ー和彩美の想いは “冷めても美味しい” ー
和彩美の想いに触れたい。
第九話
―和彩美の想いは“冷めても美味しい”―
肇は、文子が大学を卒業してから、同棲をはじめたことは知っていた。これまで多少愚痴っぽい話は聞かされてはいたが、よくある話だと思い気に留めていなかった。しかしながら、今日の様子から察すると、皆は、勝彦との同棲生活での苦悩を危惧しているようだった。いちゃついている純子と優史に構っている場合ではなかったのだ。
文子と勝彦にとって、この四年間という同棲生活がどんな過程を辿ってきたのか、それを先ず文子から感じ取りたかった。でも、この飲み会で彼女とその話をするわけにはいかない。そう思いながらも、肇は軽く触れてみることにした。
「彼とは上手くいってるの?」
「ええ、上手くやってますよぉ……」文子は小声でそう言った。
これは裏腹な返事。文子も相談に乗ってもらうためには早めにこの場を切り上げたいと思っているように感じた。彼女は、視線を優史たちの方へ向けている。
「最近ね、覚えたんですよ、先生。赤ワインを以前は冷蔵庫で冷やしてから飲んでいたんですけど、常温で飲むようになったんです」
「あっそう、一人でか?」
肇は気無しに言ってしまった。が、文子は気にしていないようだった。彼女の様子から推察すれば、どう考えても一人で飲んでいるシチュエーション。間違いなくそうなのだろう。
文子は、ビールを飲もうとグラスを唇に近づけた。が、テーブルに置いてしまった。目線は手許を見つめている……。その姿は、軽い皮肉も通じないように思えた。
「でも、やっぱり一人より二人のほうがいいですよね、先生」
肇は返事のしようがなかった。同棲している彼との日々行われている綾取りが、いつからスムースに行かなくなったのかを確認する必要があったからだ。
阿吽の呼吸で、和彩美がすぅーと顔を覗かせた。
「もしもし、肇さん、この串揚ね、とても美味しいですよ。食べてみてくださいな。プチトマトの串揚げなんて食べたことありますか?」
先生ではなく〝肇さん〟と呼んでいるのは、まだタイムスリップした効果が切れていないからだろう。肇は、和彩美との会話に付き合わされた。
豪華客船に華やかさを与えている黄色と赤色のプチトマトが一つずつ刺さっている串を、熱くはなさそうなのに、和彩美はふぅふぅしてから肇に差し出した。
肇は、お腹がいっぱいだったけれど、ふぅふぅまでしてくれた串を突き返すわけにはいかない。そんなことしたら、和彩美さんは大泣きしてしまう。肇は、(よっしゃ、食べるぞ!)と和彩美の指を介し受け取った。黄色のプチトマトを歯で外し、口の中へ転がす。薄い衣をカリッと歯で割って、ゆっくりと潰していった。甘酸っぱい汁が口の中に広がった。
「おお、和彩美さんがふぅふぅしてくれたお陰で口の中が火傷せずにすみました。でも、ちゃんと揚げ立てを感じさせるだけの熱さは残ってましたよ。甘酸っぱくて、えーと……なんか美味しかったですぅ」
ついさっき、肇は、和彩美より年下の男の子へと変貌を遂げた。然もなくば、彼女が別世界へと引っぱっていってくれたのだ。このやり取りに関しては、なんとも言えぬ心地良さを感じた。串に赤色のプチトマトを残して取り皿においた。気恥ずかしい面持ちでいる所為か、辺りの会話が聞こえてこなくなった。だが、その所為ではなかった。皆が話を中断しこっちを盗み見していたのだ。
「そうですか、それはよかったです」そう言うと、和彩美はホッとし笑顔になった。
肇は、その笑顔も快く感じた。
今度は「肇さん、こちらの串も美味しゅうございますが?」と、向こうから声が掛かった。和泉だ。ニコニコして串を一本持ち、腰を浮かし渡そうとしている。
和泉が珍しく悪ふざけを考えたようだ。肇は、それがなんの串揚げなのかがすぐに判った。
「カツか? おい、和泉っ、俺にカツを食わせる気か? 嫌いなものを喰わせるなんて、勇気があるやんけ、うん? 思い出したぞ、前回だったよな、沖縄料理の店で飲み会やったの。その時、『先生、これ、知りません? 沖縄でよく食べられてるものなんですよ。イカの耳なんですけど、コリコリして美味しいから食べてみて』そう言って、小鉢を差し出したの覚えてるかね? おい、そこの優史君よ。アレ、量的に結構あったよな。そのイカの耳、全部喰っちゃったけどさ。優史が成功したからって、(俺も騙せるかも……)なんて考えるなっ、和泉!」
