―謀は、止んだり降ったり……
第八十六話
―謀は、止んだり降ったり……
肇は、バーテンダーに言った。「この店に来てよかったよ、アオリイカを独自の調理方法で食べることができたんだから。ラッキーだった、忘れられない味になってしまったな……」
「美味しく召し上がってもらえて、私としてもお勧めした甲斐がありました。今年はもう終わりですが、来年またこの時期に仕入れておきますので、その時は是非ご来店下さい。お待ちしておりますから」
文子が脹れた顔になった。
「アオリイカの仕入れに関係なく、二人で近々来ますから。ボトルもキープしてあるし」
その怒り顔に、バーテンダーは「はい、近々のご来店をお待ちしております」と丁重に応対し、お辞儀をした。
肇は、バーテンダーにアオリイカの件だけではなく、我々に対しクオリティの高い接客をしてくれたことに感謝した。
お客さんの声が聞こえてこない。見回すと、客席はがらんとしていた。
「そろそろ帰ろうか、ブンちゃん……」
文子は、肇の肩に手を乗せて後ろを振り返った。「まだ、雨が降ってるのかなあ……」
肇がカウンター席で支払いを済ませると、先に文子が立ち上がり、何やらドアの前で体を屈めて行き交う人を見上げている。後ろを振り向きもせず「先生、さっきより降ってるみたいですよ。みんな傘さしてますから」
「ああ……」
見ると、小糠雨から小雨に変わっていた。照らす街灯の明かりで確認してみたら余計に勢いが増しているように見えた。傘は必要だろうな、と肇は思った。
文子が、ドアを開け、先に外へ一歩踏み出した。そこは、傘のような骨組みのあるステンレス板で覆われた軒下だった。再び、彼女は降り具合を確かめていた――。
やおら、彼女はレインコートの襟を立てた。
女性の店員が近寄って来た。
「どうぞ、これをお持ちください」
店員は、二本の傘を肇に差し出し「今度ご来店する時で結構です」と言う。肇はそれを断った。文子もきっと断るだろうと思ったのだ。“この文芸誌一冊あれば十分”今日は、これを通さなければならないような気がしたのだ。
肇も軒下へ出た。両サイドの植え込みから立ち上っている庭灯が、走り去る車の音を遠ざけ、更に箱型に剪定された躑躅の小枝は僅かな雨音さえ消し去ってくれていた。
肇は、文子の背後にくっつくように立っているから、彼女の面差しは見えない。この本一冊で、せめて髪の毛だけでも濡らさずに駅まで辿り着くことができるだろうか、と危惧する。
突然、文子が飛び出した。
「先生、おいでよ、早くぅ」手招きをしている。
濡れるのを覚悟し、飛び出しそうな気配は感じていた。文子の折あるごとの即断には驚かされる。闇夜を見上げているその身振りは、流した涙の痕を雨で洗い流そうとしているかのように思えた。何かが吹っ切れてしまったのだろうか。
そこには、左右の庭灯の明かりによって、こじんまりとしたステージが出来上がっていた。彼女は手を広げ、落ちてくる雨粒の感触を楽しんでいる。体をゆっくりと回転させていた。
「何やってんだ、余計濡れるだろっ」
そう言いながらも、引き寄せられるように肇もステージへと足を踏み入れた。
「何でもないよ、こんな雨っ、そうでしょ?」
そのステージの床は、白く光っているテラコッタ張りだった。
「うーん、そうだな、ブンちゃんが言う通りかも。どうってことないかあ……」
「そうだよ、どうってことないっ」
彼女の笑みが輝きはじめた。
「そうだな、この本一冊あれば十分そうだね」
文子は、男を引き付ける十分なものをもっていた。なのに、一生懸命上って来た階段から彼女を突き落とそうとしているものって一体何なのだろう。肇にはまったく理解できなかった。
勾配が上手く取れてないようだ。厚めに濡れている階段の踏み面六段をピシャピシャと音を立てて上っていく文子……。その後を肇が追った。
歩道に出ると、傘を差し足早に帰路につくサラリーマンの姿が目についた。
