまいそうだ。
顔をハッキリと見られる前にさっさとこの場から逃げ出すことにしよう。
「えーと、とりあえず、部屋に戻ってスマホから警察呼んでくるから。また後で」
「待ってくれ! その前に拘束を解いてくれ! おいッ! ちょっとッ!!」
必死の懇願に後ろ髪を引かれる思いで、俺は寝室を後にした。
玄関へと足を向けようと思ったが、リビングに手で触ったカップが置きっぱなしになっている事に気がついた。
急いでリビングまで戻って自分が口をつけたカップを手に取ると、流しへ持っていき中身を捨てた。
あの女性の分も処理してあげようとか思ったが、そういえば彼女はずっと手袋をしていた事を思い出した。
今になって思えば室内で手袋をしているなんて違和感しかないが、あの時は若干の興奮状態だったので特に気にもとめなかった。
カップをジーンズのポケットに無理やり詰め込み、アタッシュケースを服の裾で拭き取ると、俺は扉の向こうの寝室から聞こえてくる叫びを無視して駆け足で廊下を横切り、そのまま玄関の扉を閉じた。
一息ついて腕時計を見ると、上松家に上がってから小一時間ほど経過していた。
結果としてだいぶ時間をロスしてしまったけれど、これでようやく自分の仕事に戻れる。
それに、全て嘘ではあったけれど、あの女性との会話が楽しかったのは確かだ。
今日はなんだか幸せな気分で一日を終えられそうだ。
明るいテンションで俺は隣の家の玄関を開けた。
上松の叫ぶ声が壁を通して聞こえてきた。
お読み頂きありがとうございました
今回は公式企画である春の推理2023に沿った話を書いてみました
隣人というテーマに対して天邪鬼を発揮してしまいましたが、その分面白い展開に出来たのではないかと思います
この話を書いている途中にもう一つアイディアが浮かんだので、時間に余裕があればそちらも投稿できれば良いかなと思っています
期待はしないでね