優史が和泉と目を合わせている。
「そんなことありましたっけ?」
あれはバレてない、と思っていた優史は惚けるしかなかったようだ。
「あの時、喰ってみると確かにコリコリしてて、旨いなと思ったよ。いつの間にか平らげてたっけ」
和泉は含み笑いをし、優史は純子と笑っている。
「もしかして、あれってミミガーってんじゃないか、あん?」と肇が優史に尋ねた。
――実は、沖縄料理を皆で食べた二週間後に、肇は同じ塾講師だった沖縄出身の伊波といっしょに飲んだことがある。連れて行かれた店が沖縄料理店で、知り合いがやっていると言っていた。
ずらっと壁に貼り付けてある短冊メニュー。肇は何とはなしに目をやった。みると「ミミガー 四百五十円」と書かれてある。伊波に「ミミガーってなんだっけ?」と訊いたら、彼は「ミミガーを知らないのか? 旨いよ。食ってみたら? チラガーもどうだ?」と正体を明かさずに注文した。彼は食って当ててみろ、と言う。豚肉がダメなのは彼も知っていた。肇が食べようとした時、伊波が止めた。
肇は、沖縄に行っても沖縄料理を食べたことがなかった。ソーキそばさえ口にしたことはなかったのだ。
その時のことが肇の脳裏に浮かんできてしまったのだ。
「ミミガーですかあ、マジンガーなら聞いたことありますけど」
優史は、話を面白くしようとしていた。
時計を見ると、七時になろうとしている。肇は時間を気にした。この後、場所を変えて文子から聞かされるだろう優史を真ん中に据えたさよりと純子の関係。それにこれまでの個人的なさよりの経緯を聞き出した後で、漸く文子の同棲生活の悩み事を聞くことになる。どれも話は込み入ってそうに思えた。すべてを聞き出し、彼女の悩みを少しでも和らげるためには、早くこの場から抜け出して、じっくりと話を聞ける場所へ移動しなければならない。気が焦る……。(優史君、ミミガーは豚の耳だろうがよ!)なんてことを問い質している時間はなかった。
肇は、この話に終止符を打った。
「優史君、マジンガーの最後に付くアルファベットだけど、豚の尻尾に見えてきたよ。ハハ、テールガーには気を付けないとな。危ない危ない……」
ここは、本来全員で笑うところだけれど、肇の目だけは笑っていなかった。
「ちょっと早いけど、年寄りは退散するかな」
「そうですね、今日は早めに帰った方がいいと思います」
和泉が後押しをしてくれている。
「元気そうな皆の顔がみれてよかったよ。でも、先はまだ長いぞ。社会人として生きて行くということは、公私共に行動しただけの責任を背負わされるということでもある。年齢を重ねる毎にそれは重くなって行くんだ。今度会う時、湿気った面ぶら下げて来んなよ、皆っ」
肇は、今日、思わぬ展開に虚を衝かれたけれど、教え子たちと会えたことがとても嬉しかった。
「先生、次回も来てくださいね。会える日を楽しみにしてますから。今度はなにして先生と遊ぼうかな。先生って、いつも楽しそう。今後も俺たちが人生の難問にぶつかった時は、鮮度の良いアドバイス、宜しくお願いしますね」
模試の数学の成績はいつも上位にランクされていた優史。人生の難問にぶつかる? 彼の場合、自分で解けるだろうと思った。自分を必要としない教え子には、存外冷たい態度を取ってしまうのだが、思わず「オッケー」と返事をしてしまった。
肇の予想通り、その後に文子が「みんな、ごめんね、私、明日も仕事なの。今月土曜日も出勤なんだあ。また連絡するね。みんなと会えてよかった、元気もらったよ……。ありがとう」と追っかけて来た。
文子は、今日どうしても相談にのってもらいたいのだろう。切り上げるには良いタイミングだった。
誰も引き止めるものはいなかった。そりゃそうだ、彼らにしてみれば、途中で修正しながらの打ち合わせ通り、といったところだろうから。
文子と肇が立ち上がろうとした時、
「先生、残していったら可哀相です。食べてってくださいな……」