文子は、肇のレインコートのポケットに手を突っ込んだ。肇は文子の腰に手を回し、片方の手は文芸誌を文子の頭上に翳して歩きはじめた。そう、これは串揚げ屋を出た後、二人で二軒目の店を探し回っている時と一緒の格好なのだが、その明らかな違いは歩調など考える必要のないくらいしっくり感があることだった。
「下を向いて歩くなよ、ブンちゃん……」
通りを挟んで、弛むことなく空に向かって伸びている欅の枝振りは、彼女の気質を表現しているかのように思えてならなかった。
「わかってるって。もう心配してくれなくても大丈夫だから……」
「心配? 最初からしてなかったよ。心配しているのは、こっち方向でいいのかってことだ」
肇の勘は冴えていたようだ。目を凝らすと、向こうの方に一台のバスが見える。このまま真っ直ぐに行けば多分駅なはず。文子は、ただ肇の身体にしがみついているだけで、どこへ向かって行こうとしているのかまったく関心が無さそうだ。
それは、肇にとって、余りにも突発的な出来事だった。
「先生っ!」
文子が肇の顔を見上げながら脅かすようにそう言った。彼女は肇のポケットに突っ込んでいた手を出し、自分の腰に回している肇の手首を掴むと、強引にビルの路地へと引っ張っていった。人がギリギリすれ違える薄暗い抜け道へと引きずり込んで行く。まるで、この路地裏を知っているかのようだった。
「おい、どうした? まさか“課長”と目が合ってしまったとかじゃないよな?」
偶然って、こっちの都合を無視してやってきたりする場合がある。
「そうかもしれないね……」
路地から十メーター程入り込んだだろうか。文子は、人通りがないことを確認すると、肇の首に這うように両腕を巻きつけ、胸に顔をうずめてきた。
「いいでしょ? 暫くこうしていたいんだあ……。もう、あたしには先生しかいないんだよ、先生がずっと一番だった、憧れていた先生……。夢なんかじゃないよね……」
その声の振動と鼓動は、胸の奥深くへと伝わっていった。
「ねえ、先生……何か言ってよ」
背中に当たっている錆びた非常階段へ役目を終えた本を置き、肇は両手で彼女の体を抱きしめた。バーチャルな空間へ入り込んで行こうとしている。
「…………」
岩山を斧で真上から振り下ろし、真っ二つに割り裂いた崖下で、一層黒々と際立つ楕円形の断面に降り注ぐ雨は、途中、互いにぶつかり合いながら大粒となりその塊めがけて落ちていった。
肇の先端に装着されている指先は、文子が何者かを知らずに括れたウエストラインに沿って素直に折曲がっていった。彼女は抱きつきながら背筋を伸ばし、踵を浮かせる……。爪先にかかるウェートは、既に首に巻きつけられた両腕から肇の身体へと移動していった。
どのくらいこうしていたのだろう。肇は、一対の獲物へ狙い撃ちしている雨玉が彼女の身体に当たらぬよう上半身を覆い被せていた。しなやかに相手の背中が反り返っていく――。
バーチャルな空間での身体のやり取りは続いた。
「ねえ、先生……」
彼女は耳許でそう呟いた。それはほとんど吐息だった。多分、意味もなく発した言葉なのだろう。そこに、彼女の熱い想いを知らぬ振りなどできなかった。
肇は、彼女の身体を、両手と両腕で衣服に浸み込んでしまった雨水を搾り出すかのように強く抱きしめた。
「先生、そんなにぎゅっと抱きしめられると、先生の顔が見えないよ……」
「うん? 今日、散々見たんじゃないのか?」
「今、見たいんだよ、先生の顔、こうしてる時の先生の顔なんて、もう二度と見れないかもしれないんだよ。それとも……これからいつでも見れるの?」
肇は抱きしめている両腕を緩めた。
文子は、相手の胸にうずめていた顔を起こし、少し顎を上げて肇を見ている。そこには、話している時はキリッと引き締まっていた口許が、今は丸みのある唇に様変わりし、滴る光沢を付加させ肇の身体の動きを抑え込んだ。
肇と言えば……小さく突き出た、その顎のラインを見つめていた。
文子は、身動きできないでいる肇を感知すると、平然と潤んだ瞳を開放させ、感じるままにゆっくりと……瞼を閉じる間と唇を重ねるまでの道のりを合致させてしまうという高度なテクニックを肇に披露した。
