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【砂利道を歩く野良犬たち】      作者: トントン03
第九章 二人の行方
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 ― 駅 ―

最終話となります。

このイメージソングも竹内まりやの『 駅 』なのですが、ただ歌は布施明がしっくりいくような気がしました。お時間がある方は聞いてみてください。

長編でしたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。長いお付き合いでしたね。感謝申し上げます。では……。

                                          トントン03

第八十七話



 ― 駅 ―


「ジャ~ン!」


 客を装い、のろのろと近づき、肇の背後から肘鉄を喰らわせて来たのは文子だった。

「ああっ……え、どこに居たんだ?」


 肇は(どこからやって来たのか。あれだけ捜しても見つからなかったのに。帰ったんじゃなかったのか?)と文子の不可思議な行動に驚きを隠せなかった。


「どうしたの? 先生。背中に哀愁が漂ってたよ」文子は何事もなかったかのように言った。

「もしかして、トイレか?」

「違うよ」

「じゃあ、どこに隠れてたんだ?」

「先生、少しは心配してくれたあ? さっきの“仕返し”だよ」

「仕返し?」

 何のことだろうか。

「あたしを、これ以上イジメたらダメだよぉ……」


 文子は潤んだ目をしている。が、すぐに微笑んだ。この期に及んで、再び一人ぼっちの寂しさを覗かれたくはない、知られたくはない、その想いを瞬時にカモフラージュしたということなのか。肇はそのシャッターチャンスを見逃さなかった。


「心配というより、何だろうな、分からん……」

「ハイッ、これ」

「あ、おう、でも……」


 肇があのバーテンダーがいる店を出る時は文芸誌を持っていた。文子の頭上を翳して歩いていたのだから……。あっ、そうか、ドキドキするようなお伽噺が創作されたあの場所だな、そこの非常階段の踊り場に置き忘れて来たのだ。


「ありがとよ、ブンちゃん。取りに行ってくれてたんだね。仕事でもないのに、気づきと行動の早さには吃驚するよ。なあーるほど、だから会社でも評価が高いわけだ」

「二人でいるのに、会社での私の事なんか話さないで」

「確かに、今持ち出す話ではなかったね。でも、ブンちゃん、その文芸誌は読み終わったからもういらないんだ。雨が浸み込んで波打っちゃってるな。役割は終わったから捨てて行こう」

「そんなに簡単に捨てられちぁうんだあ……。それじゃあ、あたしが持って帰る」

「今回のは然程面白くなかったよ。歳を取って来ると、ねちょっとした話は苦手になってくるのかな」

 肇がそう言うと、

「そういうことではなくて……。でも、あたし、これを改稿して、先生が面白いと思えるストーリーに仕上げて見せるよ、先生っ」

「今のブンちゃんなら、きっと良い私小説が書けるんじゃないかな」

 この話の締め括りの良さに、互いに納得がいったようだ。


 文子は、片手に持っているカゴを指差した。

「それにしても、先生、パンパンになったレジ袋なんかぶら下げて帰りたくないからね」

 文子は、そのカゴを奪い取り、必要なもの以外を棚に戻していった。

 肇は、入口近くに置いてあるビニール傘を2本取った。

「髪の毛……濡れちゃったね」

 誤魔化すように、文子は外方を向いた。

 結局、コンビニで買ったのは、ピンクとブルーのタオルと二本のビニール傘だけだった。


 二人は、これから帰るための身支度を整えようと、コンビニの隣の雑居ビルの正面玄関で雨を凌ぐことにした。そこは薄暗く玄関灯だけが灯っていた。

 文子は、レジ袋からブルーとピンクのタオルを取り出した。肇が先に、雨以外にも濡れてしまった彼女の髪に、ピンクのタオルを被せ優しく押し付けていく――。


「不思議……こんな近くに先生の顔があるなんて。二度目だよね、さっきの続きってこと……?」じっと見つめている。

 そうだな、確かに近すぎる……と、肇は心の中で呟いた。彼女が、今言った「不思議……」、それは思いがけないことが起こりえる距離感。彼女をどうにでも出来る間近な距離だった。


「いいんだよ、先生……」


 彼女は、何を言おうとしているのだろう。


「あたしのこと、好きにしていいんだってばっ」文子の瞳の耀きが強まった。

 文子は、消えたはずの映像を何とか元に戻そうとしているのだろうか。


 肇は、唐突にも指先でそれと無く摘んだ彼女の頬の感触を愉しみながら、伝わるその体温をも手中に引き寄せた。情動的な雄としての特有の欲情は、更に抑えきれぬ態度変化を促進させる。

 見つめている文子は、身体を反らせた。先ほど“路地”で作ってしまった隙間を埋め戻そうとしているかのようだ。相手の目に映っている被写体が誰なのかを確認するかのように見つめ直している。