和彩美は、取り皿に残されているプチトマトの串を見つめていた。ぽつんと、赤色のプチトマトが一つ、串の元に刺さっている。
「ああ、そうだったね。残したらダメだった」
肇は、衣を壊さないようにそれを軽めに歯でつかみ、串の先に引き上げると舌の上へ転がした。先に胃袋の底へ着地している黄色いプチトマトとご対面させないといけない。その様子を見ていた和彩美は、満足そうな笑みを浮かべている。文子が和彩美に向けている眼差しが気になった。
「うーん、和彩美さん、特にこのプチトマトは冷めても美味しいやね」
肇は、その言葉を忘れずに付け加えた。
最後にビールも飲み干すと、二人は同時に立ち上がった。揃えてある靴を履いた。さよりが出入り口のところで待っていてくれた。
肇は、こっちを窺っている板前に「美味しかったです。また来ますね。ごちそうさま」と声を掛けた。
板前はカウンター越しから「ありがとうございましたあー」と親しみのある笑顔で挨拶してきた。その時、(ああ、やっぱりな!)と思い、さよりの方に目をやった。彼女の瞳から(私、今とても幸せなんです!)そんな刺激的な言葉が返ってきた。
さよりは扉を開け、「今度は、一人で食べに来てくださいね、先生。雨、降ってるのかなあ……」そう言うと、既に持っている二本の傘を肇に差し出した。
「ありがとう。でも、外に出てみて降ってたら借りることにするよ」
二人は、さよりからレインコートを受け取った。
―ポケットの中で雨宿り―
肇は、出歩くときは極力手にモノを持たないようにしている。荷物がある場合には背負うタイプのバックにしていた。置き忘れ防止のためだ。今日の場合、家を出る時は雨が止んでいたし、降ったとしてもぱらつく程度ではないかと判断し、傘は持って出なかった。しかし、手ぶらではない。まだ読み終えていない文芸雑誌を電車の中で読もうと、それだけを持って出てきた。
文子といえば、つまめるくらいのバッグを肩から下げているだけだった。女性というのは、髪を濡らすのを嫌うから、降りそうな時は折畳式の傘をバッグに入れておくものではないのだろうか。どう考えても入りそうになかった。
二人は、地下一階の踊り場から階段を上がり路上へ出ようとしている。ふと見ると、背丈の位置から見える数段の踏面に靴底の跡がキラキラと光っていた。その濡れ具合を見て、肇は、雨が降っているにしても大したことはないと思った。取り敢えず、外へ出ようと先に階段を上っていった。
「なんとも言えないなあ……」
これが小糠雨なのだろう。耳を澄ましても、静止した空気に乗っかっては跳ね返されながら落ちる雨粒。その音は聞こえてこなかった。これなら傘はいらないか、雨脚が強くなることはないだろう。でも、万が一があるし、文子が一緒だということも考えれば、やっぱり傘を借りておいたほうがよさそうだ。
「借りるか、ブンちゃん」
のっけから、店の軒先で雨宿り状態の二人。
「私が判断してもいいですか?」
判断するって? そんな大層なことでもないだろうと思いながらも「どうするの?」と訊くと、「先生、本持ってますよね。傘の代わりに私の頭にそれを翳してくれませんか?」文子は、向かいの建物から目を離さずにそう言った。
「別にいいけど、じゃあ、そうするかぁ」
肇は本より傘のほうが濡れないんじゃないの? と思いつつも、そうして欲しいとせがまれたような気がした。
肇は、この近くで落ち着いて話ができる店はないものかと、駅の方へ目を向ける。できるだけ駅に近いほうがいいと思ったのだ。
「駅の方にはなさそうだねえ……」
文子からは何の反応もなかった。彼女が見ている真向かいのビルへ目をやった。そこには、煌びやかなソーシャルビルのエレベーターの前で、雇われ社長風の男二人が待っていた。彼らは何階にいくのだろうと、デカい郵便受けのような一階の袖看板から目線がトントントントンと駆け登っていった。それはティシュペーパーの箱ぐらいの大きさになった。最上階に書かれていたのは【8F 照子】、このビルは8階建てなんだ、肇は無意識に確認してしまった。
「駅から離れるけど、向こうの方ならありそうだね。取り敢えず行ってみよう」駅とは逆方向に指を差した。