それは、傍から見ると、二人は初めてではないだろうという疑いを陽気にさせるには十分過ぎるものだった。
文子は、唇を強く押し付けてきたかと思えば、下唇を噛んだり舌を絡ませながら相手に誘いを掛けていく。時々悪戯っぽく笑みを含ませる面持ちは、肇の知らない成長過程で手に入れたものなのか、それは戸惑いと異性としての意識を高めさせた。
想いが程々に満たされると、文子は漸く肇の唇を解き、焦点が定まる位置まで一旦顔を遠ざけた。そして、肇を見つめている……。
肇は、文子と見つめ合うことに気恥しさなどはなくなっていた。見つめ続ける彼女の瞳の奥には、次なる謀が出てくるのか……。何やら、それを心待ちにしている自分がいた。けれど、内心はオドオドしている。だが、それを見透かされてはいけない。
この後、なんと、文子は錆びついた扉をこじ開けて土足で懐へ踏み込んできた。風景画の、森の奥深くへと入り込んで行こうとしているようだ。
見当もつかなかった。それは、仕舞い込んでいた相手の好奇心をスリルいっぱいのところまで阿るもので、肇の知らない未知なる体感だった。三半規管をやられてしまい、ぐるぐると上空を旋回する伝書鳩にさせられてしまったのだ。
しかしながら、その謀を煽ったのは肇だったのかもしれない。文子の首筋と肩までかかる髪との隙間に指先を忍び込ませ、その所為で彼女に身震いを起こさせてしまったからだ。
拘束性の強い情況下だった。彼女の感情の赴くままの仕種には、随所に艶やかな緊張感が燻っていて、それが肇に遠い想い出を掘り起こさせ、愉しませ、悦びを膨らませていった。彼女は、肇の自在に折り曲がる耳朶を、同じように自在に変形する舌で転がしながら神経系統を刺激し、脳内の、それも一番厄介なポジションへ伝達しようとしている。耳許に彼女の唇と舌が執拗にお邪魔しているようだ……。
肇はされるがまま動けないでいた。
暫くそうしていたら、肇は、恋愛関係にある男女間の馴染みや懐かしさを超えたところの官能的体験をしていることに気が付いた。視覚で認知される比較的痛みに鈍感な耳介と、その辺りの洞窟を通って行くと突き当たる、ふっと一息吹きかけるとジーンッと全身が反応してしまう鼓膜までの外耳道。これって、きっと神様が人間の幸せの為に作り上げた逸品なんだと思ってしまった。
「ブンちゃん……」
「先生……先生っ」
文子の、相手の顔色を窺いながら発した声が路地裏に響いていた。
その時、突然この暗闇に突き刺すような閃光が走った。肇は、何気にその方向に目を向けた。すると、縦列駐車をしようとハンドルを切り返している車のヘッドライトから放たれた光が、店のウィンドゥに当たりこの路地を照射した。幻惑から目が覚めた思いがした。
肇は串揚げ屋を出てから、この路地まで来た経緯を辿ってみた。それと、この抜け道はどこへ繋がっているのだろう、などと余計なことも考えてみる――。
文子は、まだ肇を好きなように扱っていた。
雨脚が少し弱くなってきたようだ。肇は、カン……カン……と非常階段の踊り場から踊り場へ、定期的に落ちてくる乾いた音を聞いている。それは、学生だった頃に住んでいたボロアパートを想起させた。寝付くまでの間に聞こえる蛇口からの滴る音と同期させてしまったのだ。
肇は、背骨を軸として、大きくゆっくりと文子の身体を揺らしはじめた。接している相手の首筋から感じ取れるほどの脈拍。彼女の背中をさすり、また頭を撫でながら上階のビルの窓に目線を向けた。幾つかの窓から、ブラインド越しに蛍光灯の青白い光が漏れていた――。
どうやら、文子の動きが止まったようだ。肇は、彼女の体を揺らすのを止めた。
文子は、肇の肩にのっけていた顎を外した。巻きつけている両腕も、俯いた状態で肇の首からどかした。ただ突っ立っている……。
