―バックミラーには“親子”の姿が―
最後の3話は通しで読んでもらおうと思いました。しかし、読んでくれる方がいるのかどうか、いない場合は自己満足で終わらせるしかないようです。私としては結構長かったかと、作業とすればちょっとしんどかったです。今度書くときは、短編、中編でしょうか。
そう、もし読まれた方で時間があるようでしたら、イメージソングとして、竹内まりやの『シングル アゲイン』を聞いていただければ、少しは面白味を感じていただけるかなと思いますが。
第八十五話
―バックミラーには“親子”の姿が―
「私は、倉庫から勝彦が出てくるのを車の中で待っていました。暫くすると、背中を丸めながら彼がこっちへやって来ます。その背後には、倉庫の鉄扉に隠れるようにして、さきほど彼から戸締まりを頼まれた二人がこっちを見ていました。後で考えてみたら、二人は多分親子。母親と娘さんだったのではないかと思います。その時は、ただ戸締りの為にそこにいるのだろうと、何も考えなかった……」
肇は、目の前に立っているバーテンダーが気になった。
「勝彦は、車に乗り込むとシートを倒し、頭の後ろで両手を組んで疲れている身体を休ませていました。私は車を走らせ、彼女たちの顔が確認できるところまで進み会釈をしたんですが、気がつかなかったみたいです。それからハンドルを左に切り、接道している出入り口の門扉へゆっくりと進んで行きました。出入り口から県道へ合流するため一旦車を止めて……その時、無意識にチラッとバックミラーを見てしまったんです」
文子は話をやめてしまった。
「何か映ってたの?」
さっぱり分からない。何がどうしたというのだろう。彼女は正面を向いたままだった。
「バックミラーに映っていたのは、さきほど倉庫の鉄扉に体を半分隠していた二人でした。でも、もう隠れてなんかいなかった。母親は、娘さんの肩に手を掛けて二人で見送っているように見えました」
文子は再び黙ってしまった。その時の光景をはっきりと頭に思い浮かんでしまったのかもしれない。
肇は、文子が話し出すのを待った――。
「……私はバックミラーから目を逸らし、県道の車の流れに入ろうとしたんですが、もう一度バックミラーを見てしまったんです」
肇は、息を深く吸い込んだ。そしてゆっくりと吐きながら目を閉じ耳を澄ました。
「まだ、二人は見送っているんですけど、娘さんが車に向かって小さく手を振っている姿を私は見逃さなかった……。その時、もう勝彦との関係は終わったんだ、そう感じてしまったんです」
「先生っ……」
そんなの、手を振ってただけだろ、と全面否定するようなことは言えなかった。自分としては、「深く考えるなよ、ブンちゃん……」これが精いっぱいの声掛けだった。
文子は、尚も動揺を抑えて話していく。
「お母さんが持ってた手提げ袋には、大きめの同じステンレス製の水筒が三つ入っていました」
「喉が渇くんだよ、汗をかくだろうからさ……」
「これは十月半ばの話なんですよ、それに本のカバーを取り換える作業なのに、汗なんかかきませんよ。お母さんと娘さんとで、あの水筒一つあれば十分なはずです。あとの二つは……汗を流しながら作業している勝彦用のものだった……」
「そんなこと訊いてみなけりゃわからないだろ! 勝手に判断したらいけないよ」
「先生、じゃあ、娘さんが持ってたピンク色の大きな手提げ袋の中には何が入ってたと思います?」
見当もつかない。
「あの中に、何人分のお弁当が入ってたと思いますか?」
「いや、着替えだったんじゃないか?」単なる思い付きで言った。
拙いことを言ってしまったか? 不安が過った。
すると、
「着替え? そうかあ、分かりましたよ、彼が作業着を全部持って来てくれって言った意味が。それと、もう洗濯しなくていいからって言った訳が……。でも、あの時、娘さんの持っていた手提げ袋の中は、間違いなく空になったお弁当箱が入ってたんです。それも三人分の。彼が、ある晩『明日から、朝ごはんは要らない。食べないで行くから』そう言った翌日から、彼女たちが、勝彦のために朝ごはんとして作ったおにぎりとかサンドイッチ、それにお昼のお弁当を持って来るようになったんだと思います」
「そんなことこそ訊いてみなけりゃ分からないだろっ」同じことしか言えなかった。
「彼は、肉体労働の仕事なんですよ。それまでは、毎朝、必ずごはんは食べて行ってたのに……。『もう、朝ごはんは要らない』なんて言うはずがありません!」
肇はカウンターの上で手を組んで俯いてしまった。
「帰る途中、雨が降っているわけでもないのに、前がよく見えなかった……。私、ワイパーの代わりに何度も瞬きをしてたんですよ……」