文子の頭上に本を翳す用意は出来ていた。肇は左手に持つ本の位置を確かめて「じゃあ、行こうか」と声を掛けた。が、文子は歩き出そうとしない。何故だろうと思いながらも、肇は何も言わずにいた。
行く先の、歩道に沿ってビルの壁面を装飾しているネオンサインがこの通りを彩っていた。数メートル先のケーキ屋のそれは、自在に折り曲げられるネオン管のようで、その形状には立体感があった。艶めかしく、色鮮やかに発光している。これは花束に見立てているのではなかろうか。クリスマスシーズンだからなのかもしれない。静けさの中、耳を澄ますと鈴の音が聞こえてきそうだ。
肇は動こうとしない文子の横顔をみている。
「先生……、あのお店、お客さんがあまり入ってませんね」
文子の目線を追ってみると、どうやら彼女が先ほどから見ていたのは、煌びやかな建物ではなく、店内が丸見えの飲食店だった。
「その店に入ったことあるの? ブンちゃん」と訊いてみた。
「…………」
文子は心配そうな顔つきをしている。店内は一組のお客さんだけだった。文子の知っている店なのだろうか。肇は、返答を待ちつつ店の古びた外観を眺めていた。
その店は、高層ビルの狭間で前につんのめりそうな木造二階建ての一階で営業していた。ざらついたモルタル下地の壁には、大胆に黒い放電路が何本か描かれていた。色褪せた赤色で【中華飯店 桂苑】と書かれた縦長の看板は、デカすぎるため建物とのバランスが悪かった。その上、取り付け場所も適当で二階の店の看板かと勘違いしてしまいそうになる。看板の意味を成していないことを店主は分かっていないようだ。それとも、うちは味で勝負! などと言いたいのかもしれない。
肇は、ウナギの寝床のような店内に目を移した。そこは、使用感のある四人掛けのテーブルを一列に並べただけの店づくりだった。中ほどの席で、背広のボタンを外し、男二人が向い合って麺を啜っている。ビール瓶はなかった。まだ仕事が残っているのだろう。その手前のテーブルには、深みのある皿の真ん中にレンゲがコロ~ンと投げ捨てられてあった。奥の方で、割烹着を着たおばちゃんが、それを片すこともせず、椅子に腰かけ、テーブルに肘をつき掌に顎を乗せていた。
肇は、この通りには似つかわしくない店があるものだなあと首を傾げてしまった。
数分経っても文子からの返事はなかった。答える気が無さそうなので、
「客が居ないのは、時間が時間だからじゃないのか」と言ってみた。
昼間の時間帯であれば、ランチタイムが過ぎた二時以降の光景だろうか。そんなことより、歩き出そうとしない文子に、何か心に引っ掛かっているものを感じた。
頭の中で、あることがふっと思い浮かんできた。それが肇の脳を揺さぶった。
「ブンちゃんさ、さよりのお父さんのことなんだけどね……」
文子の身体が一瞬ビクッと反応した。含みをもたせた沈黙が流れた――。
肇が切り出した。「ブンちゃんは、お父さんの店へ食べに行ったことある?」鍋が煮詰まる前の灰汁を掬うような質問をしてみた。
「ありますよ、皆と何度も……。とても美味しかった。食べ比べするために、態と注文をバラバラに頼むんです。今考えれば、混んでる時間帯だったので迷惑だったかもしれません」
これを聞いて、一つ心配事が無くなった。店は繁盛してそうだと思えたからだ。ところが、どことなく元気のなさそうな文子……。
「メニューを見ていると迷うんですよね。それを、さよりのお父さんが覗いていたのかは分かりませんけど、五人前の注文が、頼んでいない料理も出てきて、結局八人前になってるんです。さよりのお父さん、行く度に色々作ってくれました。あの頃、皆でワイワイ言いながら愉しく食べてたんですよ」
〝あの頃〟、の一言に肇は引っ掛かった。訊きたいことが言い出せなくなってしまった。
肇は、遠巻きに話を進めて行く。
「先生も食べに行かなきゃな。お父さんに、食べに行くって高二の面談のときに約束してたんだよ。こういう約束は守らないといけないからね」
そうは言っても、あれから十年以上の年月が経っている。肇は、そうっと核心に触れていった。
「お店、繁盛してるんだろ?」