肇は、居た堪れまくなった。何を言ったらいいのか、どうしたらいいのだろうと。今日、文子と会ってから何度もそう思ってしまう。純子と優史の訳わからぬ話の滑り出しから串揚げ屋を出るまでは、文子の悩み事なら何でも回答できるはずだった。
肇は、項垂れて力無く垂れ下がっている文子の腕を見ていると、いつまでもこんな姿のままにしては置けないと思い、再び抱きしめようとした。しかし、その判断は彼女のタイミングからすれば遅過ぎたようだ。
それより先に、彼女の身体の一部が動いた。両手を肇の肩に掛け、額を胸に押し当ててきた。二人が接触している部分は、力無く肩にのっかっている両手と額の三点だけになった。隙間だらけの二つの身体は安定感を失った。文子の身体がほんの少し震えているように感じた。きっと寒さの所為だろう。
風は吹いているのだろうか……。ビルの谷間で、文子は一方から吹いて来る風だけを感じ取ったようだ。肇は、堪えがたい衝動に駆られた。
「わかったよ、先生……」
文子は、誰も近づこうとしない心の底の待ち合せ場所で、最初は手に負えなかったであろう寂しさや悲しみをペットのように今まさに手懐けようとしていた。
肇は、これまでの主と従の関係を逆転させなければならないと考えた。幕が開くことも下りることも無いこの舞台裏から、眩しいまでに街灯の光が降り注ぐ欅通りへと、肩を抱き寄せエスコートしなければならない。薄暗い路地に寄り道などしなかったかのように装わなければならなかった。
文子は、暗黙の了解の如く、片方の手を背中から廻しこみ、コートのポケットの中へ無造作に突っ込んできた。いつでも歩き出せる体勢を自らとった。
コートの雨染みは、腰の辺りまですっかり一様になっていた。結局、さほど変わり映えのしない雨脚だったようだ。
二人は、駅へ向かって歩いて行く。タクシーは見当たらなかった。
前方の右側にコンビニが見えた。肇は、彼女の髪の毛から肩に流れる滴を何とかしようと、そのコンビニへ入ることにした。
「ちょっと寄ろう、ブンちゃん」
「結構濡れちゃいましたね。入るの恥かしいなあ」
「恥かしいねえ、どうだろうか……」
「おばさん扱いしますね、先生っ」
怒った振りのようだった。今度は、晴れぬ胸の内を、素知らぬ顔する術で躱そうとしている。
「年齢もこっちに合わせてくれないとさ、一緒に歩いているのが恥かしくなるだろ?」
「まあ、いっか。入りましょう」
肇は入口に積んであるカゴを取った。持つほど何を買おうと思ったのか、何も考えずカゴを掴んでしまった。
先ず、タオルを探した。
「ブンちゃん、ちょっと」
「何? 先生」
「頬にへばり付いている髪……。ここは一先ずタオルでフキフキしておこうじゃないか」
彼女とお話を愉しむためには、逐一筋書きを考えなければならない。
「まどろっこしい言い方しますねえ。正直に言ったらいかがですか? 『ブンちゃんはイイ女だ』って」
キラリと彼女は目を輝かせた。しなやかな身のこなしから妖艶な香りを放っている。それは、女の知的な剣の切っ先のような危険を感じさせた。今日、これで何度目だろう。
「その通りだよ。褒める言葉が見つからないくらいだ。これでどう?」
「デッヘー、やっと気づいたのおー、遅いぞ、肇っ」
愉快ながらも緊張感のあるこのような会話を交わしたことが過去にあっただろうか。肇は、彼女を見つめながら考えてみる……。
窓際の通路の奥、 雑誌のラックと対面したところにタオルは陳列してあった。そこには、白、青、ピンクのタオルが置かれていた。
「あたしはピンク。先生はブルー?」
「いやいや、先生もピンクがいいな」
肇が仕掛ける。文子に尋ねる時、予想だにしない回答が返ってくるのが楽しくて仕方がないのだ。彼女も変化球を投げつけた時の、相手の慌て振りを面白がっているに違いなかった。
「どうしてブルーじゃ嫌なの? なんか変っ。もしかして、先生、変な趣味があるのとちゃいますのお?」そう言って、肇の顔の前で人差し指をクルクルと回した。
「ああ、ちょっとだけね……」
この回答で、文子の許しの笑みがもらえた。