 暫く、そんな彼女を感じながらも、肇はこのタオルの中へその想いが溢れ出ないように押し込めようとする。二人の間にこの一枚のタオルがなかったとしたら、このお伽噺を成人向けの紙芝居として完成させてしまったかも……いや、完成させたに違いない。


 だが、肇はその躊躇いを再び振り払った。

「先生……、今度はあたしがやってあげる」

 文子は、気配を反射的に感じ取ったようだ。ブルーのタオルを袋から取り出し、もどかしそうに肇の頭に被せ、そして深い溜息を吐いた。

 文子は、肇の髪を乱さぬよう、また顔を愛撫するかのようにタオルを上手に扱っている。タオルを畳み直し、裏返し、これを繰り返しながら拭いていた。その行為は、悄然となりながらも、男女のよくある厄介な心情の枠を超えた心地の良いものだった。これにも“文子らしさ”を見知することができた。  


「ありがとう、ブンちゃん」

「うん……」

 文子は、肇のニオイが染み付いたそのブルーのタオルを自分の首に掛けると、ピンクのタオルをなるべく人目につかないように肇のコートとジャケットの間に忍び込ませた。彼女も同じようにブルーのタオルを――。


「このピンクのタオル、ブンちゃんのニオイでいっぱいだな」

「このブルーのタオル、先生の嫌なニオイでいっぱいだよ……」

 憂いを帯びた眼差しで、文子は笑みをこしらえた。

「大切にするよ、このピンクのタオル……」

「捨てたりなんかしないでよね。あたしは、この本も大切にするんだから」

 完全に彼女にやられてしまったんだな、そう思いながら彼女に摺り足で近づいた。どちらからともなく目を落とし、お互いの背中に両手を回し込んで愛おしさを伝え合った。


 肇は、時の流れは一様ではないことをこのとき知った。

 満たされぬ互いの情感は、その下地が透けぬよう、水彩画ではなく油絵を描くが如く上から塗りつぶさなくてはならなかった。 


「先生、どうする?」文子は首を傾げた。


 時間の感覚が無くなっていた。肇は街路灯を見上げて、また雨の降り具合を確認している。文子と串揚げ屋を出てから、気になるほどの雨が降った訳でもなく、かと言って完全に止むこともなかった空模様。

 肇は時間を気にした。


「えーと、タクシーだな」

「先生、雨だしタクシー乗り場はかなり列んでると思う。あたしは乗り換え無しで行けるし、ここから三十分もあれば帰れる。問題は先生だよ」

 文子も時計を見た。

「大丈夫かな……」肇は考えている。

「とりあえず、急ごうか、先生っ」

 文子は、その先へ進もうとしていた。

 肇には、諦めを固めるためと、もう一つ、もしかしたら“間に合うかもしれない”この丁半博打を試みようとしているかのようにも聞こえた。


「そうだな、行くぞっ!」

「うん!」

 肇の手首を掴み、走り出した文子。その手は、雨で滑り落ちつつ指の間を探っている……。すぐさま十本の指はすんなりと編み込まれていった。


 今、二人が駅へ向かって駆け出している欅通りは、心躍らせるミュージカルの幕開けのように思えた。未来に向かって走るのだ、結果がどうであろうと行ってみなければわからない、何ものにも縛られず自由を勝ち取ったかのような彼女は、行く先を案じ戸惑っている肇を巻き添えにして走って行く。


「大丈夫かあ? ブンちゃん」早くも息苦しさを感じてきた肇。

「先生こそ参ったんじゃない?」

 彼女は、会話の息継ぎがお上手なようだ。 

「高校の頃さぁ、ラグビー部でウイングだったんだよ」 

「その上、モテたってえ?」

「モテ過ぎも辛くてさ~、やばかったよ。はぁ~はぁ~、色々と……」嘘をついた所為で息苦しさが増してきた。


 飲んだ後の駆けっこは酷しいものがあった。それにしても、彼女の身体は一体どんな作りになっているのだろう。あれだけ飲んでいながら。


「先生、スピード落とそうか? 苦しいでしょ?」

「大丈夫だ、年寄り扱いすんなって!」

 文子が一歩前へ出た。

「ほらあー、引っぱってあげるから。あたしから離れちゃダメだからね。先生は、いつまでもあたしの隣に居るんだよ。先生が居なくても、居てくれる、先生は……いつもあたしの傍にいてくれるんだっ」