肇は、ある二つの覚悟を携えて訊いている。父さんの店が上手くいっていれば、さよりがここで働いているはずはないのだ。
向かいの店から、先ほどのサラリーマン二人が、食事を終え出て行くのを文子は眺めている。
暫くして、
「さよりのお父さん、交通事故で亡くなったんです。高二の三学期が終わる頃でした。さよりのお母さんが心臓の手術をした次の日だったんですよ……。暫くの間、お骨は部屋に置いてありました」
「交通事故っ、そうだったんだぁ……」
胸が詰まった。まさか、亡くなっていたとは思わなかった。もしや、所労で店をたたんでしまったのかと思いながらも、視界に入らないよう隅に追いやっていた予感が当たってしまったようだ。
肇は、お父さんの事故死と重なる頃のさよりの様相を思い起こそうとしていた。高三になってから、あまり姿を見せなくなったさより……。面談にはいつも来ていた両親。それが、一人で現れ、最小限の受け応えだけで済ませ帰って行った記憶がある。そうっと悩み事を聞き出そうとしたが、彼女は何も語ろうとはしなかった。大学受験を諦めたのは、いつ頃だったのだろう。救いなのは、今日、元気に働いている姿が見れたことだった。
肇は、知らぬ間の強引な時の流れに救われた思いがした。
駅の方向から、この串揚げ店に入ろうとする客がやって来る。その情景は『睦まじい上司とOL』の設定でよさそうだ。店の入り口の前を塞いで立っているマネキン二人が邪魔のようだった。
文子は「先生、行きましょう」と一段下がり歩道に出て入り口を空けた。
二人は歩き出した。進む方向には、背丈ほどのオーナメントで飾られたクリスマスツリーが店先に置かれていた。花屋のようだ。このツリーに“降り積もった雪”だけが際立って見える。それにしてもこの通り、クリスマス気分を目で愉しむには、積極的に店の中まで除く必要があるようだ。
「先生、ほら、本を翳して!」
肇は、言われた通り本を翳す。彼女の頭上で、本が帽子の鍔代わりにならなくてはいけない。コツ、カタッ、コッツ、カタカタ、と乱調な二人の靴音……。なんかしっくりといかない二人の歩き方だった。
どうも歩幅が合っていないようだ。気になるが仕方ない。だら~んと垂らしているだけの肇の右腕は、文子の左肩でせき止められていた。
文子は、肩から下げている厄介者の小さなバックを正面に移動した。
「先生、腕を回して下さい。歩きづらいから!」そう言うと、文子は手探りで、役に立っていないどころか歩行を邪魔してる肇の右手首を探し当て、自分の腰に巻き付けてきた。途端に、乱調だった靴音が揃いはじめる。確かにこの方が歩きやすかった。
肇は、内心ドキッとしながらも、その素振りは辛うじて押し殺した。コートの上からだというのに、掌が直に彼女の腰骨へ添えられているかのような感触があった。
「これってどうかなあ……」と肇は呟いてみる。
「何が?」そう文子が言うと、ちょい前屈みになり、上目遣いで肇の顔を覗いた。
肇は、進行方向を向きながら(まあ、知ってる人と出会うはずもないし、そこまでだから、いっかなあ~)と戸惑う気持ちを打ち消した。と、すかさず、今度は文子の左手が肇の腰を這うように回り込み、冷たくなった手を肇のコートのポケットへ突っ込んできた。
文子は、また肇の顔を覗いた。
文子にとって、さよりのお父さんの事故死は遠い昔の話なのだろう。遊び心で寄り添って歩くデート気分の文子。けれど、今初めて聞かされた肇はそうはいかない。つい最近のことのように思えてならなかった。歩きながらでも、さよりのお父さんのことを訊いておくことにした。
「さよりのお父さんは、いつ頃店をオープンしたの?」
「オープンしたのは……高二の夏休みが終わって、二学期に入った頃だったと思いますけど。オープン前に、皆で駅前とか商店街とか手分けしてチラシを配ったんですよ。お店は、駅からちょっと離れてましたけど、角地なので看板が目立ってました。店の名前がね『四川料理 悠』、どうして〝悠〟にしたのか、それなんだそうです。お父さんが亡くなってから、さよりのことを心配していた悠さんが、自分のところへ来ないかって言ってくれたみたいです。悠さんは、香港でお店をやってて、四川料理だけじゃなく日本料理もできる料理人なんですよ」