「そうだ、ブンちゃん。お菓子でも買ってあげよう」
「明日、あたしたち遠足に行くみたいだね」
また会う約束でもしてしまったかのような会話になってきた。肇は、何も言わず彼女に背を向けた。そこから二、三歩進み、ドリンク類が陳列されているショーケースに突き当たると、振り向きもせずロボット歩きで左へ直角に曲がった。
「あれ? 先生……」
まるで無視しているかのように思われたかもしれない。カゴの中には二種類のタオルが重なって入っている。
店員が立っているレジの方から見れば、右側が窓側。その間に縦三列の陳列棚が設置されていた。だから、窓側より第一から第四まで路地はある。何故だか、店の通路が路地に思えてしまった。
肇は、文子との遊び心を言葉ではなく身体で示したのだ。と言うより謀を考える僅かな時間が欲しいだけだった。
咄嗟にロボット歩きなどをやるとは、呆れてしまう反面、我ながらお笑い芸人の鮮度のいい新作ギャグに思えた。積み重ねられてきた古い道徳観から開放された気分だったのかもしれない。
文子は、きっと後ろから付いてきているに違いない。肇は、さっとスナック菓子の陳列棚の路地に入った。そして、何を選ぼうかと考えている……。背後から、彼女が「これがいい、それはいらないよ」と言ってきそうな気がした。
肇は、彼女が声を掛けてくるまで振り向くつもりはなかった。ところが、意に反して……後ろに付いて来る気配を感じない。
取り敢えず、肇は、ポテトチップス、胡麻せんべい、チョコレート、他に何だか訳分からないスナック菓子をカゴ一杯になるまでぶち込んでいった。カゴから落とさぬように、そのまま真っ直ぐレジに突き当たると、今度は窓側から一番離れた壁側の第四路地に入った。この路地で彼女を見つけられるはずだ。たとえ居なくても、ちょっとの時間差で「みーつけたあ!」などと声を掛けて来てこの路地に現れるに違いない。どっちにしても、四十坪ほどの隠れようのない店内に居るわけだから見つけるのは容易かった。
この路地の陳列棚には、彼女が好きそうなスィーツコーナーがあった。しかし、品数は少なかった。
肇は、脅かすように彼女が声を掛けてくるのを、ここで待つことにした。
だが、暫く経っても彼女は姿を現さなかった。どうやら、コンビニ鬼ごっこのはずが、そうではなくなったようだ。
肇は、店内にいるはずの文子を探し始めた。菓子袋が落ちそうなくらい入っているカゴを下げながら、時々そこから落ちたのを拾い上げながら……。
第一路地から第四路地まで、店内の隅々と言っても一分あれば鬼としては十分見つけられるほどのスペース。しかし、それは結局成立しない鬼ごっこに終ろうとしていた。
文子は雲隠れの天才かもしれないと思い、第四から第三路地に入ると思いきや、もう一度第四路地に素早く体を反り返し、きょろっと見るというフェイントを掛けたりしてみる――。初老の男が何やってんのか、それも各路地ごとにやってしまったのだ。
レジで突っ立ている店員は、その滑稽な姿をじっと見ていたに違いないなかった。『愛人と鬼ごっこか?』と思われたかもしれない。いや、間違いなくそう思っただろう。
ダラ~ンと、カゴを手にぶら下げ、突っ立っている肇……。嵌め殺しのガラス越しに、駅に続いている欅通りをぼんやりと眺めていた――。
傘を差していない人など見当たらなかった。外の気温は、一段と下がってしまったかのように感じられた。文子は、忽然と店内から姿を消してしまったようだ。
今日、たちどころにして創られた文子とのお伽噺とは、振り回されながらも探りたくなる純粋さをベースにした謀だった。彼女の意味あり気な口許から語られたそれらは、いつまでも飽きさせることのない想い出となり、アンニュイ気味になりつつある日常で折に触れ、きっと想い起こさせることだろう。それどころか、その度に記憶の新鮮味が増して行くような気がしてならなかった。
肇は、カゴの中に目を向けた。せめて、ピンクのタオルだけでも持たせてやりたかったのだが……。 (つづく)