 素直に感情をぶつけてきた。こんなに愉しく遊んでくれている文子。今日、自分の役割は果たせたのだろうか……肇は疑問を抱いてしまった。



 駅前のロータリーに出ると、やはりタクシー乗り場は長蛇の列ができていた。

 いきなり飛び込んできた目を刺すような可視光線が、「ゴールまでもう少しだ!」と応援してくれていた。

 肇は二本のビニール傘を、そして文子は水気を含んだ本を持ち、もう片方の手で尚も肇を引っぱていた。


 二人はゴールの改札口に到着した。

「見事なゴールだったね、先生っ」

「おお、ナイス!」

 肇は肩で息をしていた。しかし休んでもいられない。文子は、発車時刻の表示板を指差した。

「あたしは大丈夫だけど、先生はこれが最終じゃない? でも、あと……八分あるから慌てる必要はないか……」


 文子は、肇をホームから見送ってあげるという。相反する磁気を帯びた二人を引き裂くためには、それに見合った他力が必要だった。


 二人は三番ホームを進行方向へ歩いている。屋根が外れる手前で足を止めた。

 肇は、少し身体に風を通そうと、レインコートのボタンを外した。

 すると、文子が、肇のジャケットから見え隠れしていたピンクのタオルを、しっかりと内側へ入れ込もうと弄り出した。


「奥さんがネクタイを直してるみたいだよ、ブンちゃん……」

「そうだね……」


 文子は表情を変えなかった。ピンクのタオルは、もう隠れて人目にはつかなくなっていたが、まだ彼女は弄っていた。目線は、肇の胸元から動かない。用を成さなくなった指先は下ろすことも出来ず、シャツのボタンに引っ掛かったままだった……。 


 肇は、その両手を包み込んだ。彼女の手は震えていた。ものすごく寒いのだろう。


「濡れてしまったね。ごめんな、 ブンちゃん……」

 肇は文子をみつめているが、彼女は目を合わせようとはしなかった――。



 警告音を鳴らし、ホームに電車が入って来た。知らぬ間に、それなりのサラリーマンたちがホームで電車が来るのを待っていた。今日は金曜日。サラリーマンが仕事帰りに一杯やる日だった。


「……じゃあね」


 肇は、コンビニで買った傘を渡した。文子は、雑誌と傘を大事そうに抱えている。ドアの位置に立っていた二人は一旦その場を避け、サラリーマンたちを先に乗せ最後に肇が乗り込んだ。


 ドアは、まだ開いたままだ。肇は、ホームと電車の隙間がえらく離れているように感じた。手を伸ばしても、相手に触れることのできない距離感のようだった。

 互いに向き合った状態ではあるが、文子は顔を上げようとはしなかった。声を掛ければこっちを向いてくれるのだろうか……。


 発車のチャイムが鳴り始めた。

 ドアが閉まり、電車がゆっくりと滑り出した。ガラス越しに消えて行こうとする文子の姿……。その時、突然忘れものでもしたかのように文子は顔を上げ、追い駆けるようにこっちへ向かって来た。しっかりと肇を見つめながら……。その時、彼女の口許が動いた。


 肇は、その微妙な唇の動きを読み取ってしまった。

(うん? 過去形……。それでいいんだよ、ブンちゃん……)

 


〝 私は足を運ぶだろう。粋な計らいをしてくれたバーテンダーのいるあの店へ。彼女が一人で駆け込むことがなくなる日まで――。

 再び、底の見えなくなった悲しみや寂しさの重圧に押し潰されそうになった時は、ディフェンダーとなってくれる“あの店”を想い出すのだ。そして、解消されるはずのない苦悩は、そこへ置いて行けばいい。きっとあのバーテンダーが分からないように処理してくれるはずだ。

 私は、そのセッティングをするため今日キープしたボトルが底をつく前に、そっと新しいボトルへ入れ替えておかなくてはならない。それをやり続けること以外に私の果たすべき役割はないのだと思った。

 この先、人生の難問にぶつかった時の心のケアのために、まだ胸懐の片隅で蹲っている優しさや思いやりを手繰り寄せ、まだ原石であろうそれらを一つ一つ磨き上げていけばいい。時間が経ち、ほどなく耀いてきたら、心の内側からそれらを埋め込んで行けば、きっと甲冑の役割を果たしてくれ防御どころか思い切った先制攻撃だって出来るようになるはずだ。どんな相手が現れようと、震え上がることなど無くなってしまうだろう。

 何よりも力強い味方になってくれていることに、何れ気づく時が来るはずだ 〟



 肇は、その場を動かずに、ドアの際にある取手を握って立っていた。眼前に広がる民家の明かりが心許なく灯っている。移ろい行く平地を、名も知らぬ河川がそこを割り裂いていた。暗闇に隠れてしまった山並みへと逆流して行くかのように思えた。

 肇はこの想いを、ガラス越しの灯りが次第に消え行く夜景の中へ投げつけた。


 いつしか、きっと知らせてくれるだろうあのバーテンダーが、



 「いらっしゃっていませんが……」

                                  (了)

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