「へえー、そうだったんだ。それで、さよりは香港へ行ったの?」
話が思わぬ方向へ展開していった。
「さよりは誰にも相談せず、一人で悩んでたみたいです。考えた末、彼女は行く決心をしました。料理人になろうと決めたんですね。もしかしたら、天国にいるお父さんのアドバイスが聞こえて来たのかもしれません。『さより、悠さんのところへ行け!』って……。その後、何度か皆でさよりに会いに香港へ行きました。悠さんって、さよりを自分の娘のように可愛がってて……」
「そうだったんだぁ」
今となっては気安めにしかならないが、お父さんが予定通り店をオープンしたことに安堵した。これでさよりは大学へは進まず、料理人を目指したということが分かった。
「お父さんの店は上手くいってたんだね?」
「当時、お客さんが入っているのか、私たちも心配だったので週に一度、土曜日にお店へ食べに行こうって皆で決めたんです。行ってみると、お昼の時間帯はいつも混んでました。サラリーマンよりかは、楽しく会話しながら食事をしている若い主婦が多かったですね。近所で良い評判が立ってたんじゃないかと思います。そのうち、休日の夜は家族連れで来るようになるだろって、優史が皆を安心させていました」
「へえー、優史はお店の経営責任者のつもりだったのかね」
この頃までは、さよりと優史の関係は上手く行っていたのだろう。
「優史ってね、さよりに黙って食べに行ってたみたいなんですよ。お客さんが入っているかどうかが余程心配だったんでしょうね。さよりのことが大好きでしたから」
なのにどうしてなんだ? さよりと優史に何があったかは知らないが、肇は残念でならなかった。
其々が目標を掲げ、目標を達成するための仲間意識の強さは確かなものだったはずだ。ところが、要のところで枠から外れてしまったさより……。高一の頃からスランプもなく、両親の期待に応え順調に偏差値を伸ばしてきた彼女は、父親の事故死で精神的衝撃を受けると目標を見失い、心がしじかんでしまったのだろうか。滞りなく店をオープンさせ、近隣のリピーターが増えはじめていた『四川料理 悠』。家族の手を借りながら、頑張ろうとしていたお父さんだった。それに、育んでいるように思えたさよりと優史の関係は、まさかの彼の締りのない態度が原因で、さよりから遠ざかっていったのではないだろうか。
これまでの飲み会でも、幾度か文子と和彩美に、一度だけそれとなくさよりのことを訊いたことがあったが、「元気みたいですよ」としか答えてくれなかった。純子が関係しているからなのかは知らないが、が隠しているのは見え見えだった。
「ランチタイムに行った時、あたしがよく食べていたのは広東麺。さよりが言ってましたけど、うちのスープは、五種類の香味野菜に貝柱の煮汁も使って長時間火にかけ凝縮させたものを鶏ガラスープと合わせるんですって。そうすると、独特な香りと甘みがグンッと増すって言ってました。一口スープを飲んだら、先生もファンになったと思います。そうそう、エビチリ麺も美味しいの、食べたことあります? あまり他の店では見かけませんよね。でも、お父さんの店は四川料理ですから、イケると思ったものは即メニューに入れてしまうんです」
「繁盛してたってことだね」
文子が頷いた。
「さよりのお母さんがね、『お待ちどうさまあ』ってテーブルに置くと、生姜とニンニクと豆板醤が一体になった芳ばしい香りが周りに散って、皆の箸が集まって来るんです。一気に三分の一は減りますね。思い出した! 先生、和泉ってね、自分もエビチリ麺頼んでおきながら、あたしのどんぶりに箸を突っ込もうとするんですよ。先生の友だちにそんな奴います? まるで小学生……。お陰で見た目がグチャグチャになっちゃって」
「和泉らしいな」
クスクスと文子が笑った。
「箸をスープに潜らせて、ちぢれ麺を持ち上げると、チリソースが絡んで、うわー、思い出しちゃったよ、先生っ」
二人の歩くペースは緩やかだった。当ても無く恋人同士が歩いているかのよう。肇は、文子によって作り上げられた体勢を維持しながら、小糠雨を〝帽子の鍔〟で構ってあげていた。