先程からバーテンダーの気配を感じない。目の前に立ってはいるのだが……。
「私は、これから二時間かけて事故を起こさないように彼を送り届けなければならなかった。傷を付けないように大切に……。送り先は、私たち二人の、あの頃の〝贅沢な空間〟ではなくなってしまった場所です。でも、彼がシートを倒してくれていたからよかった……。声さえ出さなければ、押し殺しさえしていれば、気づかれることはなかったから……。先生っ、こんな姿、最後に見せられると思いますか? あたしにはとても出来ない、だって、悪い事なんか何にもして無いんだよ、先生っ」
「…………」
この店で、声を出して泣かせてあげたかった。どんな場所であっても、抱きしめて泣かせてあげればいいだけだったのだ。なのに、何もできないでいた……。
グラスから染み出ている涙を手で拭いながら、肇は無力さを感じていた。あの頃は、如何様にでも励ますことが出来たはずなのに……。勝手が違うと途端にこの様か、と。
肇は、文子と同レベルの位置で悩んでいることを思い知らされていた。「いいかい皆、因数分解の問題は、先ず最初に共通項を括って、それから――」ブンちゃん、すまん……この先、先生も分からないんだ。そんな肇の横顔を文子は見つめているようだった。
暫くして、
「大丈夫ですか、先生……」
皮肉な事に、解けない難問に苦しんでいる受講生を、文子に思い起こさせてしまったようだ。
「カウンターの年輪を数えてたんだよ。ブンちゃんはこの辺かなあ……。先生は、その倍のここだな」
「違うよ、先生、もう少し、この辺じゃない?」
肇が差している位置より少なめなところに指を当てている。彼女のナーバスだった表情は一変して、仄かな甘味のある表情に変わっていた。
「ブンちゃんの年齢に、少しだけ近づいたね……」
「もっと近づけるといいね、先生……」
文子と肇は、じゃれ合ってる二匹の子猫になってしまったようだ。二人を見てみぬ振りをしているバーテンダー。ホッとしたのか、笑みを浮かべていた。
「先生に教えてもらってた頃、私ね……、先生のファンだったんですよ。勿論、今日来てた皆も。和彩美なんかは、私が先生を独占しているから、今頃機嫌が悪いかもしれませんね」
文子がニンマリとした。
「ほおー、そうだったんだあ、ファンねえ……」
「覚えてます? あの頃、先生が教えていた教室には、受講生百人ぐらいいましたよね。いつも一杯だった。ある時、先生が突然、『おい、そこ、寝てちゃダメだぞ、起きなさい! 何の為に来てるんだ? 意味無いだろ!』って」
「そんなこともあったな。口癖のように言ってたっけ、あの頃は……」
辞めてから、まだ半年も経っていないのに懐かしさが込み上げてきた。
「突然、先生が大きな声を出すものだから、私の斜め前で寝ていた男の子が自分の事だと思って吃驚してましたよ。形相が変わって不機嫌そうな顔をしてた。先生は、寝てる受講生全員に注意したんでしょうけど、言われてる方とすれば、自分の事だと思うんでしょうね。寝起きで不機嫌そうな彼等からすれば、『金払ってんだから文句言われる筋合いはねーんだよ!』って、言いたそうでしたよ」
受験生にとってみれば、この時期が人生を左右させてしまうかもしれない分岐点の手前にいる訳だ。だから、真剣に向き合い、彼等の手助けをしなければならない立場にいたのだった。
「先生は、彼等の眠気も覚ますつもりで注意したんだろうと思いますけど、他にも結構キツイことを言ってましたよ。その時、思ったんですけど『そんな奴ら、放っておいて早く講義を進めてくれよ!』そう思ってる受講生との狭間で、先生は悩んでいたのかなと……」
割り切って考えればいいとも思った。寝てる者は無視して、予定通り講義を進めるべきだったのかもしれない。確かに、当時、それは頭の痛い悩み事でもあった。受講者全員に理解してもらいたい、どうしてもそう考えてしまう自分がいた。高い授業料を払って受講してるのだから。況してや、親御さんの気持ちを考えると尚更だった。
結局、肇にはそれが出来なかった。4~5分講義が中断したとしても構わないと思ったのだ。寝ているとはいえ、そんな彼等を心配し応援してくれる人がいる、その思いを感じ取ってほしかった。自分のため? いや、違う、君たちがもっと頑張れる心のバネは、そこじゃないんだ、と。
「なんか、先生、凄い熱血でしたよ。あの頃……」
「仕事だよ、当たりまえのことさ。それが、いいのか悪いのかは考えなかったな……」
二人は同時に正面を向いた。ダークミラーに写っている互いの姿をクロスする視線で確かめ合っていた――。
「先生、好きですよ、あの頃から……」 (つづく)