文子が、なにやら悪戯をしはじめたようだ。肇のレインコートのポケットに突っ込んでいる文子の左手が、小動物が苦しくて暴れているかのような動きに変わった。
肇はそれを疎かにし、ちょいと怠く成り掛けてきた雑誌を持ってる左腕の筋肉を今一つ引き締めた。
「美味しそうだね、先生も食べたかったな……」
「先生だったらフカヒレ麺が気に入るでしょね。それって、店一番の人気メニューだったんですよ」
「〝だった〟、そうだな……」
文子の異性に対する癖なのだろうか。少し屈んだだけでは〝帽子の鍔〟が邪魔して見づらい肇の顔へ、折に触れて、目線を潜り込ませ笑みで相手の顔色を窺っていた。
串揚げ屋を出てから、文子の咄嗟の謀に振り回されている肇ではあったが、目を合わせないでいた。
湿りが重なり、歩道沿いに店舗を着飾るオーニングの先端から雨滴が落ちはじめていた。トタッ、それが本の表紙に当たった。
文子は、大きな時の流れの中で話をしていた。だから、会話の途中で、どうしても空いてしまう歳月を推測で補いながら聞かなければならなかった。
「それでね、ランチメニューのすべてに大きな餃子が五個も付いて、どれも八百円なんですよ。少し離れていても、店の存在が知れ渡ればきっと一橋大学の学生も来たと思います」
お父さんが事故で亡くならなければ、さよりもきっと一橋大学に受かっていただろう。授業が終わると、店を手伝うためにすっ飛んで行ったに違いない。そう思うと、思わず文子の腰に巻きつけている腕に力が入ってしまい、彼女を自分の身体へ引き寄せてしまった。
一つになった塊は、当ても無く歩きつづけている。二人は、果たして店を探す気があるのだろうか。
先にある歩行者用の信号機が赤に変わった。肇は足を止めたくなかった。右角にあるみずほ銀行のATM。足並みを揃えるため、文子より大股でその角を曲がる。二人は兵隊さんのように足並みを揃え障害物を上手く躱した。
愉しそうに話しつづける文子と、それをしんみりと聞く肇。色の違う二つのレインコートは、出来た雨粒をはじきながらも焦ることなく浸み込んでいった。
ここから、文子の話の雲行きが怪しくなってきた。
「ただ、気になったのは、夜の七時頃、何度か食べに行ったことがあるんですけど、感じの悪い中年のおじさん二人と出くわしたことがあったんです。中国語で話していたので、お父さんが以前勤めていたホテルのコックさんなのかな、と最初は思ってました」
その二人とトラブルでもあったのだろうか。
「その人たち、他のお客さんのことなど気にする様子もなく大声で話していました。時々大きな口を開け、下品に笑ったりしてたんです」
「常連さんなのかもね。まあ、多少は仕方がないかな」
「多少なんかじゃありませんでした。とても気になっちゃって。不快だったから、あたしたち睨みつけてました。でも、なかなか帰らないんですよ、そのおじさんたち。灰皿があるのに丼を灰皿代わりに使ってて、見ててとても感じの悪い客でした。禁煙にしたほうがいいと皆が言ってました。あれじゃ、他のお客さんが帰っちゃいますよ。嫌がらせとしか思えなかった。さよりのお父さん、良い人だったから注意が出来なかったのかなあ……」
「ブンちゃんね、理解出来ないかもしれないけど、良い人であったとしても、人から嫌がらせを受けることだってあるんだよ。うん? お父さんの名前って確か〝善幸〟じゃなかったっけ?」
「そうです。〝善幸〟なんです。だから、嫌がらせなんかされちゃいけないんですよ!」
文子の言う通りだった。教え子の前では、捻じ曲がった言い訳は慎まなくてはいけない。
「そうだね、あってはならないことだね」
肇は、高二の夏休み前に、さよりと同伴で来た両親との面談を想い出していた。「先生、私、今度独立して四川料理の店をやろうと思ってるんです」そう言い、目を輝かせていたお父さんの面差し……。あの時の記憶が鮮明に甦ってきた。
何処へ向かっているのだろう。行く先が分からぬまま二人は歩いていた。果たして、文子の悩み事を聞けるようなお店を見つけることが出来るのだろうか。肇は、ふと頭の片隅でそんな心配をしてしまった。 (つづく)